第90話 魔女は笑う
湖の方角から何かの気配を察知し、キョウヤは素早く振り向いた。
水面に浮かんでいたのは液状の球。透明ではなく濁ったような水。
最初は泥水かと思ったが、そうではなかった。もっと暗い、闇を思わせる黒。
「あれは……?」
ミレイの呆然とした呟きが耳に入った。こちらに問いかけているのだろうが、あんなものは記憶にない。
正体不明の球体は一直線に飛んでくる。直径は人間の半分くらいか。走って逃げ切れる速度ではなかった。
相棒が前方に光の結界を展開するが、消し去ることは叶わない。それどころか突き破ってきそうな勢いだ。
「何、この力……ッ!」
彼女の声音に驚きと戸惑いが混じる。このままでは支え切れないと告げている気がした。
「ミレイ!」
キョウヤは咄嗟にミレイの前に躍り出た。護らなければいけないという本能だけが全身を駆り立てた。
光の力が破られ、眼前に球体が迫る。斬撃を繰り出すよりも早く己の元へと到達し――
「……どういうことだ?」
次の瞬間、それは消失していた。苦痛どころか衝撃すら感じなかった。
理解が追い付かない。黒い塊が身を貫いたのは間違いないのに、どうなっているのだろう。だが、思案する暇は与えられなかった。
「へえ、仲間を庇うなんてビックリ。お姉さん感動しちゃったよー」
どこからか柔らかな女の声がする。驚愕しつつも称賛するような口調だ。
辺りを見回すと、湖を囲う岩壁の上に誰かが立っていた。影は軽やかな動作で着地し、湖を背にしてこちらに向き直る。
魔女。そう表現するのが適切だと思った。広いつばがある尖った帽子に、ゆったりとしたローブ。
どちらも黒で統一されているが、リボンや刺繍などで所々に血のような赤が加えられている。
「今までの人たちはつまらなかったけど、アナタたちは本物だねー」
「……お前は誰だ」
「名乗るなら自分からじゃないー? お姉さん悲しいよ」
女はのんびりとした声で話しているが、悪意を隠すつもりはないらしい。遊び心の中に残酷さが透けて見える。
「ふざけるな。冒険者の失踪はお前の仕業か」
「ありゃ、噂に釣られたんじゃないの? これはもしかして、逆に誘き出されちゃったってことかなー」
魔女は飄々とした態度を崩さない。想定外ではあったようだが、勝利を確信したような目をしており、唇の端は僅かに吊り上がっている。
既に彼女の罠にかかっている可能性が高い。ならば、先ほどの球体に何かが仕込まれていたと考えるのが妥当だ。
「あなたが、冒険者を襲った犯人なんだね……」
「フフ、そうだよー。お姉さんはね、仲睦まじいカップルが大嫌いなの」
「絶対に許さない……!」
思案している間にミレイが言葉を交わす。柄にもなく冷静さを欠いている様子だ。ロッドを握り締め、肩が小刻みに震えている。
彼女は機先を制するように《フレイムバレット》を発動した。しかし、魔女も同じように炎弾を生成する。
直後、射出された二つの炎が中間地点で衝突し、大爆発を引き起こした。熱風が洞窟を駆け巡り、髪や衣服をはためかせる。
後出しで相手の魔法を相殺する正確無比な攻撃。その熟練度はシルヴァンとは比較にならない。
「正義感が強いのはいいけど、アナタは逃げた方がいいんじゃないかなー。大事な人に殺されるのは辛いよー?」
煙の向こう側から捉えどころのない声が届く。言葉の意味は分からないが、脳内では警告音が鳴り、背筋に冷たいものが走った。
「今のうちに引き返すぞ」
「でも、あれは殺らないと……!」
「落ち着け。ここで戦うのは得策じゃない。それとも、俺に無茶をさせる気か?」
「……分かった」
荒れ狂うミレイの腕を掴んで説得し、先に退却させる。
追撃が飛んでこないことを確認しつつ、キョウヤも彼女の後に続いた。
「フ、フフフッ……賢明な判断だねー。でもお兄さん、アナタはもう手遅れだよー」
湿った通路を疾走する中、背後から笑い声が響く。それはまるで死の宣告のようだった。
復路を半分ほど過ぎた辺りの小部屋で、キョウヤは違和感を覚えて立ち止まった。
魔女が追ってくる気配はないのに、なぜか不快感は一向に消えてくれない。胸の奥がざわつき、息苦しさを感じる。
「どうしたの? もしかして、どこか調子が悪い?」
「いや、なんでもない。そんなことより、さっきのはなんだ? 君らしくない」
「だって、あの人が失踪事件の原因なんでしょう? だったら放っておけないよ」
「俺たちの目的はあくまで調査だ! 危険を察知したら引き返す約束――ううっ……!」
声を張り上げた途端、身体の内側で何かが弾けたような気がした。熱いものが込み上げ、視界が暗くなった。
この感覚には覚えがある。《アルドラスタ》の襲撃で追い詰められ、ミレイに対して怒鳴った時とよく似ている。
このままでは不味いと感じ、彼女に背を向けた。遠ざかろうと足を動かすが、にわかに背中に柔らかい感触が伝わる。続けて悲痛な声が耳を直撃した。
「ごめん、ごめんなさい……! 偉そうなことを言っておいて、わたしはまた間違いを……ッ!」
足が固まったように重くなり、それ以上は動けなかった。
――相棒を悲しませてはいけない。
その想いだけが頭の中でループしている。腰に回された腕を振り払えずにいると、徐々に危険な衝動が引いていく。彼女の温もりが闇を溶かすように広がった。
「ごめん、言い過ぎた。ミレイは間違ってない。でも、危険を冒してほしくなかったんだ」
「うん……そういう約束だったよね……。だから、わたしの判断が――」
キョウヤは咄嗟に身体を反転させ、震えるミレイを包み込んだ。
時間が止まったように、二人は凍りつく。その間、洞窟を流れる水だけが優しい音を奏でていた。




