――――第28話――――
「ゼノル様、お茶を……あ、また誰もいない」
執務室に、ユナが顔を覗かせた。
「ああ、ご苦労」
書類の束に目を通しながら、ゼノルが声を返す。
ユナが入室し、茶を淹れ始めても、ゼノルはただ黙々と書類仕事をこなし続ける。
ユナはそんなゼノルを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「今日は真面目な日だ……」
「オレはいつだって真面目だろうが」
ゼノルはそう言うと、書類の束を机の隅へと追いやった。
ユナは小さく笑って言う。
「あー、真面目な日終わっちゃった」
「茶くらい飲ませろ。今日は朝から仕事のし通しだったのだ。さすがに疲れた」
そう言って、湯気の立ち上る茶杯を口に運ぶ。
しばし、二人の間に沈黙が流れた。
それは普段から珍しくないものだったが……今流れているそれは、まるでどちらが先に話の口火を切るか、譲り合っているかのようだった。
「……そうだ。聞いたよ、ゼノ君」
結局、先に口を開いたのはユナだった。
「おめでとう」
「なんの話だ」
ユナに顔を向けないまま、ゼノルが問い返す。
まるで、返答などわかりきっているかのような声音だった。
ユナは一瞬の間の後、明るく答える。
「そんなの決まってるでしょ? 婚約だよ婚約」
「……」
「公爵家の、あのきれいなお姫様が相手だよね。みんな噂してたよ」
「……まったく、最近は噂が広がるのがやけに早いものだ」
「? そりゃあ、みんな気になるもん」
物憂げなゼノルに、ユナはにやにやしながら言う。
「ほんと、なんだかんだ散々言ってたけど、結局縁談受けちゃったんだもんね。やっぱりゼノ君も美人には弱かったかー」
「おい、聞き捨てならんぞ。オレは断じて、色香に惑わされたわけではない」
「はいはい、そういうことにしておきますね。でも、そっかあ……」
ユナが虚空を見つめながら呟く。
「レイシア様、だっけ? 優しい人だといいなー」
「……」
「貴族の奥さんだと、メイドに厳しい人もいるって聞くし。それでもゼノ君の奥さんなんだから、うまくやっていかないとね」
「そんなことには……」
「あ、でも、ゼノ君はちゃんと奥さんの味方でいないとダメだよ? 知らない土地に来てきっと心細いんだから。昔、まだ小さかった頃……ゼノ君、わたしをいじめてたメイド長を追い出しちゃったことあったよね。誰も最後まで、あれがゼノ君の仕業だなんて気づかなかったけど」
「……」
「奥さんには、あんなことしちゃダメだからね。わたしは別に大丈夫だから」
ユナは、少し寂しげに笑って言う。
「あそこまでしてくれなくても、わたしはずっとここにいるよ」
「……」
「ほかに行くところがないっていうのもあるけど……一応、ロドガルド家には恩があるからね。結婚もしないで、ずっとここで働くつもり」
「……ふん、そうか」
「そのためには、レイシア様に嫌われないように、礼儀作法とかあらためてきちんとしないとね。なんと言っても公爵家のお姫様なんだから。ゼノ君が当主になってからは、だんだんわたし適当になってきてる気がするし、気を引き締めておかなくちゃ」
なにやら張り切った様子を見せるユナに、ゼノルは嘆息して言う。
「どうも勘違いしているようだがな。オレは奴と結婚するつもりなどないぞ」
「へ……?」
ユナが目をしばたたかせる。
「婚約……したんだよね?」
「ああ」
「それなのに、結婚はしないの?」
「ああ」
ユナは、どう言い聞かせたものかといった顔になる。
「あの……ゼノ君は、もしかしたら知らなかったのかもしれないけど……婚約したら、普通は結婚しないとダメなんだよ?」
「なっ、馬鹿な、そうだったのか……! とでも言うと思ったか」
ゼノルは澄まし顔になり、講釈を垂れるかのごとく続ける。
「常識を疑え、ユナ。発想の転換だ。たとえ婚約しても、それを破棄してしまえば結婚する必要はない」
「……」
「まんまと嵌められ婚約までは結ばされてしまったが、まだ勝敗は決していない。オレは絶対に、結婚などしないぞ。少なくとも当分の間はな」
「……ねえ、ゼノ君。覚えてるかどうか、わかんないんだけど」
その時。
ユナが、静かに話し始める。
「ずっと昔、まだ子供だった頃、わたしたち約束したよね。いつか大人になって、ゼノ君が当主の地位を継いだら…………結婚しようねって」
沈黙を保つゼノル。
ユナは、まるで何かを誤魔化すかのような笑みとともに言う。
「もし、あれをまだ気にしてるんだったら……忘れていいからね、あんな約束。どうせ初めから……叶うはずなんて、なかったんだから」
「……なんだ? その話は」
ゼノルは眉をひそめ、頬杖を突きながら言った。
「悪いが、まるで記憶にないな」




