――――第10話――――
ヤマラが去ってしばらくしても、ゼノルは応接室の長椅子で考え込んでいた。
傍らに立つスウェルスが、恐る恐る話しかける。
「あの、大丈夫ですか? ゼノル様……」
「……大丈夫ではないな」
補佐官に顔を向けることなく、ゼノルは答える。
「目論見が破綻したのだ、大丈夫なわけがない」
「ですよね……」
気まずげな表情のスウェルスをよそに、ゼノルは独り言のように言う。
「思わぬ来客だったが……おかげでわかったことも多い。教団が聖女を喧伝しておきながら、辺境の貴族に嫁がせようとしている不可解さの理由も、おおよそ見当がついた」
「ええっ、そんなことまで!? ヤマラ殿は、そのようなことは一言も話していませんでしたが……」
「まあ、肝心の聖女本人の思惑の方は、相変わらず見当もつかんがな」
ゼノルが鼻を鳴らしてそう言うと、スウェルスは遠慮がちに指摘する。
「裏の思惑も、もちろん重要でしょうが……目下の問題は、あちらの資金源では? というか、聖女様は本当にあの『箱』を使って、マイナス手数料の原資を調達しているのでしょうか? ほとんど伝説の神器ですが……」
「ありうる。商会幹部どもの態度がその理由だ。おそらく、『箱』の使用を奴らには匂わせていたのだろうな」
「う、たしかにそう考えると辻褄が……」
「それに教団内部で動いているであろう思惑を考えても、上級神器の持ち出しは不自然ではない」
確信を持っているようなゼノルの態度に、スウェルスは表情を険しくして問う。
「ならば……どうされますか、ゼノル様。私には今ひとつ真意が読めないものの、ヤマラ殿の提案に乗るというのも、一つの手かと思われますが……」
「その選択肢はない」
ゼノルは断言する。
「あんな連中の手は借りられん。教団との関係がかえって悪くなる」
「ええっ、そうなのですか? しかし、そうなると……」
「……さて」
ゼノルは応接室の天井を仰ぐ。
「悩みどころだな」
**
ヤマラの来訪からそれほど日を置かずして――――ラニスとダグライが、再びゼノルの屋敷を訪れた。
「アハ、みてみてーゼノル」
応接室のテーブルには、古びた金属製の小箱が置かれていた。
一見すると、ただの骨董品の小物入れのようにも見える。だがその造形をよく観察すると、どの地域の物にも見られない奇妙な意匠、造りをしていた。
ラニスは箱の前で、小さな紙片に何かを書いている。やがて、長手袋を嵌めた右手がペンを置いた。紙片に書いていたのは、どうやらラニスの名前であるようだった。
「これを破って、片方を入れます」
ラニスがそう言いながら、紙片を真ん中から破った。次いで、箱の蓋を開ける。中には何も入っていない。ラニスはそこに、先ほど破った紙片の片方を入れた。そのまま蓋を閉める。
「三、二、一……じゃーん! どう?」
ラニスがまるで自慢するかのように、箱の蓋を勢いよく開けた。
中には、先ほど入れた紙片がある――――二枚も。
「ほら見て、完全に一緒でしょ?」
ラニスが紙片を二枚とも取り出し、箱に入れなかったもう片方の紙片と合わせてみせる。
二枚とも、破れ目は完全に一致した。紙片に書かれたラニスの名が、いずれもきれいに繋がる。
ラニスは楽しげに言う。
「種も仕掛けもないのだわ。ほんとよ? これ、神器だから」
「……なるほど。これがかの『箱』か」
ゼノルが静かに呟く。
伝説級の神器を前にしているためか、いつもの不遜な態度も鳴りを潜めている。
「まさか、この場に持ってくるとはな。今回はやたら護衛が多いと思っていたが」
「せっかくだから、見せてあげようと思ったの。ゼノルも何か増やしてみる? なんでもいいわよ。金貨でも、銀貨でもね」
それは、破壊的両替事業の種明かしにほかならなかった。
ゼノルはただ首を横に振る。
「結構だ」
「そう? 謙虚なのね。好きよ、そういうの。ところで」
仏頂面のゼノルの前で、ラニスはずっと楽しげなままだ。
「そろそろお返事を聞かせてほしいのだわ」
「……」
「街の人たちも、焦れている頃なのではないかしら」
「……」
「待つ間暇すぎて両替商の真似事を始めてみたのだけれど、とっても評判がいいのよね。うれしいことに、みんな応援してくれてる。みーんな、ワタシたちの結婚を願ってくれているの。とってもありがたいわよね。だからゼノルも、領主として彼らの思いに応えるべきなのではないかしら」
「……やはり」
ゼノルが、おもむろに口を開く。
「すべて意図してやったことだったか。ほかならぬ、貴様自身が」
「さあ?」
聖女は、とぼけたように首をかしげる。
「なんのことかわからないのだわ。ワタシはただ、神の意志に従うだけよ」
「……そうか」
ゼノルは、長椅子の背もたれに身を預ける。
「待たせたことは謝罪しよう。求婚への返答は、今行おうではないか」
そして、ゼノルは告げる。
「答えは否だ。この縁談を、呑むつもりはない」
「ふーん?」
ラニスは足を組み、試すような表情をする。
「それは……神の意志に反するのだわ」
「神など知ったことか。この際だ、はっきり言っておこう」
恐れるものなどないかのような不遜さで、ゼノルは告げる。
「――――オレは絶対に、結婚などしない」
「……そう」
ラニスはそれだけ言って、あっさり席を立つ。
「帰りましょうか、ダグライさん。ゼノルはまだ、神の意志を理解できないみたい」
「……ゼノル卿」
その時、控えていたダグライが静かに口を開く。
「ラニス様との婚姻が合意に至らなければ、我々はいずれここを去ります。その際には事前に、関わりの深かった商会の方々へ声をかけさせていただきますが……」
「いざ金の泉が涸れそうになれば、そこに頼っていた者たちがどういう手段に出るかはわからない……とでも脅すつもりか?」
ゼノルが上級神官を睨む。
「皆まで口にしなかったのは賢明だったな。オレは今、くだらぬ戯れ言を許す気分ではなかった。そもそもの話、聖女殿の輿入れが成ったとて、神器が一緒についてくるわけがない。教団がこのような伝説級の神器を手放すものか。商人どもが不満を抱くのは、いずれにせよ同じだろう」
「それでも」
ラニスが微笑とともに言う。
「ワタシがいれば、みんなをなだめられる。だってワタシ……人気者だもの」
「ふん、舐めるな」
ゼノルは鼻を鳴らし、聖女を睨んで告げる。
「オレもそうであるとも」




