眠れない夜
眠れない夜、私も蝶になる夢をみていた。
「ええ、ぜんぜん大丈夫ですよ、やっておきますね」
その日の夕方、終業間際にすべり込みで舞い込んできた書類チェックの仕事を、高瀬澪は穏やかな笑顔で引き受けた。
「いやあ、高瀬さんがいてくれて、本当に助かるよ。いつもありがとね」
片岡課長は、つくったような笑顔を澪に向けながら言うと、「ああ、忙しい、忙しい」とぶつくさ言いながら、そそくさと急ぐように帰っていった。
「ふう」
ため息をつくと、隣の席にいた部下の内田朱音が心配そうな顔で声をかけてくる。
「いいんですか、先輩。今日も残業じゃないですか。たまには断らないと。どんどん押し付けられちゃいますよ」
「私は大丈夫だよ。今は仕事が趣味みたいなものだし、課長もなんだか忙しそうだから」
澪は穏やかな笑顔で、部下の朱音に答える。
「いや、あれは早く帰るために、忙しいフリしてるだけですよ。さっきまで暇そうにしてましたよ」
朱音は若さ特有の落ち着きのなさはあるけれど、意外に周りをしっかり見ているんだな、と澪は思った。
「先に言っておきますけど、今日は私、手伝えませんからね、彼氏の誕生日なので」
「うん。大丈夫。私は何とかなるから。彼氏の誕生日、たくさん祝ってきてあげて」
「先輩、いい人すぎますよ。ホント無理しないでくださいね」
朱音はぺこりと頭を下げて、帰っていった。
時計をみると、短針と長針が直線になりかけている時間だ。今から二時間もかからないくらいで今日の仕事は終わるだろう。夕ご飯は後でいいや、と思い、澪は押し付けられた仕事にとりかかった。
その夜、私は眠れなかった。ベッドの上に横になりながら、どのくらいの時間が経ったのだろう、と今夜も何度も何度も思っている。部屋は静まりかえっていて、窓のカーテンの隙間から突き刺す街灯の微かなあかりが壁を照らしていた。
私はそれを視界に入れながら、その日の夕方に朱音から言われたことを思い出していた。
(いい人か・・・。ぜんぜんそんなつもりはないんだけどな)
もちろん急な残業は、私もできるだけしたくないと思っている。けれど、私が少しだけ我慢して物事や人間関係がスムーズにいくのなら、それでいいんじゃないか、という結論にいつも辿り着く。もし、人間関係が悪くなってしまうのなら、その状況は私にとって居心地が悪いものだから、それを避けるために残業を引き受ける私は、結局自分のことを考えているのだと思う。それをいい人と呼ぶのかな。というか、そもそもいい人って、誰かにとって都合の「いい人」のことなんだとは思うけれど。
遠くのほうで原付バイクのエンジン音が聴こえた。誰もが眠るこの時間に、見知らぬ誰かは起きているのかと思うと、久しぶりに人のぬくもりを感じる気さえする。新聞配達の人かな。もう3時前か・・・。そういえば、去年の今頃、ちょうどこの時間に、彼と一緒にいたな。と思い出した。
佐々木拓と出逢ったのは、地域の小さな英語学習サークルだった。澪のそれまでの人生で、英語に触れる機会は多くはなかったのだが昨今、街に海外の人が多くなってきていた。これから外国語を使うことがきっと多くなるだろう、と思い、勇気を出して地域の英語サークルに飛び込んだのがきっかけだ。
そのサークルでは、五、六人くらいのグループに分けられてテーマに沿って英語で会話していくスタイルだった。澪は日本生まれ日本育ちなので、英会話の経験はあまりなかった。それでも、なんとかなるだろう、と軽い気持ちで参加したが、甘かった。大学受験であれだけ英語を勉強したのに、ぜんぜん口から英語が出てこなかった。やっぱり机の上の勉強と実戦ではぜんぜん違う、と落ち込んだ。帰国子女だった拓は英語が流れるように自然で、余計にかっこよくみえた。もちろん、初めて見た時から無意識に拓を異性としてみてはいたものの、澪には自分からアプローチするような勇気や自信はなく、あくまでも英会話の憧れの対象だった。
それからしばらくして、拓からディナーに誘われた。最初は「なんで私を・・・」と不思議に思ったが、英会話のグループ内で野菜が好きでよく食べていると話したのを覚えていてくれたらしい。拓の知り合いが野菜をテーマにした隠れ家的なレストランをオープンした、ということで、せっかくだからと誘ってくれたのだ。実際、そこで出された料理はこれまでに見たことがないくらい独創的でおいしく、拓との会話も楽しかった。食事が終わり、帰るころには、不覚にもお酒に少し酔っていたのを覚えている。
レストランを出てから一緒に行ってほしいところがあると言われた。正直、拓とは初めての食事だったし、今日はまだ気持ちの準備もできていないから、遅くならないうちに帰りたかったが、彼は「すぐだから」と、半ば強引に連れていこうとする。澪は不安と、少しの期待のようなものが入り混じった気持ちのまま、拓の言われるままについていった。
タクシー乗り場につき、拓は澪をタクシーに乗せる。そして彼はそのタクシーには乗らず、運転手に「彼女の自宅近くまでお願いします」と一万円を渡し、「じゃ、また今度」と笑顔で言い、駅に向かって去っていった。その一瞬、澪は恋に落ちたことを自覚した。
カーテンの隙間から部屋に侵入してくる微かな街灯の灯りをぼんやりと見ながら、私は拓との恋を振り返っていた。初めてのレストランから、いつかそうなることが運命だったかのように、拓の恋人になった。そして、いろんな所に遊びにいった。美術館や映画、またちょっと足をのばして遠出をして、二人で泊りにいったこともあったっけ。夜になると、彼は私を求めたし、私もまた拓に求められることを求めた。
「前に付き合ってた彼女は頭良くてさ、京大卒だったんだよ」
「ふーん、そうなんだ」
故意なのか、自覚がないのかはわからないけれど、拓はよく以前に付き合っていた彼女たちのことをよく話して澪に聞かせた。澪は、興味のない素振りで適当に聞き流す振りをしながら、胸にザワザワとした何かを飼っているような気分だった。拓は素知らぬ顔で、元カノの話を聞かせてくるから、ザワザワが澪の中でどんどん大きく不快な音で鳴り響いていく。澪は聡明で、これまで自分の学歴や能力をひけらかすようなことはなく生きてきたのだが、拓の元カノの話を聞くたびに、たとえば自分の学歴に罪悪感のようなもの、本来は感じる必要のない劣等感を、気づけば感じるようになっていた。今さら、大学生活をやり直す時間やお金、余裕もない。学歴なんて、これまで気にはしてはこなかったけれど、拓の話を聞くたびに、澪は彼にふさわしくない自分の過去を後悔したし、彼の元カノに少しでも近づけるように、埋まらない過去を埋めれるようにあがいてみようと思った。
今だからこそ、よりはっきりとわかる。私はなんで、彼のために、自分を傷つけていたのだろう。まるで心を支配されていたようだ。
部屋に侵入してくる微かな灯りは、相変わらず部屋を突き刺しているようだった。私はこの恋を思い出すたびに目の端に少し水が溜まるようになった。この水は悲しいから流れているんじゃない。時間を巻き戻したくても、それが叶わなくて悔しいから流れるんだ。私は悲しくない。もう英語の勉強は辞めてしまった。なんだか自分でも呆れてしまうくらい、今となっては未練がなく、意欲がなくなってしまった。前はあれだけ夢中になっていたのに。まるで夢中になっている夢から醒めてしまったようだった。
夜はしんしんと優しく静まりかえっている。さっき、聞こえたバイクは今頃、どこを走っているのだろう。
二人の別れは静かにやってきた。ある日、拓の様子が急によそよそしくなった。表面上はいつもと変わらずにいたから、きっと他の人には気づかなかっただろう。しかし、澪だけはなんとなく感じていた。きっともうすぐこの夢が醒めてしまうことを。
「拓、最近なんかあった? どした?聞くよー」
「いや、なにもないよ。どうして?」
「そう、なんかいつもとちょっと違うなって思っただけ」
「そう」
その日も一緒に、近くにはいたのに、なんだか遠くに感じた。あれだけ心と体を重ねてきたのに、なんで今はこんなに遠くに感じるんだろう? その時、何か会話をした記憶があるのだけれど、澪はその時の拓の言葉を覚えていないし、同じように拓もなんだか上の空だった。その日の夕方に拓は仕事があるからと、別々になったのだが、それからちょっとして拓からラインが届いた。
「実は、他の人との子供ができた。別れてほしい」
唐突のカミングアウトだったけど、澪はなんとなく予感はしていたから、驚きはしなかった。
「そっか。私のことは気にしないで。拓が幸せていてくれることが、私の望みだから。幸せになってね」
澪はそうスマホに打ち込んで送った。それ以来、拓とは連絡をとっていない。
微かな街灯の灯りがカーテンの隙間から漏れている。それが部屋をぼんやりと照らしていて、麻酔のような夜は私の心を曖昧に鈍くしてくれる。今も私は夜に頼りながら、高瀬澪になった夢をみているようだった。
あれから誰かを好きになることはなくなったなあとぼんやりと思う。一人でいる方が楽だし、これからまた恋をするなんてめんどくさい、とさえ思う。私は私の心を失くしてしまったのだろうか。自分は大丈夫だと思っていたけれど、思っていた以上に、傷ついていて、思っていた以上に脆かったみたいだ。
きっと私にはまだ、眠れない夜が必要だ。もう少ししたら、東の空がだんだんと、白みがかってくるのだろう。すぐそこまで、朝が来ている。