――――第26話――――
執務室は、沈鬱な空気で満ちていた。
ユナが去り、ゼノルはスウェルスと二人、言葉もなく考え込む。
「……無理だ」
おもむろに、ゼノルは口を開く。
「この状況はどうにもできん。資材を現実に押さえられているのが大きい。このままでは、間違いなく三年以内の建設など不可能。それどころか当初の工期すら守れるかも怪しくなってくる。年単位の遅れともなれば、教団は確実に許容しないだろう……。婚約を呑むしか、ないだろうな」
「そんな……っ!」
スウェルスが愕然として言う。
「その、何か手があるのではないですか!? たとえば現在工事を行っている別の地域と交渉し、資材を譲ってもらうとか……あるいは新たな資材をいち早く入手できるよう、今から買い付けておくとか……」
補佐官の進言にも、ゼノルは首を横に振る。
「もっといい手もある。だが、いずれも苦し紛れにしかならん。レイシアはそれを読んで、今度こそ確実な詰みの一手を打ってくるだろう。そうなれば、もはや完全に奴の言いなりにならざるをえない。その前の、少しでも余力を残している段階で降伏する。悔しいが、それが今とれる最善手だ」
「そ、それならば……っ」
スウェルスが苦渋をこらえるかのように言う。
「今回……大教会認定をあきらめるのも、手かと思います」
「……スウェルス」
「たしかに、内装資材の売買契約はすでに締結しており、『夜』の購入代金分も丸ごと損金となってしまいます。しかしそれだけです! 損失は大きいですが、領地経営に影響がおよぶほどではありません」
「……」
「貴族社会では体面がなにより重要。公爵令嬢に屈したことが明るみに出れば、それはロドガルドの傷になります。向こうも買い占めに莫大な金を費やした以上、ゼノル様が要求を蹴れば、無駄な資材を抱えて損失を負うことになるでしょう。よって、今ならば負けではなく痛み分けに持ち込めます。ゼノル様……私は、そうするべきだと考えます」
「……そうではないのだ、スウェルス。損失が少ないならいい、負けていなければいいという考え方は、賭場でカモにされる弱者の思考だ」
ゼノルは静かに説明する。
「大教会をあきらめることによる損失は、無駄になった物品の代金ばかりではない。大教会があることによる、領地の繁栄。未来のそれを、すべて失うことになるのだ。あきらめない場合との差額は途方もないものとなる」
「っ……!」
「それだけではないな。大教会の建設が頓挫したとなれば、領内の有力者からの評判も損なう。なぜか市井に流れはじめた噂は十中八九レイシアの仕業だろう。また、教団は約束を満足に履行できぬロドガルドを見くびるようになる」
「……」
「一方で、婚約が成ればレイシアはオレの敗北を明るみに出すことはしないだろう。そんなことをしたところで、ロドガルドの身内になるあの女に利益がないどころか、害にしかならんからだ。家の体面に傷が付くことなど、初めから気にする必要がない。……理解できたか、スウェルス。今、損得の天秤がどれほど傾いているかを。オレの婚約程度でそれが釣り合うのなら、ロドガルド辺境伯家の当主としては受けざるをえん」
「っ……ゼノル様は、それでいいのですか」
無言を返すゼノルに、スウェルスはさらに言い募る。
「ここでレイシア嬢に屈して婚約を受け入れ、後悔しないというのですか」
「……ふっ。いったい何を後悔することがある?」
ゼノルは皮肉げに笑って言う。
「力のある他家と姻戚となり、地盤を強化するのは貴族ならば当たり前のことだ。しかも嫁に来るのは誰もが目を奪われるような美姫で、さらにはオレを出し抜く狡知と、目的のためには手段を選ばぬ狂気じみた意志まで有している。きっと内政でも外交でも頼りになることだろう。普通ならば、こちらからぜひにと願い出るところだ」
「私はロドガルド辺境伯家ではなく、ゼノル様に仕えています」
まるでゼノルの言葉など聞こえていなかったかのように、スウェルスは自らの主を見据えながら淡々と言う。
「家や領地や王国の繁栄のためなどではなく、ただ自身の欲望のためであろうと、あなたの覇道の、その果てまで付き従う覚悟でいました。今ここが、その道の終わりなのだとしたら、私は……」
「スウェルス」
その時、ゼノルはぽつりと補佐官の名前を呼んだ。
「オレがこれほどまでに劣勢に立たされているのは、なぜだと思う?」
「え……」
「オレの能力が、レイシアよりも劣っていたからか? あの女がオレよりも賢く、知謀の力に秀でていたからこそ、オレは今敗北を喫しようとしているのか?」
「そ、それは……」
言葉に詰まるスウェルスに、ゼノルは静かに言う。
「戦場での勝敗は、兵の数や練度、指揮官の能力だけで決まるものではない。他にも様々な要因が絡み合う。天候、地勢、兵站、運、そして――――戦意」
無言で耳を傾けるスウェルスに、ゼノルは説明を続ける。
「人間の意志の力はすさまじく、時に寡兵が大軍を退ける。そしてそれはおそらく……政争の場でも同じなのだ」
「……」
「スウェルス。先ほど貴様は、オレが要求を蹴ればレイシアが損失を負うと言ったな」
「え、ええ。無意味に資材を買い付けただけになりますので……」
「では訊こう。損失とはどれくらいだ。レイシアはどのような事態に陥る」
「そ、それは……」
スウェルスが困惑する。
「概算を出してみないことには、なんとも……」
「ならば答えを言おう――――破滅だ」
絶句するスウェルスに、ゼノルは続ける。
「奴の資産状況では、建築資材をこれだけ買い占めるなど不可能。まず間違いなく、管理を任された農園を担保に借金をして資材を買っている」
「なっ……!」
「いやそれでも足らんな。おそらくは、買った資材を担保にさらに借金を重ね、資材を買い集めている」
「そ、そんな馬鹿な……」
スウェルスが愕然と言う。
「それならば、もしゼノル様が要求を蹴れば……」
「使いどころのない大量の資材を抱えたまま、借金地獄へ転落だ。無論、公爵に泣きつけば肩代わりしてもらえるだろうが、どれだけかわいがられていたとしてもまず見限られる。冷遇の末にさっさと嫁に出されてしまうだろう。だが、借金を負った悪評のためにろくな嫁ぎ先はない。せいぜいが、好色な老貴族の後妻か……あるいはそれ以下の、愛人扱いになるかもしれんな」
「っ……!」
「わかるか、スウェルス」
ゼノルが諭すように、あるいは自省するかのように言う。
「奴はオレとの婚約のために、文字通り自らの人生を賭したのだ。狂気的と言ってもいい。オレには……そこまでの覚悟がなかった。どこかで、たかが縁談と侮っていた。戦意の面で、圧倒的に負けていたのだ」
ゼノルが自ら分析した敗因が、それだった。
真剣を振り上げ、命がけで迫ってくる相手を、自分は遊びのつもりで迎え撃っていたのだ……と。
「この事態は必然だった。あの女を舐めてかかっていたことは反省しなければならん。だが……」
「なぜ」
その時スウェルスが、独り言のように呟いた。
「なぜレイシア嬢は、そこまでの覚悟を……」
ゼノルはにやりと笑って言う。
「それだ」
「え……?」
「レイシアの動機。この状況を打開できる手立てがあるとすれば、手がかりはそこにしかない。あれほどの覚悟を持たせる理由そのものが――――奴の心臓だ」
「打開……ということは、ゼノル様……!」
「ああ。オレはまだ、負けるつもりはないぞ」
驚いた表情のスウェルスを前に、ゼノルは不敵に笑う。
「レイシアの要求は呑む。だが、すぐに正式な婚約には至るまい。一応、奴にとっては最後の関門が残っているからな」
「最後の関門……ですか?」
「ああ。だがそれも長くは持たんだろう。確実にあの女は、突破の手立てを用意しているはずだ。しかしそれでも、ある程度の時間は稼げる。その時間で……奴に吠え面をかかせる方法を探すぞ」
「は……はい!」
「見ていろレイシア。オレは絶対に、結婚などしない」
ゼノルははるか遠く、学園にいる宿敵を睨んで宣戦布告するかのごとく、鋭い目つきで言った。
「最後に勝つのは、このオレだ」




