第5話 葛藤と覚悟
街の南門を抜けた先、《ラスタ平原》は広大な草原地帯だ。
南側へと伸びる一本の道の他には、見渡す限りの緑が広がっており、視界を遮る物はほとんど見当たらない。
陽光が差し穏やかな風が吹く平原、その街道には南北に行き来する人影がまばらにあった。
街を出たキョウヤは道から東に逸れた人気のない草原の中で、小型の魔物の影を捉えていた。《タイニーチック》と呼ばれるそれは、小型といっても人間の膝下ほどの大きさを誇る生命体だ。
その姿は巨大化したヒヨコと表現しても差し支えないもので、ゲームでは最弱の魔物としてよく知られていた。稀に嘴による攻撃を行うことはあるが、基本的には逃げ回るだけで無害な鳥である。
キョウヤが右手を突き出すと、掌の先に揺らめく炎が現れる。それはすぐに形を球へと変え、無防備な魔物に向けて撃ち出された。
火属性下級魔法《ファイアボール》は、狙いたがわず対象に直撃し火を散らす。夢にまで見た魔法を使いこなしたと思った瞬間、彼の心は喜びで満ち溢れた。
ところが、倒れたはずのヒヨコはのそりと起き上がると、攻撃者を認識し警戒するようにピーピーと鳴き始めた。
「チッ……」
束の間の歓喜が、すぐに失望へと変わっていく。
ギルドで読ませてもらった書籍に偽りはなかった。確かに魔法を使うことはできたのだから。
この世界の者は誰もがマナと呼ばれる自然の力を、多かれ少なかれ体内に宿している。これはゲームらしく表現すれば、MPの数値が高いか低いかの差だろうか。
そしてマナを放出する際、使い手が想像したものを具現化する。これが魔法と呼ばれる現象であるとのことだ。
今しがたキョウヤが放った《ファイアボール》も、火球を生成し敵にぶつけるという想像した通りの結果である。しかし、その威力は頼りないものだった。
魔法の強度――魔力を決める要素は適性や修練、装備など多岐にわたるらしいが、この結果は適性を欠いていると言わざるを得ない。
彼は縋るように手を伸ばし、今度は炎を弾丸のような形に凝縮していく。先ほどよりも強力な火属性中級魔法《フレイムバレット》を行使しようとするが、その火炎は形を成す前に弾けるようにして霧散した。
今その魔法を使うには何かが足りていない気がした。それが放出するマナなのか、あるいは制御する技量なのかは見当がつかない。
キョウヤは腕を下ろし、拳を強く握り締めた。
ここまでで明らかになったことがある。初期装備は貧弱、魔力は月並、この世界における冒険者キョウヤは凡人だということだ。
せっかくゲームのアバターに転生したというのに、備わっていた力で無双するという理想はただの幻想でしかなかった。
心のどこかで自分は特別かもしれないと思っていただけに、落胆は大きいものだった。だからといって、いつまでも俯いてはいられない。
彼は右腰のダガーを引き抜くと跳ぶように駆け出す。相手は逃げるために背を向けるが、軽い身体はあっという間に敵を射程圏内に捉えた。
左足で踏み込みつつ、逆手に持ったダガーを腰を落としながら叩きつけるように振り下ろす。少々格好がつかないが、小さな標的を確実に仕留めるにはこれが最適に思えた。
サクッ、と刃が軽い音を立てて突き刺さった――鳥の背を掠った後に草に覆われた地面へと。
微かな違和感が胸中に広がっていく。初動は確実に獲物を捉えていた。しかし武器を振り下ろす直前、なぜか迷いが生まれたのを感じた。
キョウヤは地に刺さったダガーを回収すると、先ほどよりも間合いをとって立ち止まった敵に向き直った。
目を伏せると先刻の場景が呼び起こされる。距離を詰めるところまでは順当だった。あとは正確に狙いを定めて貫くだけ。
意識を研ぎ澄ますと再び疾駆する。のろのろと逃げ惑う獲物を追い詰めるのは容易だ。
そして、振り下ろされたダガーが――今度は目標から逸れるように空を切った。
「は、ははっ……」
乾いた笑いが草原に流れた。そのまま地面に両膝をつき、無気力に項垂れる。
もはや疑う余地などなかった。この心が、身体が、殺傷をすることを拒んでいるのだ。
魔物は倒せば消滅する生命体でしかないと、頭では分かっていたつもりだった。
しかし、その姿はただ逃げ回るだけの愛らしいヒヨコだ。それをこの刃で傷付け、最終的には命を刈り取ることに、強烈な嫌悪感を示している。
魔法を撃った時にそれを感じなかったのは、ゲームのような非現実的な要素が残っていたからかもしれない。
だが、手にした刃物を直接突き立てるというリアリティを、その感覚は覆い隠してはくれなかった。
「くそっ」
罵りながら握り拳を地面に叩きつけると、鈍い痛みが腕に走るのを感じた。
生き残るために強くなる、他人に頼ってはいられない。そう街で決意したあれは一体なんだったのだろう。
最弱の魔物一体すら殺めることができない人間が、この残酷な世界で自分の力で生きていくなど。
――ああ、無理だ。
所詮、ぬるま湯に浸かって生きてきた人間だ。全く別の世界に放り出されて、適応できるわけがなかった。
漫画や小説の主人公とは違う。これが現実だ。
打ちひしがれたキョウヤは、逃がした魔物に見向きもしなかった。ただひたすら、己を蔑み憎悪する。
この場で警戒を解くことが自殺行為であることも、彼の頭からは抜け落ちていた。それゆえ、その場に迫る新たな影に気付くのが遅れた。
「グルルルッ……!」
突如響いた音にキョウヤが顔を上げると、赤褐色の毛に覆われた四足歩行の魔物が目を光らせていた。正面で威嚇する個体とは別に、二時の方向からもう一体がゆっくりと迫っている。
腰下ほどの大きさの犬を象った魔物《グラスハウンド》は、最下級に位置する魔物のうちの一体である。
《タイニーチック》と明確に違うのは、その好戦的な性質だ。突進と噛みつき攻撃は、駆け出しの冒険者にとっては脅威となり得る。
ゲームでは、一体に気付かれると付近の個体がリンクして臨戦態勢に入るという、対複数戦を押しつけてくる面倒な魔物でもあった。
キョウヤは立ち上がり武器を構えたが、足元がおぼつかない。戦う気力を失った冒険者は、猟犬にとっては格好の的だった。
もはや逃げるという選択しか思い浮かばなかったが、背を見せればその瞬間に襲いかかってくるのは確定的だ。
じりじりと後ずさると、二体の魔物は一定の距離を保つように追ってくる。緊張から冷たい汗が流れ、手足の熱が奪われていく。
足が震えを感じ、ガクリとバランスを崩しそうになり――その時、正面の一体が動いた。
俊敏な動作で走り出すと、そのまま跳躍し胸を目がけてダイブしてくる。咄嗟に右足を後ろに下げ、身体を横に向けて仰け反らせると、眼前をその犬が通過していった。
胸を撫で下ろしたのも束の間、左斜め前からもう一体が駆け始めるのが見えた。少しだけ落ち着きを取り戻した彼は、相手がジャンプする瞬間まで引きつけ、後ろに跳ぶ形で回避する。
冷静に対応したつもりだったが、それが仇となった。体勢を整えた時には既に、最初に仕掛けてきた個体の二度目の攻撃が迫っていた。
「ぐうっ……!」
全体重を乗せた突進をいなすことができず、キョウヤは仰向けに押し倒された。
獣の凶暴な眼と大きく開いた口が視界を埋める。その鋭い牙で噛みつかれてしまえば、無事でいられるはずがない。
――死にたくない。
その瞬間、死の恐怖が思考の全てを吹き飛ばした。
「うあああああっ!」
叫びながら、右手で握り締めていたダガーを獣の首を目がけてがむしゃらに突き刺す。
獣が情けない鳴き声とともに力を抜いた瞬間、左手でその胴体を突き飛ばし、同時にダガーを引き抜いて起き上がった。
血を流しながら倒れ込む姿を視界の端に置きつつ、別の個体の攻撃に精神を集中させる。間合いを詰めてきた後の跳躍、その瞬間を見逃さなかった。
交錯する直前にサイドステップで身体を左にずらし、すれ違いざまに右手で斬りつける。
血飛沫が草原に舞い、背後でバランスを崩した獣が地面に衝突する音が響いた。
キョウヤが振り返ると、二体の魔物がゆっくりと起き上がろうとするところだった。大きなダメージは与えたが、致命傷とまではいかなかったようだ。
なおも戦闘を継続しようとする獣たちを見て、彼の心の迷いは消えた。
左手を胸に当て、身体に風を纏う姿を想像する。強化魔法《ウィンドブースト》、風の力を借りて一時的に速度を大きく上げる初歩的な魔法だ。
攻撃魔法はあまり役に立たなかったが、補助魔法であれば使っておいて損はない。
決着は一瞬だった。魔法の恩恵も感じられたが、それ以上に心の変化が大きい。
加速された身体は瞬く間に敵の側面まで飛んでいき、ダガーを横から胴体に突き刺して最初の標的を屠る。休む間もなくもう一体の背後に移動し、振り向こうと身をよじる獣の背に右手を振り下ろした。
生命力を失った魔物たちがその場にドサリと横たわり、血だまりを作る。
キョウヤはその姿をじっと見つめるが、憐れみの感情が湧き上がってくることはなかった。
「お前らには感謝しないとな」
吐き捨てられた言葉は、僅かな謝意を示すだけの冷酷なものだ。
嘘のように静まり返る草原の中、彼は不敵な笑みを浮かべて空を見上げた。