第100話 雨と涙
降りしきる水滴の音は途絶えず、雷電も鎮まる様子はなかった。
ゲームでもよく雨が降るエリアだった記憶があるが、現実となった世界では影響が大きい。
行動を妨げられたキョウヤたち三人は、神殿一階にある小部屋に避難していた。
「山は天気が変わりやすいとはいえ、下山するまでは待ってほしかったな」
軽い調子で口に出してみたが、ミレイとクロエから声は返ってこない。
女神から告げられた真実が、二人の心に影を落としている。反面、意外なほど冷静な人間がここに一人いた。
元々あまり期待はしていなかった。事故がきっかけで転生したのに、命が戻るなど都合が良すぎるのだから。
落ち着いていられる理由はもう一つ。元の世界への帰還が別れを意味すること。
選択した瞬間、ミレイはもちろん、《フリーダム》や《光の剣》、ソフィーやフィノアとも二度と会えなくなる。
しかし、方法がないのならば。この世界で暮らすしかないのならば。仕方ないと、自分に言い聞かせられる。
あの瞬間の衝撃が、今までの苦悩をどこかへ飛ばしてしまった。我ながら不謹慎だとは思っている。
「今日はここで一夜を明かすことになると思う。今はゆっくり休んでくれ」
下山の強行はできなくはない。例えば《フロストシールド》を頭上に張り続ければ、雨そのものは遮断できる。
問題は足元の方だ。悪天候でも魔物は容赦なく襲ってくるし、登山に比べて下山は転倒の危険性が高い。
道幅が広いとはいえ、泥濘で滑りでもしたら、そのまま転落して遭難ということもあり得る。
ただでさえ精神的に参っている状態だ。無闇に動くのは得策ではないと判断した。
「ああ、このままだと冷えるな。丁度いい物を買っておいたんだ」
言いながら、腰のマジックケースから一つの魔導具を取り出す。台座の上に透明の円柱があり、内側に大きな石が備え付けられている。
それにマナを流し込んだ瞬間、中の魔石に火が灯った。これは焚き火の代わりになり、少量のマナで熱と光を維持できる優れ物だ。ファイアランプという安直な名称は残念だが。
「じゃあ、俺は入口を見張っているから」
相変わらず二人は押し黙ったままだった。やはり気持ちを整理する時間は必要だろう。
ここに敵が入ってくる可能性は低いが、沈黙から逃れる口実が欲しかった。
部屋の入口から辺りを見回せば、天井のそこかしこから雨漏りしている広間が目に入る。
天に近いゆえに女神と繋がりを持ちやすい。そのような理由で建てられた神殿は、今や物寂しい廃墟と化していた。
水の音を背景にソラスとのやり取りに思いを巡らせていると、不意に背後に人の気配。ミレイだった。
「どうした?」
「キョウヤ……実はそこまで悲観してないよね」
「……鋭いな」
「これだけ一緒にいるんだから、そのくらいお見通しだよ。あなたがどっちの世界を選ぶか悩んでいたことも知ってる」
相棒には思考が筒抜けだったらしい。そして、彼女自身は元の世界を嫌悪している。
最もショックを受けているのはクロエだ。だから、彼女に気を遣って喋らないようにしていたに違いない。
「未練がないわけじゃなかった。でも、選択肢が潰されたおかげで、どこか安心している自分がいるんだ」
「分かるよ。わたしだって、ずっと不安だった。いつかキョウヤやクロエと別れる時が訪れると思ったら、寂しくて仕方なかった」
「はは……似た者同士だな」
「そうだね。でも――」
ミレイが一瞬だけ部屋の中に目をやる。それだけで何を言おうとしているかが伝わってくる。
「でも、クロエは違う。きっと……ううん、間違いなく、今までのキョウヤ以上に悩んで、苦しんでる。だからお願い、寄り添ってあげて。今の彼女に必要なのは、命を粗末にしたこんなどうしようもない人間じゃなくて、苦悩が理解できる人の言葉だよ。わたしはもう大丈夫だから、クロエの助けになってあげて」
決して平常心ではいられないはずだ。それでも、こんな状況でも、彼女はクロエのことを想っている。
これがミレイという少女だった。だからこそ一緒に旅をしてこれたし、これからも共にありたいと願う。
「一つだけ訂正させてほしい。君はどうしようもない人間なんかじゃない。どうしようもないくらい優しくて素敵な人だと思う」
「ふふっ、ありがとう。普段からそれくらい素直だと嬉しいんだけどね」
「その言葉、そのまま返すよ。じゃあ、また後で」
「うん、よろしくね」
相棒と微笑みを交わした後、キョウヤは部屋の中に戻った。
灯火の前ではクロエが膝を抱えて座っている。垂れ下がったダークブルーの髪に隠れ、表情は見えない。
「クロエ……隣、いいか」
「……はい、どうぞ」
いつもの元気な少女の姿は欠片もなく、声は絶望の色に染まっていた。
闇に沈んでいく彼女を引き上げるのは容易ではない。己は話術に長けた人間とは違う。
だとしても、クロエの笑顔を取り戻したいという気持ちは揺るがない。
前に心が折れた時、彼女は懸命に励ましてくれた。自身の気持ちを押し殺して、背中を押してくれた。だから、今度はこちらが助ける番だ。
「レオンとイーリス、覚えているか?」
「……もちろんです。お二人にもお世話になりましたから」
もはや遠い過去のことに思える、ゲームの友人たち。自分を通して、クロエも彼らと繋がりを持っていた。
結局、再会は叶わなかった。最後に告げた言葉は「おやすみ」だったか。まさか永眠することになるとは皮肉なものだ。
「俺はあの二人に一言でも謝っておきたかった。事故った時に浮かんできたのもあいつらのことで、ゲームに戻りたいと願った。だから、勘違いした女神が拾い上げてくれたんだろうな」
「そういえば……私も遊べなくなってから、先輩のことをよく考えていた気がします……」
これは推測ではあるが、女神は無作為に転生させたわけではない。
《ティルナノーグ》への強い想いを汲み取って、数ある中から生命を選び取った。そうでなければ、既にゲームから離れていたクロエが選ばれたのは不可解だ。
「あの女神、本当にいい加減だよな。勝手な都合を押し付けて、世界を救えとか言いやがって」
「そう、ですね。そんなことを言われても、困ってしまいます……」
「だけど、少しだけ感謝もしているんだ」
「えっ……?」
素っ頓狂な声が上がる。彼女の青の眼差しは、信じられないものを見ているかのようだった。
「女神のおかげで、終わっていたはずの人生が続けられている。思っていた以上に過酷な世界だったけど、代わりに俺は少し大人になれた。それに沢山の出会いがあった。もちろん、クロエもその一人だ」
「あ……」
生きることが素晴らしいことだと教えてくれたのは、他でもないこの世界だった。
「本来は交わるはずのない運命だったのに、この世界に来れたからこそ巡り会えた。だから、その点はありがたく思っているよ」
ソラスには色々と言ってやりたいことがあるが、これだけは嘘偽りのない気持ちだ。
「クロエ、君はどう思う?」
「わ、私も、そう思っています……! 先輩も、ミレイさんも、《フリーダム》の皆さんだって……! この世界の出会いは私にとってかけがえのないものです……ッ!」
なんの解決にもならない応急処置にすぎなかった。ともすれば彼女を縛る呪いの言葉にもなり得るだろう。
それでも、クロエには世界を恨んでほしくなかった。もう一度笑ってほしかった。
「先、輩……ッ!」
瞳を潤ませた彼女が崩れるように胸に飛び込んでくる。
思わぬ力に押し倒されそうになるが、両手を地面について踏みとどまった。
「ごめん、なさい……! 少し、このまま……いさせて……ッ!」
「ああ、大丈夫だよ」
雨はまだ止まない。クロエの涙も止まらない。
だが、先に晴れるのは彼女の顔の方だと、キョウヤは固く信じて疑わなかった。




