――――第24話――――
「ありがとうございます、ありがとうございます、聖女様……!」
古びた集合住宅の一室で、痩せた中年女がラニスにすがりつくようにして礼を言っていた。
小さな採光窓しかない、昼間でも薄暗い室内には、微かに甘さの混じった生臭い臭気が漂っている。典型的な、乳痢病患者の住まいだった。
部屋の隅には、藁の寝床の上にその患者が寝かされていた。
まだ十代前半の少年。傍らには乳白色の下痢が溜まった桶が置かれている。
本来このような便が出るようになれば、病状も末期で死が近いと言われる。実際つい先ほどまでは、いつ息を引き取ってもおかしくないような状態だった。
だが……今は少年の血色も良くなり、呼吸も落ち着いている。典型的な末期の症状である手足の皺も消え、肌には張りが戻っていた。
『ナイフ』によって流された、ラニスの血。それを数滴落とした水を一杯、飲ませただけだった。
たったそれだけのことで、少年の症状は劇的に緩和した。おそらく明日には、立って歩けるようになるだろう。
神器の権能は、それほどに絶対のものなのだ。
ラニスは、間に割って入ろうとする神官を手で制し、少年の母親である中年女に微笑みかける。
「当然のことをしたまでなのだわ」
「そんな……うう、なんとお礼を言ったらいいか」
「気にすることないのだわ。ワタシのことをこれから応援してくれるのなら、それで十分」
「応援……はい! 応援、します……! 私も息子も、どんなことがあろうとも聖女様の味方です……!」
それを聞いたラニスは、満足そうに笑って告げる。
「ありがとう、うれしいのだわ! あなたにも神の祝福を」
護衛の神官らとともに、ラニスは集合住宅を後にする。
その時――――不意に、ラニスの身が傾いだ。
とっさに右手を建物の壁について支えようとするが、包帯の巻かれた腕に体重が掛かるやいなや、ラニスは表情を歪めてへたり込んでしまう。
駆け寄る神官たちを制するように、ラニスは言う。
「大丈夫なのだわ。少し疲れただけ……」
「あまり、ご無理はなさりませんよう」
声に、ラニスは顔を上げる。
目の前に立っていたのは、上級神官のダグライだった。
ラニスは意外そうに笑って言う。
「あら。どうしたのかしら、こんなところに。あなたにまで付き合ってもらう必要はないのだけれど」
「そんなことよりも、いくらか休まれてはいかがですか。ラニス様」
いつものように無表情なダグライの顔にも、若干の心配の色が浮かんでいた。
「毎夜『ナイフ』で血を流し、日が明ければ領都を回るような生活では、いつ倒れられてもおかしくありません。そのうえ乳痢病にかかった者の住まいを自ら訪れるなど……近く、ご自身でも発症してしまいますよ」
「そのときには、自分でこれを飲むだけなのだわ」
そう言ってラニスは、包帯の巻かれた右手で赤い液体の入った小瓶を取り出すと、笑いながら揺らして見せた。
ダグライはわずかに眉をひそめて言う。
「せめて、有力者への対応のみに集中されては?」
「ダメよ」
ラニスははっきりと言う。
「豊かでも貧しくても、一人は一人。ワタシはみんなから応援してもらわなければならないの。偉い人にだけ好かれればいいわけではないわ」
「……」
「見返り目当ての善行なんて、すぐに気づかれる。そういう偽善は時に、ものすごく嫌われる原因になるの。効率なんて考えていてはダメ」
「……」
「それに……放っておけないしね」
ラニスは立ち上がりながら、仕方なさそうに笑って言う。
「みんな、身近な誰かが死ぬのは嫌なのだわ。それはよくわかるもの」
「……では、お好きになさってください」
呆れ混じりに言ったダグライに、ラニスは皮肉を込めて返す。
「ごめんなさいね。でもワタシの縁談が決まらなければ、あなたの出世も望めないのではないかしら?」
「私のことを気にされる必要はありません。それよりも、少々お耳に入れておきたいことが」
ダグライはラニスに歩み寄ると、声をひそめて言う。
「……ゼノル卿に動きがありました。どうやら兵を動かしているようです」
「ふうん?」
ラニスが小首をかしげる。
「乳痢病への対策をとるのかしら。流行している地区の封鎖と、病人の隔離は基本だものね。でも……」
ラニスがにやりと笑って言う。
「それ、けっこう嫌われるのよね。住み慣れた場所を追い出されて、家族とも離ればなれになることを喜ぶ人なんていないもの。隔離された病人も、半分くらいはそのまま死んじゃうしね。ワタシにとっては追い風と言っていいのだわ」
「いえ」
ダグライが無表情のまま否定する。
「それだけではないようです」
「……? どういうこと?」
「どうやらゼノル卿は兵を使い、乳痢病患者を治療して回らせているようなのです」
ダグライは、静かに言う。
「それも……少々奇妙な方法で」




