――――第25話――――
洗濯女のハンナは、貧民地区の狭い集合住宅の一室に、幼い妹と共に暮らしていた。
両親をすでに亡くしたハンナにとって、妹は唯一の家族だ。
だが……そんな最愛の妹は今、青白い顔で床に伏せっている。
「エマ、ほら。これを飲むんだよ」
ハンナが匙で、妹の口元に粉末状の薬を運ぶ。市で薬師から買った、乳痢病にも効くと噂の高価な薬木の粉だった。
だが、エマはそれを一瞬口に含むも、すぐに咳き込んで吐き出してしまう。
「ああっ……ダメじゃないか! ちゃんと飲まないと治らないよ!」
「お姉ちゃん……水、ちょうだい……喉渇いた……」
虚ろな妹の声に、ハンナは首を横に振る。
「これは水と一緒に飲んじゃダメなんだ。そう薬師の先生が言っていたからね」
ハンナはそう言って、嫌がる妹に薬木の粉末を強引に飲ませる。
咳き込む妹を心配そうに見つめながら、ハンナは無理に笑って言う。
「これで大丈夫。きっとすぐに治るさ」
言葉とは裏腹に……ハンナは、もうダメかもしれないと思い始めていた。
生活が苦しいために、エマには十分な食事を与えられていない。乳痢病が貧しい者の命から奪っていくことは、よく知られたことだった。
ハンナが買える程度の薬で治るのなら、この病はここまで恐れられてはいないはずだ。
「エマ……」
ハンナは、すっかり張りの失せた妹の手を握る。
最後の家族まで喪うことを思うと、胸が張り裂けそうだった。
その時――――コンコンと、家の扉が叩かれた。
「……?」
自分たちを訪ねてくる人物に、心当たりはない。
ハンナは不思議に思いながら、恐る恐るドアを開ける。
「むっ、住人がいたか」
そこにいたのは、軍装に身を包んだ二人の男だった。
腰に剣を提げ、口は布を巻いて覆っている。背後の道には軍用の馬車が二台停まっていた。
男の一人が言う。
「女、偽りなく答えろ。貴様は乳痢病に罹っているか」
ハンナは直感する。この二人は――――エマを連れ去りに来たのだ。
乳痢病の拡大を恐れた領主が、兵を使って病人の隔離を始めたに違いない。
ハンナはすばやく首を横に振る。
「そんなわけないよ。見てわからないかい」
「では、貴様の同居人で罹った者は」
「いないよ。ここに住んでいるのはあたし一人さ。さっさと帰っておくれ」
隔離された病人がどうなるか、ハンナはよその街から来た行商人から聞いたことがあった。
劣悪な環境に置かれ、満足な食事も与えられないまま、死ぬまで放っておかれる。
エマをそんな場所に連れて行かせるわけにはいかない。
「……」
二人の兵は、無言で目配せし合う。
ハンナがそのまま扉を閉めようとしたとき……不意に、男の足が差し入れられた。
「中を検めさせてもらう」
「ちょっ、何するんだい!?」
「抵抗するな! 扉を開けろ!!」
ハンナは必死に扉を閉めようとするが、兵士二人の力には敵わない。
「やっ、やめとくれよ!!」
ハンナの叫びも虚しく、扉が開け放たれ、男二人がなだれ込んでくる。
室内で足を止めた二人の兵士の目は、床に横たわって浅い呼吸を繰り返す、エマに向けられていた。
「この子は……乳痢病なんかじゃない。少し体調を崩しているだけなんだ」
エマの声に、兵士たちは耳を傾ける様子はない。
室内に充満する、甘さの混じる生臭い臭気。木桶に溜まった、白みがかった下痢。誤魔化すには無理があった。
兵士二人は、二言三言、小声で話し合っていた。
やがて一人が、ハンナに向き直って言う。
「女。貴様は健康だと言ったな」
「え……? あ、ああ。そのとおりだよ」
「この患者の面倒は貴様が見られるか」
ハンナは意味がわからないながらも、ただうなずく。
「も、もちろんだよ」
「この地区の公共井戸は閉鎖する。汚水溜めも使用禁止だ。この家から出る汚物はすべて、指定箇所に廃棄してもらう。違反すれば、領都市条例に基づき罰金もしくは労役刑だ。守れるか」
「そ……それくらい、なら」
洗濯女であるハンナは、体力には自信があった。井戸やゴミ捨て場が少々遠くなる程度なら、問題はない。
二人の兵士は互いにうなずき合うと、一人がハンナに告げる。
「ではこの患者は引き続き、ここで療養させるように」
「えっ……い、いいのかい?」
「療養施設の人手にも限りがあるんでね」
驚くハンナに、別の一人がやや気安い調子で言った。
「看病できる者がいるならなるべく自宅療養させろというのが、ゼノル様の命なのさ」
一拍置いて、ハンナはほっと胸をなで下ろした。
少なくとも、エマと離ればなれにならずに済む。
「ではこれより治療用の物資を搬入する。扉は開けたまま、しばしここで待て」
そんなことを言い残し、兵士たちが軍用馬車に戻っていく。
ほどなくして、二人は呆気にとられるハンナのもとに、大きな甕を一つと、やや小ぶりな壺を二つ抱えて戻ってきた。
重そうな音とともに、甕が床に置かれる。
「な、なんだいそれは」
「清浄な水だ。それと、塩と蜂蜜もある」
「蜂蜜だって? そんな高価なものをどうして……」
「いいか、よく聞け」
兵士の一人が説明を始める。
「大振りなコップに水を満たし、そこに塩をひとつまみ、蜂蜜を匙一杯分だけ混ぜろ。それを可能な限り少しずつ、細かい間隔で患者に飲ませ続けるんだ。それが乳痢病に対する治療となる。できるか」
「あ、ああ……。それだけかい?」
「体力が残っていればそれだけで治ると、ゼノル様お抱えの医師が仰せだ。またかえって害になりかねないため、余計な薬は飲ませるなとのことだ」
「わ、わかったよ」
ハンナはうなずく。
蜂蜜が薬になることは、ハンナも知っていた。乳痢病にまで効くとは聞いたことがなかったが、エマが助かる可能性があるならばひとまず信じるしかない。
「それと今後、貴様も水を飲用する際には、どこの井戸のものであろうと必ず煮沸するように。では我々はこれで失礼する」
「日を置いてまた来るよ。その子、よくなるといいね」
多忙なのか、兵士二人は慌ただしく去って行った。
兵士がいなくなると、ハンナは早速、言われたとおりに甕から水を汲んで、塩と蜂蜜を溶かした。
それを、エマのもとに持っていく。
「エマ、水だよ。飲めるかい」
半身を起こさせ、少しずつ飲ませる。
喉が渇いていたためか、エマはほとんど咳き込むことなく素直に飲んでいた。
「お姉ちゃん……さっきの人たちは……」
「気にしなくていいんだよ」
「わたし……お姉ちゃんと離れたくないよ……」
「そんなことにはならないよ。いいから、これを飲むんだ。ゆっくりね」
ハンナは夜が更けても、塩と蜂蜜を溶かした水をエマに飲ませ続けた。
そして――――、
「……っ! エマ!?」
採光窓からの光に、ハンナは飛び起きた。
いつのまにか夜が明けている。気づかないうちに眠ってしまっていたようだった。
薬は細かい間隔で飲ませ続けなければならない。兵士の言葉を思い出し、慌てて立ち上がろうとしたハンナのそばで……声が響いた。
「お姉ちゃん?」
ハンナは振り返る。
そこには、床の上で半身を起こした、エマの姿があった。
昨日までぐったりしていたにもかかわらず、自力で起き上がれている。顔色もよくなり、心なしか肌にも張りが戻っているようだった。
「おはよう、お姉ちゃん」
「エマ!!」
ハンナは思わず、妹を抱きしめる。
「もうよくなったのかい?」
「うん……昨日より、調子がいいみたい。もう自分で立てそう」
信じられない気持ちだった。
水に少量の塩と蜂蜜を溶かしたものを飲ませただけで、ここまで病状がよくなるだなんて。
「無理はしちゃいけないよ。待ってな、薬を持ってくるからね」
ハンナはすぐに薬を作り、エマへと持っていく。
エマはそれを、自分で飲めるまでに回復していた。
「昨日はわかんなかったけど……これ、あんまりおいしくないね。蜂蜜だけ食べたいかも」
「馬鹿言っちゃいけないよ」
ハンナは涙ぐみながら笑って言う。
「せっかく領主様がくださったんだ。言われたとおりに飲まないと、治るものも治らないよ」
ゼノル・グレン・ロドガルド。冷血卿などと呼ばれているこの街の領主のことを、ハンナはずっと、呼び名どおりの冷血漢だと思っていた。始祖の再来たる賢君などという噂も、所詮は配下の者に流させた偽の評判にすぎないと。
だが……本当の冷血漢ならば、病に苦しむ下層民に対し、塩や蜂蜜を施したりはしないだろう。
昨日よりもずっと早くコップの水を飲み終えて、エマは言う。
「領主様って、すごいんだね。病気の治し方まで知ってるなんて」
「ああ、そうさ」
ハンナが潤んだ目を細めてうなずく。
「だから、ちゃんと感謝するんだよ」




