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冷血貴族の婚約拒絶録 ~オレは絶対に、結婚などしない~  作者: 小鈴危一
二章 聖女編

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――――第26話――――

「乳痢病そのものが原因で死ぬことは、ほぼないと言っていいでしょうねェ」


 エマの回復から、遡ること十日。

 執務室で、トレヴァーはゼノルとスウェルスを前に、そんな言葉から語り始めた。


「もちろん、患者の栄養状態にもよりますがね? ククッ」

「……どういうことです?」


 疑問を呈したのは、スウェルスだった。


「それならなぜ、乳痢病の流行であれほど人が死ぬのですか」

「脱水症状です」


 トレヴァーは即座に答える。


「乳痢病の代表的症状である、激烈な下痢。それによって体から水分が失われ、患者は死ぬのです」

「……それは本当ですか? なぜそんなことが言い切れるのです。下痢は単なる症状の一つで、別に死の要因がある可能性だってあるでしょう」

「そりゃあ、自分で試しましたのでねェ」

「は?」

「スウェルス」


 ゼノルが補佐官の名を呼ぶ。


「まあ、聞くがいい」

「ええ。心配されずとも順番に説明いたしますとも。ククッ」


 スウェルスが渋々口を閉ざすと、トレヴァーが説明を続ける。


「あれはここにご厄介になる少し前のこと。アタクシはずーっと、疑問に思っていたことがありました。乳痢病による、あの特徴的な白い下痢。あれを体外に出さなければ、いったいどうなるのかと。ひょっとしたら、症状の進行を抑えられるのではないか、と」

「体外に出さないとは……どのようにして?」

「当時は、肛門に栓でもすればよいかと考えておりましたねェ」


 絶句するスウェルスをよそに、トレヴァーは続ける。


「そんなある日、ちょうど近隣の街で乳痢病患者が出たという噂が入りましてね? もうアタクシはいても立ってもいられず、すぐ向かうことにしました! 仮説の検証をしたくてしたくて、たまりませんでしたのでねェ!」

「仮説の検証って……まさか、患者の肛門に栓をしたのですか!?」

「いえいえそれこそまさか」


 トレヴァーが大げさに手を振って言う。


「患者で試したんじゃあ、せいぜい治ったか治らなかったかくらいしかわかりません。元の栄養状態だってよくわからず、自然治癒との区別もつきにくい。それに、ついでに他の仮説も検証したかったのでねェ」


 困惑顔のスウェルスをよそに、トレヴァーは続ける。


「アタクシは以前から、病気の原因となる物質が存在するという病原体説を支持していました。その中でも特に、病原体の正体は目に見えないほど小さな生物であるとする、病原微生物説こそが真理ではないかと考えていましてね? 微生物が体を蝕みながら殖えることで、病を発症するのではないかと」


 病原体説は、医者の間でも支持する者が多い仮説だ。

 しかし、病原微生物説となるとその数は少なくなる。

 理由は単純で、物体を数十倍に拡大する高価な顕微鏡を用いても、そのような生物は発見できないからだ。


「この仮説が正しければ、患者の体内で殖えた、レンズを用いても捉えられないほどに小さな生物たちは、次の宿主を探しに体外へ出てくるはず。それを摂取すれば……理論上、自在に乳痢病を発症することができるというわけなのです!」

「まさか、あなた……」

「そう、アタクシが! 自ら発症してみることにしました。その方が症状の変遷なども、仔細に記録できますのでねェ」


 当然のように言ったトレヴァーに、スウェルスが顔を引きつらせる。


「しょ、正気ですか……? 乳痢病は、死ぬこともあるというのに」


 貧しい者から命を奪っているなどと言われている乳痢病だが、豊かな者が必ず助かるわけでもなかった。貴族が命を落とした例も山ほどある。


「しかし……具体的にどのようにして発症したのですか。病原体なんて目に見えない物を、意図的に接種するなんてこと……」

「まったく簡単でしたとも!」


 トレヴァーは、まるでそれが、愉快な成功譚であるかのように言う。


「患者の下痢を、ただ飲むだけでよかったので」

「…………は?」

「ですから、患者の下痢をそのまま飲んだのですよォ。もしもアタクシの予想が正しければ、乳痢病の最も特徴的な症状である下痢には、大量の病原微生物が含まれているはず。ククッ……これが大当たり! 一発で発症しました! やはり病原微生物説は正しかったのです! いやぁ、あの時はうれしかったですねェ!」


 トレヴァーは上機嫌に言い切った。

 話の衝撃に、スウェルスが愕然としながら問う。


「な、なぜ……そこまでして……」

「ン? そりゃあ、知りたかったからですよォ。ククッ」


 トレヴァーは気の触れたような笑みで語る。


「アタクシは知りたくて知りたくてたまらなかった! アタクシの考えは正しいのか、間違っているのか。間違っているとしたら、何が真実なのか。それを知る手段が目の前にあったならば……クック、そりゃあ実行しますとも。当然ね」

「スウェルス。トレヴァーはこういう男だ」


 言葉を失っている補佐官に、ゼノルが告げる。


「だからこそ、常人には見つけられない真実を探り当てる。続けろ、トレヴァー」

「ええ。たしか、首尾よく乳痢病にかかったところまで話しましたか。その後予定どおり、下痢を押しとどめるべく肛門に栓をしてみたのですが……結果は検証不可能。実に悔いの残る実験でした。詳細は省きますが、アタクシとしたことが少々準備不足でしてね。瀝青(タール)などで完全に肛門を塞げていれば、あるいはといったところでしたが」

「そういう問題ですか!? うまくいくわけないでしょうそんなの!」

「まあそんなわけで、主目的の検証は早々に断念したのですが、そこで下痢に苦しむアタクシは困ってしまいました。やることがない。それどころか、このままでは死んでしまう」

「困るのが遅すぎるのでは!?」

「そこで、別の検証をしてみることにしたのです。下痢を押しとどめる、代替となる検証を」


 トレヴァーはただただ語り続ける。


「出す方は止められない。ならば、出て行くそばから入れ続ければいい! 逆転の発想です」

「逆転って言うんですか、それ……」

「とはいえ自分の下痢を飲み続けるのは、さすがに抵抗がありました。含まれる病原微生物をそのまま接種し直すことになってしまいますしねェ。となると、下痢に代わるものを飲む必要がある。そこであらためて、観察と考察を行いました。下痢によってアタクシが失ったものは、果たして何か?」


 トレヴァーは得意げに続ける。


「最終的に、水と塩気であるという結論にいたりました。通常の糞便に比べ、下痢ははるかに水分を含みます。また最初に患者の下痢を飲んだとき、塩辛さを感じました。水も塩気も人体に必須で、不足によって体調を崩すことは古来より知られています。これを補給し続ければ、下痢を押しとどめることに近い状態を再現できる! アタクシはそう考え、水に塩を少量溶かしたものを飲み続けることにしたのです」

「それで……どうなったのですか?」


 失敗したに決まっていると言いたげな顔のスウェルスに、トレヴァーは気の触れたような笑みで答える。


「劇的な効果がありましたよォ! 手足の皮膚には張りが戻り、痙攣も治まり、助手によれば顔色もよくなったとのことです。自分でも、明らかに体調の改善を感じ取れました!」

「まさか……そんなことで?」


 スウェルスが信じられないといった調子で言う。


「塩水を飲む程度のことで、乳痢病が治ったと……?」

「残念ながら、それだけで治りはしませんでした。体調はいくらか改善したのですが、どうも体力が戻りませんでねェ。自然治癒することがないよう、発症前に念入りに絶食し、栄養状態を悪くしていたせいだったかもしれませんが」

「いやそれでしょう!」

「そこで、塩水に蜂蜜を溶かしてみることにしました。蜂蜜は古くから滋養強壮効果があるとされていますし、あとたまたま手元にあったのでね。これが大正解! 明らかに体力の向上が感じられました! 別々のタイミングで接種すると効きが弱まった気がしたので、塩水との相乗効果があるのかもしれませんねェ。ともかく!」


 トレヴァーが感極まったように言う。


「水、塩、蜂蜜! これらのおかげで、アタクシは重症状態からの生還を果たしたのです! 乳痢病の治療法は、このとき確立されたのですよォーッ!」

「そういうわけだ。わかったなスウェルス」


 有無を言わせない口調で、ゼノルが告げる。


「清浄な水、それに塩と蜂蜜だ。療養所の設置と合わせ、早急に手配しろ。乳痢病の流行を収束させる」

「いやいや、本気ですか!?」


 スウェルスが唖然としながら言う。


「そんなありふれたものを飲ませただけで、本当にあの乳痢病を治せると?」

「トレヴァーは別の患者にも同様の治療を施し、効果を上げている。それに、理屈も通っているだろう。水と塩気の不足は、時に深刻な不調をもたらす。下痢によるそれらの喪失について、これまで誰も気に留めなかったことが不思議なくらいだ」

「しかし……ならばなぜその治療法が、未だに広まっていないのですか。それほど簡単に治るのなら、あちこちで試みられていたって……」

「単純なことだ」


 ゼノルがトレヴァーを視線で示しながら言う。


「このような男の言うことを、誰が聞き入れる? いつも怪しげな薬品を混ぜ合わせ、死骸を解剖し、病人の糞便まで飲んで、患者も自分自身さえも、実験動物としか思っていないような男の言うことを。多くの人間は、もっと良識のある普通の医者の言うことを聞くだろう」

「そ、それは……」

「オレは違う」


 ゼノルは足を組みながら言う。


「狂気じみた探究心を、オレは評価する。このような男でなければ、到達できない真理がある」

「ヒャアッ! いやぁ、感謝いたします! 常日頃から支援してくださるゼノル様には、いくら感謝してもし足りないほどです! アタクシの頭脳が必要ならば、いつでもお貸しいたしますよォーッ! あ、そうそう」


 そこでトレヴァーは思い出したように、手にしていた紙を事務机の上に広げた。


「乳痢病と聞き、そういえばこれもあったなと。おそらく、参考になるかと思うのですが」

「なんだこれは? どこかの街の地図か?」


 ゼノルが紙を覗き込む。

 それは一見すると、どこかの街の一区画を描いた、地図であるようだった。


「だが……このいくつも打たれている点はなんだ?」

「それは乳痢病患者の出た地点です」


 トレヴァーが説明する。


「アタクシが発症してすぐ、その街にも本格的な流行が始まりましてね? 助手に命じて調べさせたのですよ。クク、その結果、なかなかおもしろいことがわかりました。ゼノル様、これを見て何かお気づきになられたことはございませんか?」

「……患者はある地点を中心として、集中的に発生しているようだな。人から人へ伝染る病ならば、おかしなことではないのかもしれんが……」

「ククク……では、患者の点が最も集中している場所の中心には、何があったと思われますか?」


 ゼノルの反応を待たず、トレヴァーが言う。


「井戸ですよ」

「……!」

「乳痢病は、この井戸を利用していた市民から発生が始まりました。この病の病原が目に見えない生物だとすれば、それらが最初に湧き出ていたのはどこなのか……この地図が示しているとは思われませんか?」

「……」

「残念ながら当時のアタクシは、この事実を元に市長や参事会へ井戸の使用停止を助言できるような立場ではございませんでした。まあそれ以前に死にかけていましたしね? ですが……今は違う。いかがでしょう、ゼノル様。アタクシの仮説、この機に検証されてはみませんか」

「……スウェルス。早急に調査を始めろ」


 ゼノルが鋭い声で補佐官に命じる。


「原因地点を特定する。井戸ならば封鎖だ。塩や蜂蜜の手配と並行し、可能な限り迅速に実行しろ」

「……いえ」


 スウェルスが少し考えて、主の命に異を唱える。


「疑わしい地区の井戸を、先に封鎖すべきです」

「……!」

「調査にはどうしても日数を要します。その間にも流行は広がるでしょう。ならば、先に手を打つべきかと。それと患者の糞便に病原が含まれているのなら、それらはすべて焼却処分する必要があります。汚水溜め等は使用禁止にし、廃棄場所を定め、違反者には罰則を科せるようにしなければなりません。そのためには市条例の改正も必要ですね。患者へ配給する水も、採取場所には細心の注意を払わなければ」


 そこでゼノルの視線に気づき、スウェルスは嘆息して言う。


「病に関して、私は門外漢ですからね。多少怪しげでも、医者の言うことには素直に従いますよ」

「うむ、貴様はそれでいい。実務は任せたぞ、スウェルス」

「はっ」

「クックック……ではアタクシはこれで。そろそろ実験に戻りますので」

「何を言っているのですか。あなたにも仕事があります。しばらく実験などしている暇はないと思ってください」

「クク……その仕事、助手ではいけませんかねェ? アタクシにはやり遂げなければならない実験が……」


 スウェルスとトレヴァーが去った後、ゼノルは一つ息を吐いて、椅子の背もたれに身を預けた。

 背後の窓を振り仰ぎ、空を眺めながら呟く。


「……さて。人の叡智が、果たして神器に勝れるか。見物だな」


 その顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。


「それはそれとして……あの女もきっちり、やり込めておかねば」

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