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冷血貴族の婚約拒絶録 ~オレは絶対に、結婚などしない~  作者: 小鈴危一
二章 聖女編

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――――第22話――――

「やっほー、ゼノル。久しぶりね」


 およそ一月半ぶりに屋敷を訪れたラニスは、右腕に包帯を巻いていた。


「あ、これ? ちょっと今、善行を積んでいるところなのよね。ゼノルももう聞いているかもしれないけれど」


 そう言ってラニスは、右腕を掲げてみせる。

 長手袋の代わりに包帯の巻かれた腕は、痛々しいものだった。

 しかしラニスは特に気にする様子もなく、その右腕で茶杯を持ちながら言う。


「大したことない怪我なのだわ。気にしないで」

「ふん……今日は神器を持ってきてはいないのか?」


 ゼノルの言葉に、ラニスは茶を一口飲むと、目を細めて答える。


「持ってきているわ、一応。神器でも刃物だし、難癖を付けられても困るから見せるのはやめておこうかとも思ったのだけれど……出していいかしら?」

「かまわん」


 ラニスが目配せすると、背後に控えていたダグライが、携えていた木箱を応接室のテーブルに置いた。

 その蓋が開けられる。

 中に収められていたのは……白い金属でできた刃を持つ、古びたナイフだった。


「……ほう」


 ゼノルがそれを冷たい目で見下ろしながら言う。


「それが『ナイフ』か。思っていたよりも小ぶりだな。いかにも神器らしい、奇妙な外観をしているが」

「そうかしら? ただの古びたナイフじゃない?」

「神の創造物に対し、聖女殿が滅多なことを言われるものだ」

「この世界に神の創造物でないものなんてないのだわ。邪魔な石ころや、意地悪な貴族にも悪態をつけないなんて、窮屈すぎると思わない?」


 含みのある言い方をしたラニスが、『ナイフ』の刃に左の指先で触れながら続ける。


「でも、見た目こそこんなでも、『ナイフ』はすごく役に立つわ。よほどひどいものでなければ、どんな怪我も病気もこれで治せてしまうのだから。代わりにワタシは、ちょっと痛い思いをするのだけど」

「……」

「ねえ、ゼノル。あなたの領民たちの中には、困っている人がたくさんいたわよ? 彼らに涙を流して感謝されたこと、一度や二度ではないもの」

「それはご苦労なことだったな。婚約の話はとうに立ち消えたにもかかわらず、いつまでこの街に居座っているのやらと思っていたが、まさかそんなことをしていたとは」


 まったく気後れする様子なく、それどころか嫌みさえ付け加え、ゼノルが言う。


「領主として謝礼を出そうではないか。望みの物を言うがいい」

「アハッ、ありがとう。でも謝礼なんていらないのだわ。これはただの、ワタシ個人の善行だもの」

「神官には珍しく、欲のないことだ。それとも……対価が目当てだったと民衆に誤解され、支持を失うことを恐れるか?」

「邪推がすぎるのだわ。まるで、後ろめたいことがあるみたいに」


 ラニスが茶杯の液面を見つめながら言う。


「ねえ、ゼノル。ワタシに謝礼なんて出すよりも先に、あなたが困っている領民たちを救ってあげるべきだったのではないかしら? 領主として、彼らの庇護者として。ただ税を搾り取るばかりが貴族の仕事ではないのだわ。神も、きっとそうおっしゃっている。ワタシはそんな気がするの」

「……何が言いたい」

「あなたが自らの責務を放棄するのなら……ワタシが、彼らを導いてあげるしかない。幸い、近頃は『ナイフ』の評判を聞きつけた偉い人たちが、ワタシを支援すると言ってくれるようになった。みんなで力を合わせれば……意地悪な怖い貴族だって、懲らしめることができるようになる」

「ふん。もったいぶった言い回しは神官のお家芸だな」


 ゼノルが鼻を鳴らして言う。


「オレは何が言いたいのかと問うたはずだ。率直に要求を言え」

「ワタシと結婚するのだわ、ゼノル。さもなければ――――あなたの民は、いずれあなたに反旗を翻すことになる」


 ゼノルの鋭い眼光を正面から受け止めてなお、微笑みながらラニスはそう言い切った。

 聖女の脅迫を鼻で笑いながら、ゼノルは返す。


「はっ、やはりそうきたか。意外性も何もなくつまらんな」

「返事を聞かせてくれるかしら」


 微笑を保ったまま、ラニスは言う。


「それとも、また検討する?」

「必要ない。答えは否だ――――オレは絶対に、結婚などしない」

「はあ……あなたも頑なね」


 ラニスが呆れたように溜息をついて言う。


「神の意志が、そんなに理解できないかしら? ワタシとの婚姻は、あなたの実利を考えても決して悪いものではないはずなのに」

「頑なはこちらの台詞だ。一度あしらわれた男にすがりつくとは、ずいぶんと見苦しい聖女もいたものだ。しかもあろうことか、それが神の意志だと? 戯れ言がすぎる」

「あら」


 ラニスが口の端を吊り上げ、まるで事実を念押すかのような口調で言う。


「神の意志は絶対よ。ワタシたちの創造主は確かに存在し……被造物のことを見つめている。ワタシにはそれがわかるの」

「わかる、とは?」


 ラニスは語る必要もないとばかりに、微笑を浮かべるだけだった。

 ゼノルはわずかに迷うようなそぶりを見せた後、口を開く。


「そもそも、この世界の創造主などという存在こそ疑わしいものだ」


 ラニスの背後に控えていたダグライの眉が、わずかに動いた。

 ゼノルの発言は、教団の教えを明確に否定するものだ。立場のある神官の前で行えば、教団との関係に軋轢を生みかねない類のものだった。

 しかしラニスは、わずかに興味深そうな顔をしただけで、まるで続きを促すかのように沈黙していた。

 ゼノルは続ける。


「仮にそのような存在があったとして、そいつ自身は誰が作ったのだ。別の神か? ではその神を作ったのは誰なのだ。また別の神なのか? この神を作った神という概念は、どこまで後退しても終わりが来ない。すべてを作った神にたどり着くことは決してないのだ。つまり論理的に考えれば、この世界の創造主などいないということになる」

「あー、無限後退問題ね」


 ラニスが左手で頬杖をつき、どこかおもしろがるように言う。


「たしかにあなたの言うとおりなのだわ。でもね、道具には必ず作った人がいるでしょう? 人間にだって生みの親がいる。川にも始まりが、光にだってその源がある。すべての存在に原因があるってことには、あなたも同意するはず。じゃあ、この世界の原因は? 神の存在なしに、世界の始まりをあなたはどう説明するの?」


 わずかに眉をひそめるゼノルに、ラニスは続ける。


「もしなにかしらの説明ができたとして、じゃあその原因は? そのさらに原因は? たとえ神を想定しなくても、原因が無限に後退していくことに変わりはない。それどころか……因果を超越した第一の原因、つまり創造主を想定しなければ、この無限後退問題を解決して、世界の始まりを説明することは決してできないの。これって、神の存在を示していることにならない?」


 ゼノルは、内心でラニスに対する認識をあらためた。

 聖女を身内に抱え込むために与えられた、お飾りの大神官ではない。ラニスは神学の基礎を学んでいる。


「第一の原因を想定するのはいいが、それが神である必要はないだろう」


 ゼノルは反論を試みる。


「意思を持たない現象であってもいいはずだ。そこに神という人格をもった概念を持ち込むのは、結論ありきの恣意(しい)的な誘導に聞こえる」

「もしも第一の原因に人格がないのなら、この世界にあふれる奇跡はどう説明するのかしら。毎日必ず太陽が昇るのはなぜ? 世界が突然炎に包まれたりしないのはなぜ? ワタシたちに心があるのはなぜ? 人間にとって、世界がこんなに都合よくできているのはなぜなのかしら? たった一つの奇跡が欠けただけで、ワタシたちはこうして話し合うことすらできないというのに。無機質な現象によって偶然そうなったなんて説明で、あなたは納得できるの?」

「逆だろう。偶然人間にとって都合がいい世界だったからこそ、人間が生まれ、このような問答も交わせるのだ。もしも奇跡が欠け、毒虫が這うばかりの世界になっていたならば、そのときは毒虫たちが神の奇跡に感謝していただろうな。この世界は毒虫にとって、なんて都合よくできているのだろうか、と」

「そんな可能性があってもなお、この世界には人間が生まれた。心を持ち、神を信じられる唯一の生命が。それって、やっぱり奇跡じゃない? 偶然と主張することもできるかもしれないけど……創造主の意思が働いたとする方が、あらゆる奇跡をシンプルに、矛盾なく説明できるのだわ」

「……」


 ゼノルは何か思案しているかのように、じっとラニスを見つめていた。

 だがやがて目を閉じると、


「……どうにも、平行線だな」


 そう言って、議論から身を引くように長椅子の背もたれに体重を預けた。


「このあたりにしておくことにしよう。別にオレは無神論者でもない。このような論争など、その実どうでもいい」

「自分からふっかけてきておいてよく言うのだわ。でも、いるかいないかは別として……神を信じていた方が、人はよりよく生きられると思わない? 普遍的な善悪の基準を、苦しみにも終わりがあることを、死後に訪れる生を信じることができなければ、生きるのはとても大変なことなのだわ。ねえゼノル……あなたも、神の意志に沿う気はない?」


 ゼノルはわずかに眉をひそめ、一拍置いて言う。


「明日雨が降るとどれだけ信じていたところで、実際に雨が降るかはそれこそ神の機嫌次第だ。ならばオレは、自分の手で水を汲んでくる生を選ぼう」

「そ。なんだか大変そうな生き方ね。じゃ、そろそろ帰りましょうか、ダグライさん」


 そう言って、ラニスが立ち上がる。


「本当は、話しているうちに気が変わってほしかったのだけれど。ゼノルが神の意志を理解できるようになるには、まだ時間がかかるみたい」


 沈黙するゼノルに、ラニスがぽつりと言う。


「乳痢病」

「……」

「もう、あなたも掴んでいるのではないかしら? あの伝染病が、この領都で広まり始めていること」

「……」

「ワタシもこれから忙しくなりそうなのだわ」


 沈黙を保つゼノルを見下ろしながら、ラニスは微笑とともに告げる。


「ワタシと婚約する気になったなら、いつでも言いに来て。できれば……あなたの領民が暴れ出す前に、ね」


 言い終えると同時に、ラニスは踵を返した。

 ダグライを伴い、応接室を後にしようとした――――その時。


「貴様との婚約が神の意志だとは、きっと何かの間違いだろうと……そんな風に言っていた神官もいたな」


 ラニスが足を止めた。

 聖女の背に向けて、ゼノルは続けて言う。


「名は、ヤマラといったか」


 ラニスが振り返る。

 その顔には、彼女らしい華やかな笑みが浮かんでいた。


「誰それ?」

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