――――第14話――――
「お初にお目にかかります、ゼノル卿」
屋敷の応接室にて、商人らしい衣装を身に纏った糸目の男が、狡猾そうな微笑とともに名乗る。
「ブランキ商会にて副代表を務めております、ベネローと申します」
審理の開始まで一ヶ月に迫ったその日。ゼノルの屋敷に、原告となるブランキ商会からの使者が訪れていた。
ゼノルは長椅子から立ち上がると、ベネローと名乗った使者につかつかと歩み寄る。
そして、例の酷薄にも映る笑みとともに、右手を差しだした。
「よくぞ来られた、ベネロー殿。ロドガルド辺境伯家当主、ゼノル・グレン・ロドガルドだ。本日は呼び立てに応じてもらえたこと、感謝する」
「い、いえいえなんの……」
ベネローはゼノルの笑みに若干怯む様子を見せたが、それでも微笑を崩さずに言う。
「失礼、少々驚いてしまいました。話には聞いておりましたが……いや本当にお若い。その若さでこの広大な辺境伯領を治めておられるとは、ロドガルドの神童の呼び名は伊達ではないとお見受けします」
「むず痒い呼び名だ。オレなど単なる若輩者にすぎん。特に交渉ごとに関しては、百戦錬磨の商人には及ぶべくもないだろう。ただ……わざわざここまで足を運んでもらったからには、今日の話し合いは是非とも互いに益のある形で終えたい。胸を借りるつもりで臨ませてもらおう。座ってくれ」
ゼノルはベネローに着座を促すと、自身も長椅子に腰を下ろした。
同じく長椅子に座ったベネローが、うさんくさい笑みで答える。
「とんでもございません、胸を借りるなどそんな。実を申しますと……ゼノル卿から示談のご提案をいただけて、我々としても胸をなで下ろしている次第でして」
「なんと。そうだったのか」
ゼノルがわざとらしく驚く。
「いきなり訴状を送ってよこしたくらいだ、てっきり貴殿らには激怒されているものと思っていたぞ。意図したわけではなかったとはいえ、貴殿らの保有する船を沈め、乗員を危険に晒し、さらには途方もなく高価な積み荷の数々を海の藻屑に変えてしまったのだ。門外漢ゆえ商会の事業規模などはよくわからんが、それでも貴殿らにとって決して軽い損失ではないと想像していたのだが」
「ええ、それはいかにも」
ベネローが苦笑のような表情を作って言う。
「あの船に積んでいた商材は、我々のような小規模商会にとっては完全に身の丈を超えるものでした。多量の金塊に、果ては神器までも。あれらを取り扱うことは、まさに一世一代の大勝負だったのです。しかしながら……欲を掻いたがゆえの神罰だったのでしょうか。不運な巡り合わせの末に、あのようなことが起こってしまいました。正直に申し上げれば、来年まで商会が持つかといった状況でして」
「なんと、それは……」
「ですが――――だからこそ、示談のご提案は渡りに船だったのです」
ベネローが声音を明るくして言う。
「裁判となれば、判決が出るまでに最低一年はかかるでしょう。可能な限り早急に訴状をしたためましたが、それでも商会が潰れるまでに間に合うかは怪しかった。そのうえ、弁護人を雇う費用もかさみます。我々としても、訴訟は非常に苦しい選択だったのです。しかし……」
「示談ならば、その辺りの問題が起こらないというわけか」
「そのとおりでございます」
糸目の男がにこやかに言う。
「判決よりもずっと早くに話がまとまり、弁護人を雇う必要もない。ゼノル卿が手紙をくださったおかげで、我々にも生きる目が出てきました」
「……そうか。それならば、オレも申し出た甲斐があったというものだ」
ゼノルが微笑とともに言う。
「民の暮らしを守るために行った海賊討伐の結果、民を苦しめてしまったなどあってはならない。補償の必要性は感じていた。おそらくそちらにも憤りはあっただろうが、それを抑えここを訪れてくれたこと、あらためて感謝する」
「とんでもございません。卿が誇り高き庇護者で、我々は幸運でした」
ゼノルとベネロー、両者共に笑顔のまま、穏やかにやり取りが進む。
傍らに控えるスウェルスは、その光景をなんとも言えない心境で見つめていた。
誠実に聞こえる二人の言葉は――――どちらも完全な偽りにすぎない。
ベネローが自然な身振りで続ける。
「訴状には正当に請求できる金額の上限を記載していましたが、示談であれば減額も可能です。弁護人の費用分が浮くのはもちろんのこと、早くに現金が入ればそれを元手に取引が続けられますのでね」
糸目の男が、わずかに身を乗り出して言う。
「当初の請求額の六割。いや、五割でも……」
「まさか」
その時ゼノルが、とんでもないといった風に首を横に振った。
「このオレが、そんな条件を呑めるはずがないだろう」
一瞬固まるベネロー。
だが、再び笑みを作って言う。
「し……失礼いたしました。いえ、理解できます。今回の賠償金は巨額。民の暮らしを預かるゼノル卿としては、五割とて軽々に払える額ではないことでしょう。では……三割五分ではいかがでしょうか? それだけあれば、当会も……」
「十割だ」
「……へ?」
呆けた顔をするベネローに、長椅子にふんぞり返ったゼノルが鷹揚に告げる。
「訴状に書かれた請求額を、満額支払う。そうでなければ補償にならんだろう」
ベネローが、その糸目を見開く。
傍で見ていたスウェルスには、その感情が理解できた。
訴状に書かれた請求額は本当に巨額だ。おそらく弱小貴族なら領地ごと吹き飛ぶほどだろう。
いくら経済力のあるロドガルドとて、満額を支払えば領地経営にほころびが生じかねない。ベネローも、当然その程度は調べている。
だからこそ、困惑しているのだ。
「そ、それはそれは……その、よ、余計なお世話かとは存じますが……」
動揺のまま、引きつった笑みでベネローは問いかける。
「あれを満額支払って、大丈夫なのですか?」
「無論だとも」
ゼノルの表情は揺らがない。
「その程度の余裕はある。心配は無用だ」
「そ……そうでしたか。それはよかった」
ベネローは、そう言って笑みを浮かべた。
訪れた時のような狡猾な笑みではない。欲の混じった笑みだった。
突然降って湧いた幸運に抱く違和感を、『調査に誤りがあったのだ』という都合のいい解釈で押さえつけ、早くも金の使い道を想像し始めてしまったような……そんな笑み。
「しかしながら……よいのでしょうか。ゼノル卿」
自らの幸運を確かめるかのように、ベネローが問う。
「卿は当初、互いに益のある形で話し合いを終えたいとおっしゃっていました。しかし請求額をそのまま支払っては、こちらが得をするばかり。卿には利益がないかと存じますが」
「示談を呑んでもらえるのならば、こちらも裁判の手間や弁護人の費用がかからず済む。まあもっとも、そちらは比較的どうでもいいことだがな。今回示談を提案したのは……一つ、要望があったからなのだ」
「要望……とおっしゃいますと?」
わずかに緊張の戻るベネローに、ゼノルは告げる。
「金は支払うが……それは賠償したのではなく、オレが積み荷を買い取ったという形にしてほしい」
「買取……でございますか?」
戸惑ったように目を瞬かせるベネローに、ゼノルはうなずく。
「ああ。客が商品を誤って傷つけてしまった場合など、そのように処理することが多いだろう。それと同様の扱いにしてもらいたいということだ」
「それは、問題ありませんが……しかし、沈んでしまった以上商品の引き渡しはできかねます。実質的には、賠償と同義に思えるのですが……」
「何を言う。同義では決してないぞ」
困惑するベネローへ、ゼノルは堂々と説明する。
「賠償とは、与えた損失に対する償いにすぎん。沈没によって手元から失われたことを損失とするならば、現在海の底にある積み荷が誰のものかは議論の余地が残る。しかし買取ならば、その所有権は疑う余地なくオレに移る。こちらもただ金を失うばかりではなく、高価な積み荷の権利を得ることができるのだ。どうだ? まるで違うだろう?」
「な……なるほど」
ベネローは、いかにも相手の機嫌をとるためといった同意をした。
曖昧な笑みで続ける。
「たしかに……丸損よりはずっといいでしょうね」
明らかな表面上だけの言葉。しかし、それも無理からぬことだった。
海の底にある積み荷の所有権を得たとて、何の意味もない。引き上げられなければただ少し、気分的に得するだけにすぎない。
ベネローは商人として、純粋な損益から目を逸らし、自己正当化に逃げる輩を愚物と見なしていた。
神童と謳われた少年辺境伯も、結局はその類だった。ならば、勝ちは確実。大金が手に入る。
そのように考えたベネローは、笑みとともに、口先で空虚な言葉を紡ぐ。
「いや、あらためて考えれば実に賢い。我々からはとてもとても、そのような発想は出てこなかったことでしょう。さすがゼノル卿。万一積み荷の一部が漂着でもすれば、儲けものですからね」
「おお、漂着。たしかにそういったこともありえるだろう」
ゼノルは初めて気づいたかのようにそう返すと、不敵に笑って告げる。
「もっともオレは、ただ幸運を待っているつもりはないがな」
「と……おっしゃいますと?」
やや困惑気味に問い返すベネロー。
そんな男へ、ゼノルは身を乗り出すようにして言う。
「今オレが神器を探し求めていることは、当然知っているな?」
「え、ええ……。私も商人の端くれでございますから」
ロドガルド領都における教会新築にあたり、ロドガルド辺境伯が神器を所望している。
大っぴらに喧伝されているわけではないものの、ある程度の情報網を持つ商人であれば、誰でも知っていることだった。
なんの話が始まるのかと、ベネローは戸惑いながらも続ける。
「ただ、難航されていると聞きおよんでおりましたが……」
「いや、手に入った」
「えっ」
「幸運にも手に入ったのだ。新たな神器がな」
「そ、それはそれは……」
ベネローは動揺する。そのような情報は掴んでいなかった。
取り繕うように、笑顔で答える。
「おめでとうございます。察するに、いい取引をされたようですね」
「ああ、本当にいい取引だった。望外におもしろい神器が手に入ったのだ。教会に預けるのも、惜しくなってしまうほどのものが」
言葉のないベネローに、ゼノルはまるで自慢するかのように続ける。
「それは、古びた『頭巾』の形をしていてな」
「ず、頭巾……でございますか?」
「見た目は本当に、ただの小汚い頭巾だ。だが、驚くべきことに――――」
ゼノルはぐいと身を乗り出す。
「――――それを被った者は、水中で呼吸ができるようになるのだ」
「っ! まさか……!」
「おもしろいだろう? なかなかに使い出がありそうではないか」
上機嫌に言うゼノルに、ベネローは引きつった笑みを返す。
ベネローの驚愕も、無理からぬことだった。
神器とは、不可思議な事象を引き起こす器物の総称だ。しかしその中に、有用なものは少ない。
どう活用すればいいかわからないばかりか……読んだ者の精神を変容させる『本』、複数回目にした者を死に至らしめる『絵』など、危険極まりないものすらも存在する。
だからこそ、逆に――――使える神器が、人々にもたらす影響は大きい。
「オレは本当に運がいい。おもしろい神器を手中に収められたばかりか……それを使うべき場面まで、さっそく訪れてくれたのだからな」
ゼノルは、ベネローへ試すような笑みを向けて言う。
「沈んだ積み荷は、『頭巾』を用いてすべて引き上げよう」
「……!」
「買取を申し出たのは、実はこのためだったのだ。『頭巾』を被せた者を海底に潜らせ、網に商品を詰めさせるだけで、積み荷の回収が叶う。貴殿らは金塊や神器を予想市場価格で売却でき、オレは支払った金をそれらで補填できるというわけだ。どうだ? 互いに益のある取引となっただろう? いや今回は不幸中の幸いだったな。ふはははは!」
高笑いを上げるゼノル。
一方で、ベネローの笑みは引きつっていた。
傍で見守るスウェルスは、ベネローの感情が手に取るように理解できる。
「そ、それは、すばらしい……。し、しかし、そう都合よくことが進むとは……限らない、かと」
「む? なぜだ?」
首をかしげるゼノルに、ベネローが焦りの滲む身振りで答える。
「え、炎上して沈んだ船の積み荷です。海流に乗り、船から離れた遠く離れた場所まで流れてしまっている、ということも……」
「なるほど。貴殿の懸念はもっともだ。だがその可能性は少ない」
ゼノルが軽快な身振りとともに説明する。
「幸いにも、あの辺りは潮の流れが穏やかだ。よって積み荷のほとんどは、船の残骸の近くにそのまま沈んだことだろう。水深も比較的浅いため、見つけるのも難しくはない」
「し、しかしっ」
「そもそも、積んでいた商品の大部分は金塊だったという話ではないか。木箱に入れられていたとしても、そう簡単に流されるものでもあるまい?」
「……」
「もっとも、すべての積み荷を余すことなく回収するのは、貴殿の言うとおり難しいだろう。流されてしまったもの、船の残骸に埋もれてしまったものが必ずあるはずだ。だが案ずるな。多少商品が足らなかったとて、その分の金を返せなどと言うつもりはない。その程度の損失は甘んじて受け入れよう」
「な、なるほど……」
堂々とした笑みを浮かべるゼノルから、ベネローは引きつった顔のまま、目を逸らしながら答える。
「そ、それでしたら……安心、です。はは……」
「ふはは、そうだろう。では……ブランキ商会としては、オレの示談案に合意するということで相違ないか?」
「そ、それは、その……」
ベネローが逡巡する中、ゼノルが当然といった調子で付け加える。
「もっとも、そちらとしては乗らぬ手などないだろうがな。請求額の満額が、ほぼ無条件で手に入るのだ。これで商会も無事存続できる。そうだろう?」
「え……ええ……」
「よろしい」
ゼノルは満足そうに笑うと、スウェルスの方へ無言で手を掲げた。
打ち合わせどおり、スウェルスはあらかじめ用意していた一巻の羊皮紙を、主に手渡す。
受け取ったゼノルはそれを広げると、そのままベネローへと提示する。
「ではさっそく、示談書兼売買契約書に署名を願おう。一枚に収めた都合、少々長くなってしまったが」
「は、はあ……。まずは、拝見、します……」
流されるがまま、羊皮紙に目を通していくベネロー。
それは、取り立てておかしなところのない示談書だった。
ゼノルが沈んだ積み荷を買い取る旨。その売買契約締結をもって、ブランキ商会は訴えを取り下げる旨。およびそれらの期日が記されている。ほぼゼノルの説明どおりの文面だ。
すべてに目を通しても、不条理といえる条項など一つとして存在しなかった。
ベネローが目を留めた、その最後の条項も含めて。
ただしそれは――――ベネローにとっては、致命的な条項だった。
「あ……あの、ゼノル卿……」
ベネローは、微かに震える声で訊ねる。
「こ、この条項については……」
「ん? ああ、その条項か」
ベネローがどこに目を留めたか察したゼノルが、なんでもないかのように答える。
「念のためにと、補佐官が勝手に盛り込んだ条件だ。そのようなことはあるはずもないため、オレは不要と思っているのだがな。まあ気にするな。書き直すのも手間なうえ、羊皮紙も惜しい。このまま行こうではないか。別に、問題あるまい?」
ゼノルは、酷薄にも映る笑みとともに続ける。
「もし目録にある積み荷が、船の残骸付近で一つたりとも見つからなかった場合――――商会は買取額の十倍に相当する額を、違約金としてオレに支払う。そんな条件があったとしても」
言葉のないベネローに、ゼノルは続ける。
「そのようなことはまず起こらん。あれだけ大量の金塊を積んでいれば、船の近くに沈んでいる分が必ずあるはずだ。無論、海底で船の残骸自体を発見できなかった場合には、その条項は適用されん。それはこちらの問題であるからな。したがって、その条項が生きるのは――――高価な積み荷などすべて虚偽であり、初めからボロ船は空だった。そんな場合に限られる」
「っ……! きょ、卿は、我らを疑われているとっ?」
「突然何を言い出す? 先ほど説明したとおりだ。これは補佐官が勝手に盛り込んだ文面であり、オレの意図したものではない。貴殿のことは、もちろん信用しているとも」
「っ、し、しかし……」
ベネローは必死で考えを巡らせる。
「この条項は……我々にとって、いささか受け入れがたく存じます」
「ほう?」
ゼノルが、ベネローに鋭い眼光を向ける。
「貴殿らにとって、いったいどのような不都合があると?」
ゼノルに射竦められながらも、ベネローは正面からその目を見返して言う。
「きょ、卿を疑うわけではございませんが……本当に海底に積み荷がなかったか、確認できるのは『頭巾』を保有するゼノル卿のみ。い、いわば、卿の一存で発動できる条項ということになります。繰り返しますが、卿を疑う意図はありません。しかし商会として、このような条件の契約は……」
「なんだ、そんなことか」
ゼノルは拍子抜けしたように言った。
「簡単だ。もしそのような事態になった場合、商会側の人間、あるいは信頼できる第三者も『頭巾』を被り、海底に潜って確かめればいい。証明はそれで足りるだろう。なんなら回収作業への同行も許すぞ。身内のみの証言で違約金を課すような真似は、決してしないと誓おう」
「っ……! そ、その神器は、使用者を選ばないのですかっ?」
ベネローが焦りのままに訊ねる。
神器は、その多くが使用者によって効果のほどを変える。中には、選ばれた者でなければ使うことすらできないものも存在するという。だが。
「ああ。おそらく持続時間は多少変わるのだろうが、今のところ誰が使っても半日程度は効果が続いている。それだけ保てば十分だろう。ロドガルドの『聖剣』とは違い、扱いやすい神器で助かるというものだ。まあともかくこれで――――貴殿が署名を拒む理由は、何もないことがわかっただろう?」
当然のように答えたゼノルに、ベネローは何も返すことができない。
ゼノルは軽く笑いながら続ける。
「ところで……大丈夫かベネロー殿? 先ほどからいささか、顔色が悪いようだが」
「っ! い、いえ……」
ベネローは、それ以上答えることができない。
微かに震える手で、広げた羊皮紙に目を落としたまま、顔を上げることすらもできない。
まるであざ笑うかのように、ゼノルは続けて言う。
「ふはは、ベネロー殿は心配性のようだ。そう案ずるな。万一その条項が適用されることがあっても、オレが違約金の全額を徴収するなどということはまずありえないからな」
ベネローが、救いを求めるように顔を上げた。
ゼノルは、例の笑みとともに続ける。
「小さな商会に、それほどの大金が支払えるはずもあるまい?」
「でっ、でしたら……」
「商会の全資産を押収するとともに、幹部は全員どこぞの鉱山で死ぬまで強制労働。規定額には到底足りぬが……その程度で済ませてやろうではないか。ふははは!」
ベネローの表情が絶望に沈んだ。
ゼノルは唐突に笑みを消すと、商人へ告げる。
「さて……もう十分、言葉は尽くしたかと思うが。そろそろ署名を願えるかな、ベネロー殿」
「……」
ベネローはしばらく押し黙っていたが、やがて震える手で羊皮紙を巻き直すと、そのままゼノルへと押しやった。
「ざ、残念ですが……署名は、できかねます」
「……」
「やはり、わ、私の一存では……」
「では、代表殿にうかがいを立てれば署名をもらえるということか? いつになる? 審理の開始まで、もうさほど時間がないが」
「それは、その……」
押し黙るベネロー。
その様子に、ゼノルは盛大に溜息をつくと、足を組んで言った。
「もういい」
「……」
「貴殿らの意思は理解した。オレの示談案が気に食わず、あくまで訴訟を続けようという腹づもりなのだな」
「い、いえ! そのっ、例の条項を除いていただければ、すぐにでも署名を……」
「けっこうだ。興が削がれた。あらためて考えれば、裁判を経験してみるのも悪くない……代表殿に伝えておいてくれ。法廷で会おうとな」
「う……も、申し訳……」
「そうそう。それに伴い、こちらからも訴状を送らせてもらおう。いわゆる反訴というやつだな」
ゼノルの言葉に、ベネローは目を剥いた。
身を乗り出すようにして問い返す。
「は、はあっ!? なぜっ……!?」
「実はこちらの船を指揮していた武官からは、貴殿らの船は勝手に炎上し沈んだと報告を受けていたのだ。どうせ法廷で争うならば……真実を争うべきだと思わないか?」
「っ……!!」
「無論、こちらに非がないことが証明されたあかつきには、裁判にかかった諸々の費用および、傷つけられた臣下の名誉の代償を、貴殿らには支払ってもらうことになるだろう」
ゼノルが、にやりと笑って付け加える。
「法廷では、貴殿に今回の示談案を蹴られた旨も証言させてもらう。裁判官どもは、果たしてこの一件をどのように受け取るだろうな? 偽証が重罪となる王立裁判所で、貴殿らがどのような申し開きをするか楽しみだ」
「……そ、訴状を……」
「ん?」
眉をひそめるゼノルに、ベネローは声をわななかせながら叫ぶ。
「訴状を取り下げます! 今すぐに! そ、それでっ、問題ないでしょう!?」
「……。はあ……」
ゼノルはこれ見よがしに溜息をつくと……ベネローへ凍てつくような視線を向けた。
「愚物が」
「っ!?」
「貴様、理解しているか? ここで訴状を取り下げるなど、すべては虚偽で、オレを謀っていたと白状するようなものだぞ」
「んなっ……ぐっ……」
「レイシアも詰めが甘い。策は立派でも、実行役がこのような間抜けでは片手落ちもいいところだ」
ゼノルは冷酷に告げる。
「オレの領地で詐欺未遂は罰金か、せいぜいが労役刑といったところだが……オレを謀った者は斬首に処すと決めている」
「っ!? お、お待ちを!」
「まずは貴様からだな、ベネロー」
言い終えるやいなや、武装した数人の兵士が部屋になだれ込んできた。
屈強な腕が、ベネローの両肩を強く押さえる。
「ま、待て! 離せ!!」
「安心しろ。公開裁判の機会を設けてやる。貴様も弁護人をつけることを許すぞ。無実の証拠を好きなだけ集めるがいい。そんなものがあればの話だがな」
「お待ちください!!」
叫んだベネローは、しばし荒い息を吐きながら黙っていたが……やがてゼノルをキッと睨むと、絞り出すように言う。
「よ、要求は……なんです」
「……はあ」
ゼノルは再び溜息をつくと、物憂げに言う。
「ようやく、愚物がオレに対するにふさわしい態度となったか。まあ」
商人の男を、冷たく見据えて続ける。
「あまりに遅すぎたがな」




