第8話 路地裏の交渉
「いかがなさいましたか! お怪我はございませんか!?」
ソフィーの声が響く中、少女は目を丸くして茫然と座っている。
手に広げていた本を横から覗き込むと、とある中級魔法が記されていた。
「《ルミナスレイ》……」
キョウヤが何気なしに呟くと、ソフィーはハッとしたような表情を見せる。
少女の手から本を回収し立ち上がると、周囲の人々を落ち着かせるように声を発した。
「皆様、大変失礼いたしました。魔法の誤射のようですので、ご心配にはおよびません。どうかお気になさらず」
「なんだよ、驚かせやがって。気を付けてくれよな!」
「襲撃かと思ったわよ。まったく……」
冒険者たちが文句を言いながらも元居た場所に戻っていき、ギルド内は平静を取り戻していく。
ソフィーは最後まで目を光らせ、その場に誰も近付けないように立ちはだかっていた。
ようやく我に返った少女は、立ち上がると申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、こんなつもりではなくて……!」
「大丈夫ですよ。しかし、これは……」
ソフィーは転がったテーブルと穿たれた床を見て、複雑な表情を見せた。破壊行為への戸惑いというよりは、その力に対する畏敬の念のようなものを感じる。
それを見た少女の顔が、立所に青ざめていくのが見て取れた。
「ごめんなさい……少し、外へ行かせてください。必ず弁償しますので――」
居た堪れない様子の彼女は、壁に立て掛けていたロッドを手にすると逃げるように去っていく。
ソフィーは少し考え込む素振りを見せた後、キョウヤに目を向けて懇願するように言った。
「キョウヤさん、よろしければ様子を見に行っていただけませんか? 彼女が無理をしないように、どうかお願いします」
断る理由はなかったし、断れるような空気でもない。
彼は頷いた後、足早に外へ出て辺りを見回した。広場とは反対側の路地の方向、通路を先に進んだ場所にその少女は佇んでいた。
ゆっくりと近付いていくと、微かな足音に気付いた彼女がビクリと身体を震わせて振り返った。唇を噛み締め感情を抑え込むような表情が露わになる。
「……冷やかしに来たんですか?」
「まさか」
「なら、放っておいてください」
素っ気ない態度。草原で話しかけた時と同様、強い警戒心が乗った声が再びキョウヤの耳に刺さった。だが――
「そういうわけにもいかない――俺もこの世界の住人ではないから」
周囲に他の人影がないことを確認すると、彼女の方へ数歩近付き、トーンを落として後半の一言を告げた。
もはや探り合いをする必要はない。思慮深い彼女であれば、こちらの意図にも気付くはずだ。
「……あなたもですか」
彼女は一瞬目を見張って戸惑う様子を見せたが、すぐに平静を装うように呟いた。その表情からは先刻までの強固な拒絶の意思は見受けられない。
相手が喋らないなら、こちらから歩み寄ってしまう方が早い。そう、かつて二人の友人がしてくれたように。
「話が早くて助かる。《ティルナノーグ》は知っているか?」
「ゲームのタイトルですよね。まだ一週間もやっていませんでしたが」
何かを思い出したように、赤い目が遠くを見つめる。
やはり彼女も同じゲームのプレイヤーだった。本当に始めたばかりのビギナーだったことには驚きを隠せなかったが。
「さっきの魔法は?」
「分かりません。本を読んでいて、気付いたらあの状態でした……」
先ほどの光景が想起されたのか、声が弱々しく震える。
その怖れの感情が、自身に宿っている力に対してか、それとも自分に向けられた目に対するものかは、キョウヤには判別できなかった。
おそらく、彼女が閲覧中に無意識に想像した魔法が暴発したのだろう。与えられた、あるいは備わっていた未知の力を制御できなかったと考えるのが妥当か。
それにしても最初から中級魔法とは、同じ転生者でも随分と格差が大きい。《フレイムバレット》が不発したことを思い出してしまい、ため息が出そうになるのをグッと堪える。
「それで、あなたの目的はなんですか?」
暗然と思考を巡らせていると、今度は少女の方から問いかけられた。
成り行きで追ってきたのだが、彼女は思っていたよりも冷静な様子だ。すぐに立ち直り、ギルドへ戻っていくに違いない。
もう一歩踏み込むのならば、今この瞬間しかないだろう。
「そうだな……良ければ手を組まないか」
「……なぜ?」
最大限の勇気を出して発した言葉だったのに、途端に訝しげな目を向けられた。
こういう時は協力するのが自然な流れだと思っていたが、彼女はそうではないらしい。
キョウヤはその問いにはすぐに答えることができなかった。回答次第では即座に拒絶され、二度と腹を割って話す機会はないかもしれない。
ソフィーに頼まれたからというのは、あまりにも主体性に欠ける。冷たい目で見られるのは間違いない。
心配だから、不安だから。そういった感情は確かにある。
力を持っているとしても、それを使いこなせるかは別の話だ。彼女は基となっているゲーム世界にすら慣れていない。
初心者が初見攻略することが困難であるように、この世界の脅威が彼女に牙を剥くのは容易に想像できる。
同じ転生者として、放っておくのはいささか薄情に思えた。
しかし、聞こえの良い言葉は却って疑念を抱くだけだ。
これまでの彼女の態度は、疑い深いキョウヤ自身と重なって見えた。だからこそ感情論ではなく、道理にかなっていなければならないことが分かる。
「似たような境遇だから、現地人と組むより融通が利く。それに単独で行動するより仲間がいた方が安全だからだ」
「要するに、わたしを利用したいということですか」
痛い所を衝かれて言葉に詰まった。実際その通りで、彼女の力には可能性を感じている。それゆえ、今更引き下がる気はなかった。
彼女は友人ではなく、数回話しただけの他人でしかないのだから、当たって砕けろの精神だ。
「その解釈も、まあ間違ってない。けど俺はゲームだった頃の世界をよく知ってるから、役に立つこともあると思うぞ」
「あなた自身が危険ではないことをどう証明するつもりですか?」
「それはお互い様だろう。だから信用してもらわなくてもいい」
淡々とした言葉の応酬に続いて数秒の沈黙。程なくして少女は大きくため息を吐くと、意を決したようにキョウヤを真っ直ぐ見て口を開いた。
「分かりました。ただし、手を切るタイミングはこちらで決めます。それが条件です」
「それで構わない」
ひとまず協力を取りつけることに成功し、キョウヤは安堵した。らしくない交渉をしたせいか、急に精神的な疲れが押し寄せてくるのを感じる。
だが、そうしてでもパーティを組む価値はあった。死の恐怖が常に付き纏うこの世界では、ソロで動き続けるのは限界があるからだ。
あとは後ろから刺されないことを祈るばかりだが――それとは別にもう一つ気がかりなことがあった。
「一つ頼みがあるんだが、敬語はやめてもらっていいか。正直やりづらい」
「大人相手には上辺だけでも敬意を払うべきと学びましたよ」
そういうことを本人の前で言ってしまっては台無しなのだが、もはや突っ込む気も起きなかった。
転生先の身体が大人びているせいか、外見で舐められないのは利点だが、こういう時に改めて説明するのは面倒に思えてくる。
「こんな姿でも中身はただの高校生だ。だから気にしなくていい」
長い静寂が訪れる。少女の表情は変化に乏しいが、顔を背けて考え込む様子を見せていた。
「……そう。じゃあ、そうしようかな。えっと……」
やがて彼女が沈黙を破り、たどたどしく声を絞り出すが、すぐにフリーズしてしまう。
これだけ言葉を交わしたのに、未だ名乗ってもいないことに気付いたのはその時だった。
「……キョウヤだ。よろしく」
「わたしは……ミレイ。よろしくね」