――――第23話――――
ラニスが去ってほどなく。例によって、執務室にはゼノルとスウェルスの姿があった。
「申し訳ありません、ゼノル様……」
珍しく、スウェルスが本当に申し訳なさそうな顔で言う。
「たしかに報告が遅かったです。せめて一日早くお伝えできていれば、聖女様の来訪にも備えられたのでしょうが……」
「……いや」
ゼノルが静かに言う。
「昨日知ったところで、今日できることは限られただろう。先ほどのように、聖女をつついてみる程度がせいぜいだったはずだ」
「つついてみる、とは……あの、突然始められた神学論争のことですか?」
スウェルスが疑問の表情で言う。
「あれにはいったいなんの意味が……? 聖女様相手に、上級神官の前で始めるには、少々危うい論争だったように思えるのですが」
「あの女自身の思惑を探りたかったのだ。まあ案の定実を結ばなかったが……意外と学があることはわかったな」
「たしかに、ゼノル様の主張にも淀みなく言い返されていましたね。一応位階が大神官ですし、それなりに勉強させられたのでしょう」
ゼノルは内心で同意しつつ……一方で、先の議論には引っかかるものも感じていた。
違和感を言葉にできないでいると、スウェルスが重苦しい口調で話しかけてくる。
「それで……どうされますか、ゼノル様。さすがにもう、様子見している場合ではないように思えるのですが……」
「……そうだな」
違和感の正体は後回しにし、ゼノルは補佐官にうなずく。
「このまま傍観を続ければ、乳痢病が拡大するうえに聖女の支持は増していくという、最悪の状況に陥る。それはなんとしても避けねばならん。早急に手を打つぞ」
「わかりました」
スウェルスが表情を引き締めて言う。
「では伝染病対策の定石である、発症者の隔離および特定地区への立ち入り制限を実施しましょう。それだけで、流行の拡大はある程度抑えられるはずです」
「いや」
ゼノルが、即座に首を横に振る。
「それも必要ではあるが、今回はもっと踏み込んだ対策をとる」
「踏み込んだ対策……とおっしゃいますと?」
「原因を突き止め、発症者にも十分な治療を施す。徹底的に、乳痢病の流行を沈静化させる。このオレの手でな」
「ええっ!?」
スウェルスが驚いたように言う。
「いや、しかし……乳痢病に効く薬などは見つかっていませんから、十分な治療といっても限度があるのでは? それに、原因もわかっていなかったはずですが……」
「春先に流行の兆しが見られたため、この状況は想定していた。いいかスウェルス。これは危機であると同時に、好機でもあるのだ」
「好機ですか? いったい何の?」
「無論、聖女から民衆の支持を取り返すための、だ。ここでどれほど有効な手を打てるかが今後の鍵となる。それには……あの男の力が必要だ。すでにこの場に呼んである」
「あの男、というと……まさか」
スウェルスが微妙に嫌な顔をした、その時。
「クックック……お呼びでしょうか、ゼノル様」
執務室に、やや高い男の声が響いた。
ゼノルとスウェルスが、そろって声の方に顔を向ける。
そこには扉にもたれかかるように、痩せぎすの男が一人、佇んでいた。
「ククッ、なにやらアタクシの頭脳に用がおありのようで」
柳にも似た印象の、ひょろりとした若い男だった。
薄汚れた白衣を身に纏い、顔には大きな丸眼鏡を掛けている。
その口元には、悪巧みでもしているかのような笑みを浮かべていた。
「わかりますよォ……アタクシには。ゼノル様! そろそろご自身でもガラス鏡を製作してみたくなったのでしょう!?」
「……トレヴァー」
「ヒャアッ! わかりますよォーッ! 本来ガラス鏡は腕のいい職人が手間暇をかけてやっと作り上げるもの! しかしアタクシの考案した方法を使えば……ゼノル様のようなド素人でも簡単にッ! お作りいただけますのでねェ! 材料としてはまず板ガラスと、硝石、緑礬油、銀、蜂蜜に火炉の霜……」
「トレヴァー、一度黙れ」
捲し立てていたトレヴァーなる男は、そう言われてぴたと口を閉じた。
ゼノルは疲れたように溜息をついて言う。
「そうではない。貴様を呼んだのは……」
「おんやァ? クク、これは失敬! どうやらアタクシの勘が外れたようでございますねェ。ではやはり、新たな成果をご所望で? ヒャアーッ! 喜んでご報告いたしますとも! 普段は食客の立場で好き放題研究させてもらっておりますからねェ、アタクシの頭脳からひねり出した真理くらい、いくらでも提供いたしますよォーッ! 最近の面白い成果といえば熱を回転運動に変換する装置を作りましてねェ、磁石や鉄を熱すると磁性が消失する現象はご存じでしょう? それを利用して……」
「トレヴァー、黙れ」
トレヴァーがまた、ぴたと口を閉じた。
ゼノルは頭痛をこらえるかのような表情で言う。
「貴様は本当に人の話を聞かんな……。発明とやらは、今はいい。貴様に医者として働いてもらう時が来た」
「ヒャアッ、喜んで! それで、患者はどこに?」
キョロキョロと執務室内を見回すトレヴァーに、ゼノルは言う。
「これから増えることになる。乳痢病が領都で広まり始めた」
「おやァ……乳痢病でございますかァ。ずいぶんと懐かしい響きですねェ」
トレヴァーが言う。
先ほどまでとは打って変わり、明らかにつまらなそうな口調だった。
「しかしながら……あの退屈な病に対し、今さらアタクシが何をすれば?」
トレヴァーは、普段は金属を溶かしたり、薬品を混ぜ合わせたり、石や動物の死骸を持ち込んでは中身を観察している奇矯な人物であるが、本職は医者である。
ゼノルが自ら、見出した人材の一人だ。
そのぼさぼさ頭を掻きながら、トレヴァーはまるでそれが、議論の余地のない事実であるかのように言った。
「乳痢病の真理なんて、すでに見つけてしまったんですがねェ」




