――――第1話――――
「この子が善良なる、幸運なる、幸福なる運命に導かれますように」
屋敷の書庫に、夕日が微かに差し込んでいる。
積み上げられた本の山が囲う、その一角。傷ついた獣が逃げ込む巣穴のようなその場所で、少女は少年の頭を抱いたまま、歌うように呟く。
「風が背を押し、陽が温かく面を照らし、雨がその喉を潤しますように」
王国で生まれた少年にとって、それは異教の祈りだ。
しかし、神器に捧げられる教団の祈りなどよりもずっと、それは少年の深部にまで届いた。
「過ちと罪が、いつか赦されて――――新しい一日を迎えられますように。月と海と金の羊に、ユナが祈ります」
「……オレは」
少女の胸から額を離し、少年がぽつりと言う。
「赦される時が来るのだろうか。本当に……これでよかったのだろうか」
「きっと大丈夫だよ」
少年が顔を上げる。
少女は、少年の目をまっすぐに見つめながら、優しげな笑顔で言った。
「ゼノ君はぜったいに、いい領主さまになれるから」
そして七年後――――、
**
「聖女ラニス。今この時をもって、貴様との婚約を破棄させてもらう」
王都大聖堂、その庭園に設けられたパーティー会場の中心にて。
若き辺境伯、ゼノル・グレン・ロドガルドは、冷たい声音でそう言い放った。
鋭い視線の先には――――華やかながらも神聖な雰囲気のあるドレスに身を包んだ少女が、わずかに目を見開いている。
動揺を表情に表しながらも、ラニスと呼ばれた少女は口を笑みの形にして言う。
「アハ……どうしたのー、ゼノル。今さらそんなこと言い出しちゃって」
周囲の来賓たちがざわめく中、ラニスはどこか不敵に続ける。
「今日のお客さんたちはみんな、ワタシたちのために集まってくれたのよ? せっかく来てくれたみんなを困らせるようなこと、言わないでほしいのだわ」
周囲でざわめいている来賓たちの中には、貴族や教団幹部のほか、王族の姿すらある。
あらかじめそのように告知されたものではなかったものの、このパーティーはロドガルド辺境伯ゼノルと、創神教団の聖女であるラニスとの、実質的な婚約発表の場だった。
ゼノルの突然の宣言は、それを台無しにするものである。
ラニスは視線を鋭くして続ける。
「そもそもゼノルは、神官立ち会いのもとで正式に婚約を結んだワタシに対して、いったいどんな理由で婚約破棄を突きつけるのかしら?」
通常、一度結んだ婚約を一方的に破棄するには、相応の理由が必要になる。それが妥当なものではない場合、裁判に発展することすらあるほどだ。
今回の場合であれば、それすら生ぬるいだろう。
この期におよんで、聖女であるラニスとの結婚を拒否すれば――――今後、教団そのものと敵対することになる。
ラニスは暗に、そう脅していた。
――――しかし。
「ふっ、理由か。理由はほかでもない――――」
ゼノルは、酷薄にも映る笑みとともに答える。
この状況にあっても、冷血卿は不遜な態度を崩さない。
「――――貴様が、偽りの聖女であるからだ」
この突然の糾弾は、いかにして起こるに至ったか。
そのきっかけは、この年の春に遡る。
**
ロドガルド領に、また春が巡ってきた。
雪解けとともに人の動きも活発になるこの時期には、領主の仕事も増えがちだ。ゼノルも例年のように、忙しい日々を送っていた。
常ならば、険しい顔をして書類と向き合っているところだったが……。
「ご機嫌ですね、ゼノル様」
ゼノルに書類を持ってきたスウェルスが、椅子にふんぞり返って座る自らの主を眺めてそう言った。
聞いたゼノルは鼻を鳴らすと、口の端をわずかに吊り上げて答える。
「何を言う。オレはいつもと何も変わらんとも。ふはは!」
「……」
明らかに機嫌がよかった。
恐ろしげな雰囲気を醸し出しているせいで、傍目にはまるで悪巧みでもしているかのようだったが、付き合いの長いスウェルスにはわかる。これは純粋に、ゼノルにとって喜ばしいことが起こったのだ。
その内容にも、察しがついていた。軽い溜息とともに、スウェルスは言う。
「やはり、婚約の申し入れがさっぱり届かなくなったからですか」
「ふっ……わかるか」
ゼノルはにやりと笑って答える。
「鬱陶しい縁談攻勢がやっと止んだのだ。喜ばずにいられるか」
「……縁談が舞い込まなくなって喜ぶ人間なんて、ゼノル様くらいでしょうね」
スウェルスが呆れたように言う。
「しかし……本当に大丈夫ですか? 原因である例の噂を、そのまま放置していて」
冬頃から、貴族社会に一つの噂が流れ始めた。
その内容はロドガルド辺境伯、つまりゼノルが、内々に婚約の話を進めているというものだ。
その相手というのが――――なんとライデニア王国第二王女である。
当然、事実無根。婚約の話どころか、宮廷と手紙のやり取りすらしていない。
だが、噂を耳にした貴族たちはそんな実情を知らないため……結果として、婚約の申し入れがまったく届かなくなったのだった。
姻戚を結ぶ相手として、王族に勝てると考えるほど思い上がった家はそうない。
ゼノルとしては都合がいいことこの上なかったが、しかしスウェルスは表情を険しくして言う。
「あまり、こういった状況はよくないと思うのですが……そろそろ正式に否定されては?」
「何を言っているのだ貴様。せっかくこれほど広がっているというのに、わざわざ否定してどうする。また縁談攻勢が始まるではないか」
ゼノルが顔をしかめて言う。
「噂など、どうせ何もせずともそのうち忘れられる。オレはこの状況を存分に利用してやるぞ」
「しかしゼノル様……貴族社会の噂は、どのように転がるかわかったものではありません。噂が噂を呼び、ロドガルド家にとってよくない事態を招く可能性も……特に今回の場合、相手とされているのがあの酔狂姫ですし……」
貴人は、時にその気質を表す異名で呼ばれることがある。
ゼノルの冷血卿がまさにそれだったが、第二王女の場合、それは酔狂姫だった。
王女の立場でありながら、博物学や天文学、さらには医術や錬金術にまで傾倒し、その自室は怪しい書物や謎の鉱物や動物の剥製であふれかえっている。神の不在を証明したと豪語して教団から反感を買う一方で、時折有用な薬や染料や道具の類を発明しては、王族の伝手を利用して大儲けする。
まさに王国一の酔狂家。それがライデニア王国第二王女、シルラナだった。
「ふん、だからいいのではないか」
しかしゼノルは、鼻を鳴らして言う。
「王国の現況を考えると、現王がロドガルドとの繋がりを強化しようとするのは若干不自然だ。だが酔狂姫ならばあるいは、と皆が考える。謎の理由で本人が熱望したとか、行き遅れを危惧した王が適当なところに押しつけてしまえと目論んだとか、可能性を見出す余地がある。つまり、噂を信じる余地があるということだ。ふっ……まあ、オレがあの女と結婚するなど死んでもありえんがな」
「しかしですね、ゼノル様……」
「案ずるな、スウェルス。そう厄介な事態にはならん。もし面倒事が起こったとしても、このオレがどうにでもしてみせよう」
主の自信満々な態度に、先に折れたのはスウェルスだった。
軽く溜息をつきつつ言う。
「わかりました……何事も起こらぬよう、神に祈っておくことにしましょう」
「ついでにオレにも祈っておけ。書類を期日までに片付けてくれますようにとな。ほかに、報告しておくべきことは?」
「ええと……昨年から目につき始めていたゼノル様へ反心を抱く者たちの様子ですが、規模こそ縮小しているものの、未だに集会などの活動を継続しているようです」
「放っておけ。他には」
「貧民地区に、下痢を中心とした特徴的な症状の病人が複数発生していると報告が。乳痢病流行の兆しである可能性も考えられますが、いかがいたしますか」
「うむ。であれば……」
スウェルスの報告を元に、その場で対応の方針を決定していくゼノル。
二人の、いつものやり取りだった。
それに一段落がついた頃、執務室の扉が遠慮がちに叩かれる。
「失礼します……」
扉から恐る恐る顔を覗かせたのは、茶杯とポットを銀盆に乗せたメイド、ユナだった。
仕事中の雰囲気を感じたか、ユナは静かに入室すると、無言のまま歩み寄ってゼノルの事務机に茶杯を置き始める。
「……もうこんな時間か」
その様子を眺めながら呟いたゼノルが、スウェルスに目をやって訊ねる。
「スウェルス。他には何かあるか」
「いえ、以上です」
短く答えたスウェルスが、ユナの方をちらりと見て、続けて言う。
「では私はそろそろ政務に戻るため、失礼します」
そう言ってスウェルスは軽く眼鏡を直すと、踵を返して足早に執務室から去って行った。
扉が閉められる様子を、ゼノルとユナは二人で眺める。
「……なんか、気を使わせちゃったかな」
ユナが若干申し訳なさそうに呟き、ゼノルを見やる。
「お仕事、もうよかったの? ゼノ君」
「ああ。あらかた済んだところだったからな」
ゼノルが椅子の背もたれに身を預けながら言う。
「それにこの時間は、一応オレの休息の時間ということになっている。奴も気を使って当然だ」
「その割には、わたしが来てもそのまま仕事してることけっこうない?」
「まあ、仕事の量が量だからな。そういうこともある」
「大変だねぇ。ご苦労様」
茶をポットから注ぎ終えたユナが、銀盆を胸に抱えながら一歩下がった。
それから、どこか楽しげな調子で言う。
「ところでさ、ゼノ君……どう?」
「?」
「ほら、わたし! 何か変わったとこない?」
訊かれたゼノルは、冷静な表情でにこにこ顔のユナを一瞥すると、茶杯の取っ手を手に取りながら、無表情で答える。
「少し太ったか?」
「はー!?」
「冗談だ。少々散髪したらしいこと以外は皆目わからん」
「それだよそれ! それであってるよ!」
ユナは大げさに溜息をつくと、呆れ顔になって言う。
「もう、なんで茶化すかな。ゼノ君さぁ、わたし昔言ったよね? 女の子に何か変わったところがあったら、素直に褒めるんだよって。覚えてない?」
「無論、覚えているとも。会話の流れが少々悪かっただけだ」
「なにその言い訳。で?」
「似合っている」
「よろしい」
そう言うと、ユナは銀盆を胸に抱いたまま満足げに笑った。
「この前入ってきたメイドの子がね、髪切るのすごく上手なんだ。もうあっという間に人気者だよ。いい子が来てくれてよかったー」
「ほう……。ならばオレも今度、試しに頼んでみるか」
「ぜったいやめて。怖がって辞めちゃったらどうするの」
顔をしかめるユナ。本気で嫌そうだった。
「その子ね、ゼノ君のこと最初はだいぶひどい……あ、そうだ。話変わるけど」
その時急に、ユナが何か思い出したような顔でそう言った。
新人メイドが自分のことを最初どう思っていたのか気になったゼノルだったが、黙ってユナの話に耳を傾ける。
「ゼノ君が探してた目録の本、見つかったよ。王国史のやつ」
「おお、そうか」
ゼノルもまた、思い出したような顔になってそう言った。
ゼノルの屋敷には現在、二年後に竣工予定となっている大教会の図書館に収められる本が、大量に保管してある。
昨年の秋には、その中からユナが幼い頃に大事にしていたという本を探し出したりしたのだが……目録の中には、ゼノル自身も気になる表題のものがいくつかあった。
気晴らしも兼ね、空いた時間にゼノル自ら本の山をひっくり返していたものの、本の量が量である。どうしても一冊、見つからないものがあった。
そうしているうち春になり、本の山に向き合う時間もとれなくなってきたため、字の読めるユナに探索を頼んでいたのだった。
「それで、本は?」
「お茶で手がふさがってて持ってこられなかった。あとでね」
「うむ。ご苦労」
満足そうに言うゼノルに、ユナは訊ねる。
「でもゼノ君、今さら王国史なんて読む必要あるの? 昔さんざん読んでなかった?」
「探してもらったものは、普通の王国史とは少々異なる視点で書かれたもののようでな。特に教団と王国との関わりが詳細に記されていると聞く。教会戦争における騎士団の働きや、聖者が王国にもたらした恩恵など、オレも知らないことが多い」
「へー。ゼノ君、教団のことでも調べようとしてるの?」
「……いや。特にそういうわけでもないが……読んだことのない本だったのでな」
ゼノルは、わずかに口ごもりながら言う。
「……利用できそうな前例が、何かないかと思っただけだ」
「政治の話? 領主様は大変だね」
ユナが同情するように笑った。
それから、ぽつりと言う。
「ね、ゼノ君」
「なんだ」
「王国史にさ、わたしの生まれた国のことって、どんな風に書いてあるの?」
「……クストハのことか」
ゼノルが、視線を茶杯に向けながら言う。
「どの王国史にも、それほど記述はない。民族や言語など近しい部分は多いものの、海の向こうの島国であるせいか、歴史的にそこまで関わりがなかったからな。もちろん時代の節目には使者を送り合い、現在でも私貿易船の行き来などはあるが」
「……そっか。でも、そんなもんだよね」
ユナは苦笑して言う。
「遠いところにある、全然違う国だもんね。向こうとこっちじゃ、信じてる神さまだって違うし……。わたしも小さな頃は、まさかライデニア王国で暮らすことになるなんて思わなかったし」
「……」
「まあ今じゃ、向こうの習慣とか神さまのことなんて、もうほとんど忘れちゃったけどね。こっちに来てすぐは、教団の人たちにすごく助けられたから、自然と……」
「……オレは覚えている」
「え?」
ぼそりと言ったゼノルに、ユナが意外そうな声を上げた。
茶杯の液面に目を向けたまま、ゼノルは続ける。
「幼い頃、おまえに……」
「ゼ、ゼノル様っ!」
その時、執務室の扉がバーンっと開き、焦った様子のスウェルスが駆け込んできた。
ユナがゼノルからぱっと離れ、真面目な表情を作る。
ゼノルは、あからさまに不機嫌そうな顔になって言う。
「急になんだ、スウェルス。というか、去年の婚約騒動を思い出すからその登場の仕方はやめろ」
「そ、それが、また婚約の申し入れが……」
聞いたゼノルが、思わず眉をひそめる。
「王女と婚約の噂があってなお、オレに縁談を持ち込む身の程知らずがいたか……いったいどこの家だ」
「それが、なんと申しますか……教団です。それで今、上級神官と共に、ご、ご本人も見えていて……」
スウェルスは、明らかに動揺した様子を見せていた。
報告を聞いたゼノルが、ますます眉をひそめる。
「婚約の証人として神官を呼びつける例は聞くが、今本人と共に来ているだと……? いったいなんのつもりなのだそいつは。どこの当主だ」
「いえですから、貴族などではなく、きょ、教団なのです」
「……スウェルス。何度も言わせるな、貴様らしくもない。教団から神官が遣わされているのはすでに聞いた。オレが今訊ねているのは、どこの誰がこのオレに縁談を持ってきたのかということだぞ」
「で、ですからそれが……教団なのです」
「……は?」
「上級神官も婚約の証人ではなく、おそらくお相手の方の付き添いという立場かと。なにせ、教団における重要人物ですので……」
ゼノルは口元に手をやりながら、渋面を作る。
とてつもなく面倒な事態が訪れそうな予感があった。
「……誰なのだ。その相手というのは」
ゼノルが短く問うと、スウェルスは息を整えるように深呼吸し、答えた。
「聖女様、です」




