――――第16話――――
寮に戻る馬車の中で、レイシアは読んでいた手紙を閉じた。
「お嬢さま……ヘルモ商会の代表は、なんと?」
ためらいがちに発せられた従者の問いに、レイシアは優雅な笑みで答える。
「どうやら、少々お怒りの様子です」
顔を険しくする従者に、レイシアは平然と続ける。
「わたくしのお芝居に協力したがために、傘下の商会が所有していた神器を冷血卿に奪われることになったのが、よほど気にくわなかったのでしょう。暗に補償を求めてきています」
「な……勝手な!」
思わず、従者は憤りを口にする。
「欲を掻いて足を掬われたのは他でもない、自分が子息に付けた副代表だというのに! そもそもお嬢さまが子息の窮地を救っていなければ、商会が負った損失は低級神器一つ分どころでは済まなかったはず! その恩を忘れて……!」
「まあまあ。相手は商人です。金貨の音がする場所は、とりあえず揺すってみるものなのでしょう」
憤る従者とは対照的に、レイシアは穏やかな物腰を崩さない。
どんな時であっても、彼女は完璧な公爵令嬢だ。
「彼らが損失を被ったことは事実です。補償はできませんが、見舞いの名目でヘルモ商会にはいずれ、まとまった量の建材を発注することにしましょう。それで向こうも溜飲を下げるはずです」
「……先方は損失など、被っていないではありませんか」
従者はたまらず言う。
今回の件で、最も納得できない点がそこだった。
「格安とはいえ、例の神器を安全に処分できたのです。先方としても望むところであったはず。お嬢さまが彼らを見舞う筋合いなど、何もありません」
「そうは言っても、相場よりはずっと安値で手放す羽目になってしまいましたからね。機会にさえ恵まれればもっとずっと大きな利益を上げられたと考えると、商人としては口惜しいのでしょう。商会との伝手は大事ですので……ここはこちらが折れておく方が賢明です」
その時――――レイシアの目が一瞬鋭く細められたのを、従者は見た。
「ゼノル様……思っていた以上に、知恵の回るお方のようですわね」
巨額の賠償訴訟を突きつけられたゼノルの対応は、従者が耳を疑うものだった。
示談を餌にブランキ商会の副代表を釣り出すと、言葉巧みに訴訟詐欺への関与を認めさせ、商会の所有する最も高価な品物である神器を脅し取ったのだ。
レイシアが婚約の対価として提示した訴訟の全面取り下げどころか、それを上回る成果を、自ら掴み取ってしまった。
始祖の再来と謳われる、ロドガルドの神童。
今レイシアが相手にしているのは、王国史上でも稀に見る傑物であるのだと、従者は実感する。
――――しかし。
「それでこそ、求婚する甲斐があるというものです」
レイシアは優雅に微笑む。
どんな時であっても、彼女は完璧な公爵令嬢だ。
「仮にゼノル様がブランキ商会を追い詰めた場合……神器を狙うのは、容易に予想できました。豊かなロドガルドにとって、弱小商会の富などさほど魅力的には映りません。ただし、神器は別です。その価値によらず入手の難しいそれを、教会の新造を予定しているロドガルドは今、心から欲しているでしょうから」
レイシアが静かに目を閉じる。
「まさかその至宝に――――釣り針が仕込まれているなどと、疑う余裕もないほどに」
従者は思わず押し黙る。内心では、自らの主に気圧されていた。
なぜなら、恐るべきことにレイシアは……この事態すらも想定し、すでに手を打っていたからだ。
それも――――あの冷血卿を確実に詰ませる、布石となる一手を。
ゼノルだけではない。自らの主であるこの可憐な令嬢もまた、稀なる傑物であると従者は確信していた。
美姫の姿をした竜が、従者に微笑みかける。
「次の策を進めます。手配をお願いしますね、エメッタ」
「は……お、お嬢さま……」
従者はしかし、返答に迷った。
止めるべきではないかという思いが、内心で渦巻いていた。
今回の策で、レイシアは相当な出費を強いられている。沈めた船の代金のほか、芝居のための船員を雇い、商人たちにも報酬を渡している。農園の経営などで潤沢な私財を持つレイシアといえど、決して安くない金額だ。
さらには、各所へ話を通すうちに、いくらか借りまで作ってしまった。
策を進めれば、同様のことはこの先も続くだろう。婚約のため、手を打てば打つほどに、後には引けなくなってくる。
従者には、判断がつかなくなっていた。
当主であるアガーディア公爵の意向に反してまで……さらには、レイシア自身の命を危険に晒してまで、こんなことを続けるべきなのか。
従者は、ためらいがちに口を開く。
「その……一度、冷静に考え直されては……」
「わたくしは後に引く気などありませんよ。エメッタ」
自らの迷いを見透かしたような一言に、従者ははっとした。
レイシアは微笑んでいる。
「たとえ何に代えても、わたくしはゼノル様との婚約を成立させるつもりです。それこそが、わたくしの使命なのです」
レイシアは微笑んでいる。
どんな時であっても、彼女は完璧な公爵令嬢だ。
「過去の恩に報いなければならないのは――――誰より、このわたくし自身なのですから」




