第25話 凍える記憶
夕暮れ時、静寂に包まれた薄暗い通路を歩んでいた。
左手には複数の広い部屋が連なっている。各部屋には二つの扉があり、開けられたその入口から光が通路へ漏れていた。
通路の右側には四枚一組の窓が並び、そこからオレンジ色に染まる外の景色が見える。
――どうして、こんなところに。
自分がこの場にいる理由が分からない。一度立ち止まって思案しようとすると、左手から声が響いた。
「おい、忘れ物だぞ」
「ああ、悪い。サンキュ!」
「……にしても、お前が居残りなんて珍しいよなぁ」
「うるせぇな、俺だって必死なんだよ」
部屋から二人の少年が喋りながら出てくる。軽薄な印象を受ける口振りとは裏腹に、意外にも整った身なりをしていた。
上下共に黒い服に身を包み、首元には白いシャツとネクタイが見える。その肩には暗色の鞄をかけていた。
――そうだ、忘れ物。戻らないと。
彼らの会話から事情を思い出し、再び歩を進める。目的の場所はもうすぐだ。
多数の机と椅子が並べられたその部屋に入ろうとした時、中から見知った声が聞こえた。
「――マジで付き合い悪いよね」
「うんうん。自分の都合しか考えてない感じ」
「ちょっと顔と頭がいいからって、調子に乗ってない?」
「分かる。あの冷めた目とか、見下してるとしか思えないよねぇ」
不穏な話声がなぜか胸を抉り、部屋の入口で足が凍りついた。
このままではいけないと頭では分かっているのに、身体が言うことを聞かない。
「うーん……あの子は前からあんな感じだよー」
「……あっ、ミユは神崎と付き合い長いんだっけ」
「ごめんごめん、あんまり悪く言いたくはないんだけどねぇ」
「あはは、気にしなくていいよー」
――やめて……これ以上聞きたくない。
凍えたように固くなった両腕を動かして耳を塞ぐ。それなのに、氷の吐息の如く冷たい言葉は容赦なく滑り込んできた。
「――つまらないし、うんざりしてたのは私も同じだからねー」
「ええ、それはえぐいって。友達でしょ?」
「うわぁ、可哀そう」
思い思いに言葉を発した後、三人は面白がるようにクスクスと笑った。
胸が苦しくなり、呼吸が荒くなる。身を切るような寒さの中、汗が額から滴り落ちた。
「あれでも不思議とモテるんだよねー」
「いつも真っ先に消えるの、男が理由だったりして」
「あー! そういうことかぁ。天才はお気楽でいいよねぇ」
――違う、違う、違う……勝手なことを言わないで。
異性と関係を持ったことなんてない。天才なんて言葉も似つかわしくない。
すぐにでも部屋に踏み込んで弁明したいのに、凍結した身体はどれだけ力を振り絞っても動くことはなかった。
自身のことで精一杯だったのは間違いない。これは自業自得ともいえる結末なのだろう。
凍てつく空間に体温が奪われる感覚とともに意識が薄れていき、やがて目の前が真っ暗になった。
「――聞いているのか」
もう一度目を開けると、いつの間にか別の空間に転移していた。
オフホワイトの壁とライトブラウンの床で構成された広い部屋に、朝日が差し込んでいる。
目の前のテーブルにはいくつかの料理が置かれていた。それらから温かさを感じられないのはどうしてだろうか。
正面に厳かな雰囲気を漂わせた男性が座している。その射るような眼差しからは、笑っている姿が全く想像できない。
斜向かいには整った顔立ちの女性が腰かけていた。美人であることに違いはないけれど、どこか冷たい印象を受けた。
――ああ、そうか……。
それだけで状況を理解し、緊張が走った。この空間が説教の場であることは身体に刻み込まれている。
「返事をしなさい。これで一週間になるぞ」
「……もう少しだけ、時間をください」
「もう少しとはどれくらいだ。下らないことで落ち込んでいる暇があるのか」
「ごめんなさい……」
抑揚に乏しい声で叱責され、おずおずと返答する。父親とのやり取りはいつもこんな調子だ。
己が絶対に正しいと言わんばかりの口調には、口答えなど絶対に許されないという威圧感があった。
「お前は将来、大勢の人を救う役目があることを忘れるな」
「はい……」
何度も何度も聞かされてきた、ただ圧力をかけるだけの言葉。
胸が締め付けられ、吐き気を催す。そろそろ限界だと身体が告げている。
「……ごちそうさま」
「ちょっと、まだ残っているわよ。待ちなさい!」
部屋から逃げ出そうとすると、ここまで黙していた母親に呼び止められた。それでもお構いなしに抜け出し、急ぎ足で階段を上がっていく。
自室に入ると同時に扉を乱暴に閉め、ベッドに身体を預けた。唇を噛み締めて枕に顔をうずめても、不思議と涙だけは流れてこない。
どうしても落ち着かず、机に向かいパソコンの電源を入れた。デスクトップに置かれている一つのアイコンをクリックする。
次にIDとパスワードを入力し、表示されたキャラクターを選択すると、画面全体に幻想的な景色が広がった。
広大な草原に立っているのは白い外套を纏った銀髪の少女。その頭上には白い文字でミレイと表示されている。
これは数日前から始めた《ティルナノーグ》というタイトルのゲームだ。こういうものに手を出すのは生まれて初めてのことだった。
未だ操作には慣れず、システムも分からないことばかり。それでも、この世界に己を咎める者はいない。
もう一人の自分はどこまでも自由でいられた。何もかもが新しい体験であり、その度に胸がときめいた。
「光怜……あなた、何してるの?」
不意に背後から母親の声が響き、途端に血の気が引いていく。恐る恐る振り向くと、信じられないとでも言いたげな表情が目に入った。
その時になってようやく、部屋の鍵をかけ忘れていたことに気付く。叱られて気落ちしていたとはいえ迂闊だった。
「……気分転換」
「遊んでいる場合なの? 今すぐアンインストールしておきなさい」
疲れた時に気を紛らわすことすら許されないのか。
こちらの話には耳を貸さないくせに、なぜ思い通りに動かせると思うのか。
「嫌。それだけは絶対に」
「そう、分かったわ。お父さんに伝えておくわね」
「ま、待って!」
先ほどの仕返しであるかのように、母親は制止する声を無視して部屋から出ていった。
遊んでいることを父親に知られれば、どうなるかは想像に難くない。最後の拠り所さえ奪われて、その先に何が残るというのだろう。
どうして、誰も理解してくれない。普通の学生として生活できれば、それ以上を求めるつもりはないのに。
――もう、どうでもいいか……。
身体が脱力する。銀髪の少女がカラスのような魔物に襲われている光景を、虚ろな目が捉えた。
やがて画面の下部に表示されていた赤いバーが消滅し、彼女は地に倒れ伏す。自分自身が置かれている状況と似ていると思った。
――自由になりたかった……ゲームの中で翔る少女のように……。
フラフラと立ち上がり、何かを求めるように彷徨う。
そして、神崎光怜は現実を呪った。




