結菜≪ユーナ≫
金曜日の放課後、いつものように遼平は紫苑といっしょに帰っていた。美菜と話した内容は逐一紫苑に話している。
「紫苑君、今朝びっくりするようなことがあったんだ」
「え、何」
「ミーナさんの声が聞こえたんだ。元の世界のミーナさん」
「ほんとに?」
「俺、こっちに来て、ミーナさんもあかりさんもマスターもいなくて、ひとりぼっちになって、寂しかったんだ。ミーナさんに会いたくてずっと泣いていたんだ」
「うん」
「だからこっちのミーナさんのところに来ることにしたんだけど、転校だの引っ越しの手続きがうまくいかなくて、一ヶ月近くかかってしまって」
「うん」
「だから毎日、寝る前と起きてからの一時間、ミーナさんに呼びかけていたんだ。ミーナさんに届けって心で祈りながら」
「それが届いたんだ」
「うん、ミーナさんが返事してくれた」
「凄い、凄いよ、遼君。それで母さん、何て言ってたの」
「泣いてた。俺に会いたいって、戻って来てって、泣き崩れてた」
その時の思いが蘇り、泣きそうになった。
「そう、母さん泣いてたの。遼君は何て言ったの」
「俺も戻りたい。こんなに愛してくれるミーナさんに抱きしめてもらいたい。だけど、戻り方がわからないって言って、俺も泣いちゃった」
「そうなんだ、母さん大丈夫かな」
遼平の涙声につられて、紫苑も涙ぐんでいる。
「でも、そんな不思議なことが起こるなんて、やっぱり遼君と母さんは特別な絆があるんだね」
「うーん、たぶんこれもVRのお陰だと思う」
「そうなの?」
「うん、ミーナさん、謎の部屋にいるって言ってたんだ。てことはVRに繋がれてるってことでしょう。服着てるって言ってたから微妙に違ってるけど」
「VR……」
「で、相手はだれだろうって考えたら、遼平さんか紫苑君だろうし、たぶん遼平さんかなって思って、遼平さんと俺は同じ魂だから、ちょうど祈ってた俺の魂がVRの夢の中に入り込めたのかな」
「……」
紫苑が考え込んでいる。
「どうした、紫苑君」
「実は僕も遼君に話さなきゃいけないことがあって……」
「うん、何」
「ちょっと長い話になりそうなんだけど、今夜遼君の家に泊まってもいいかな」
「いいよ、もちろん」
ちょうど遼平のアパートに着き、二人で中に入った。
「ちょっと待って、着替えるから」
紫苑は座って、窓側を向いている。別に見ててもいいのにと思いながら、遼平はデニムのミニスカートに着替えた。上は青いトレーナーを来た。
「遼君の脚、ほんとに恰好いいね。母さんと同じくらい魅力的だ」
「ふふっ、触りたい?」
「触りたいけど、今はいい。寝るときに触ってもいい?」
「いいよ、もちろん。で、話って?」
「うん、びっくりすると思うけど、最後まで口を挟まないで聞いてくれる?」
「わかった」
そうやって話し始めた紫苑の話は驚きの連続だった。
* * *
島崎連として過ごして眠りにつき、目覚めると石谷紫苑になっていた。しかも住んでいる場所は見知らぬアパートで、机には高校の教科書が並んでいた。
状況がわからず、机の引き出しをかき回してみると、一千万円の金額が記された通帳と印鑑、図南高校定時制二年と書かれた学生証が見つかった。夜に外に出てみると、見知らぬ街並みが広がり、電柱には図南市という看板があった。公衆電話から自宅に電話してみても使われていないというアナウンスが流れた。
そうして眠りにつくと、島崎連として目覚めた。つまり眠りにつくたびに、島崎連と石谷紫苑が交互に現れるのだ。
気が狂いそうな状況ではあったが、冷静だった。こんなことが現実であるわけがない。きっとVRが見せる夢の中だという確信があった。
だったら美菜に会えるはずだと思った。島崎連は会えた。だけど島崎連としては美菜に会って何を話せばいいかわからなかった。石谷紫苑であれば、美菜の息子だと名乗りを上げることができそうな気がした。
そう思って石谷紫苑としての三日目に、意を決して学校に行ってみた。
二週間ほどは何も起こらなかった。
ある日、廊下の角を曲がろうとしたら、女の子がぶつかってきた。持っていた模造紙やマジック、画鋲をあたりにぶちまけた。
紫苑は「ごめんなさい」と言って、画鋲をひとつひとつ拾い集めケースに入れて彼女に手渡した。
「ありがとう」と微笑んだ彼女の顔に衝撃を感じた。
それまで夢の中だとぼやけていた世界が、一瞬でピントがあった。
彼女の輪郭がくっきりと目に飛び込んできて、彼女の笑顔に心が持っていかれてしまった。
その日はずっと彼女のことを考えていた。彼女の笑顔を思い浮かべていた。まるで太陽のようだった。本物の太陽は苦手だけれど、彼女の笑顔にはずっと照らされていたいと思った。
おそらくは昼間の生徒で、文化祭かなにかの準備のために遅くまで残っていたのだろう。だったら明日も会えるかな。会いたいと思った。
次の日、会えるのを期待していつもより30分ほど早めに学校に行った。昇降口の百足板から廊下に上ったとき、後ろから服を引っ張られた。振り返ると彼女がいた。
「何、どうしたの」
「あ、あの、昨日はありがとうございました」
「あ、いや、僕もぼうっとしてたので……って、それを言うためにここで待ってたの?」
「あ、はい、一時間くらい」
「一時間! どうして」
そうか、一時間目の授業の前から待っていたんだ。一時間目から出席するには日が出ているうちから家を出なければならない。そのため紫苑はいつも二時間目から出席している。
「だって、どうしてももう一度会いたかったんです。昨日あなたに会ってから、ユーナ変なんです。あなたの顔がずっと頭に浮かんでくるし、ごめんなさいって言ったあなたの声がずっと頭の中でリフレインしてるんです」
これってどう考えても告白だ。そう思うと嬉しさに頭の中が真っ白になってしまった。
「な、なんか嬉しいです。こんなかわいい子にそんなこと言ってもらえるなんて」
そう言いながら胸の名札を見た。石谷! 石谷ユーナ、心当たりがあった。美菜の日記の中に、子どもができたらユーナかレーナと書かれていた。もしかして……
「嬉しい! ユーナかわいいですか」
不安そうだった顔が笑顔に変わった。同時に薄暗い廊下が急に明るくなったような気がした。この子の笑顔は魔法のように思えた。
「すごくかわいいよ。みんなに言われるでしょう?」
「そう言ってくれる人もいるけど、あなたに言われるとすごく嬉しいです」
これは付き合ってくださいと言われる流れだ。気になってた子だけに嬉しくはあったが、この子は、石谷ユーナはたぶん美菜の娘だ。となると自分の妹ということになる。生きている時代は違うのかもしれないが、遺伝的には妹に違いない。
時代が違う? そう思ったとき強烈な違和感に襲われた。
「あの、お名前を聞いてもいいですか」
そう言われて一瞬迷ったが、本名を教えた。
「定時制二年の石谷紫苑といいます」
「え、石谷? 石谷って苗字あまりいませんよね。ユーナも石谷です。石谷結菜です。もしかして親戚なんでしょうか」
「ああ、そうかもしれません。ユーナさんのお母さんは石谷美菜さんじゃありませんか」
「そうです。ユーナのママは石谷ミーナです。でもなんで。なんでシオンさんはユーナのママを知ってるの」
「えっと、びっくりしないでくださいね。石谷ミーナは僕の母さんでもあるんです」
「え?」
ユーナは一瞬ぽかんとした。
「えーーーーー」
あらら、びっくりしてる。それにしても表情豊かなこと。見てて飽きない。
「じゃあ、なに、え? え? じゃシオンさんとユーナは兄弟ってこと?」
「まあ、そうなりますね」
「シオンさん、二年ってことは17歳ですか」
「はい」
「ユーナも17歳、全日の二年」
「え、そうなんですか」
ちょっと驚いた。高校にいるのだから高校生だろうとは思ったが、勝手に一年生と思い込んでいた。外で会っていたら中学生と思ったかもしれない。
「はい、そのリアクション失礼です。もう慣れっこだけど。制服着てても中学生に間違えられるし、私服だと下手すると小学生とか言われるし」
まあ、無理もない。背は小さいし、全体的に幼く見える。
「あ、そんなことより、シオンさん、誕生日は?」
「6月9日です」
「えー、ユーナ6月10日。これってどゆこと? 双子ってこと?」
ああ、違和感の正体はこれかと思った。この時代に紫苑がいるはずがない。
「そうなる……のかなあ」
「だったら、シオンさんはユーナのお兄ちゃん?」
「だね。たった一日違いだけど」
「嬉しい! お兄ちゃーん」
そう言って抱きついてきた。少し躊躇したが、その細い体を抱きしめた。
嬉しかった。これは夢だと確信していたが、夢でもいいと思った。こんなかわいい妹と抱き合えている。
「でも、よかったあ」
抱きついたままユーナが言った。吐息が首筋に当たった。
「よかったって、なんで」
「ユーナ、不倫しちゃうのかって思ってたから」
「ええー、不倫?」
「実はね、ユーナ、恋人いるの。エッチも何回もしちゃってるし、お腹には赤ちゃんがいるの」
「はあー?」
「綾ちゃんのことは大好きなんだよ。でもね、お兄ちゃんに会ったとき、一目で大好きになっちゃって。なんていうの、段違い? 桁違い? もう三段階くらい違うの。大大大大好きって感じ。ああ運命の人に出会っちゃったって。綾ちゃんに謝らないとって思ってた」
「恋人、綾ちゃんっていうんだ」
「そう、綾ちゃん、怒ると怖いんだ。ユーナ、お尻を何回もぶたれたし」
「えー、恋人のお尻をぶつの? それ、酷くない?」
「でも普段はとっても優しいんだよ。ユーナのことを一番に考えてくれてるし、だから、綾ちゃんを裏切りたくないの。昨日からずっと悩んでたんだよ。シオンさんがお兄ちゃんでよかったあ。お兄ちゃん、大好き」
そう言って、ユーナは強く抱きしめてきた。体が密着する。
「ユーナさん?」
「あん、兄弟なんだから敬語はやめて。ユーナって呼んで」
「じゃ、ユーナ。そんなに強く抱きしめるとお腹に障るんじゃない。僕は嬉しいけど」
「え、なんで」
「お腹に赤ちゃんいるんでしょう。流産とかしたら大変だ」
「あは、お兄ちゃん勘違いしてる。赤ちゃんがいるのは綾ちゃんのほう」
「!」一瞬虚をつかれて言葉を失った。
「綾ちゃんって女の人?」
「そうだよ」
「だって、恋人だって言ってたよね。エッチもして、お腹に赤ちゃん……」
結論は一つしかなかった。しかし、とても信じられない。
「ユーナは男の子なの?」
「そうだよ。お兄ちゃん知らなかったんだ。それ、学校中の人が知ってるよ。そうか、定時制の方までは伝わってなかったのね」
「ほんとに? ほんとに男の子? 信じられない」
紫苑は呆然として呟いた。
「信じられない? じゃ、証拠見せよっか」
そう言って、ユーナはスカートの中に両手を入れて、パンティを脱ぐ素振りをした。
紫苑は慌ててユーナを抱きしめてその動きを止めた。
「いい、いい。見せなくていい! 信じるから」
「そう?」
ユーナはスカートから手を出して紫苑を抱きしめ返した。
「お兄ちゃん、どきどきしてる」
「誰のせいだよ」
深呼吸して鼓動を鎮めた。
「ねえ、ユーナ、今の本気だった?」
ユーナの耳元で囁いた。
「ん、何が」
「いや、本気で…その……パンティ脱ごうとしてた?」
「ああ、どうだろう。たぶん止められるだろうって思ってたみたい。止めてくれなかったら脱いでたかもしれない」
紫苑は深いため息をついた。
「うふ、くすぐったい。お兄ちゃん、ユーナが男の子でがっかりした?」
そう言われて考えてみた。妹だと思っていたのが実は弟だった。少しがっかりしているような気もするが、こんなかわいい肉親がいることを喜んでいる自分がいる。妹だろうが弟だろうが、ユーナの可愛さは変わらない。
「いや、がっかりというか、びっくりしたのが大きいかな」
一時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。教室から人が出てくる気配がして、二人は離れた。
「ねえ、お兄ちゃん、明日の土曜日は定時制もお休みなの?」
「そうだよ。どうして」
「お兄ちゃんの家に遊びに行ってもいい? もっとお話したい」
「いいよ」
紫苑はアパートの住所を教えた。
「昼間はたぶん眠っていると思うから、午後の…四時頃来てくれる?」
「お昼に眠ってるの? なんで」
「太陽に当たると死んじゃうかもしれないから」
「えっ?」
あら、驚いている。まあ散々驚かされたから、これくらいいいだろう。
「お兄ちゃんって、まさか吸血鬼?」
「あっ、ばれた? 今ユーナの血を吸いたくてたまんないんだけど、それでも来る?」
こんな冗談をすっと言えた自分に驚いた。たぶん、生まれて初めての冗談だ。
「……」
えっ、まさか本気にしてる?
「吸血鬼に血を吸われると、吸われた人も吸血鬼になるんだよね」
「えっと、そうだったかな」
「じゃあいいや。それじゃお兄ちゃん、また明日ね」
そう言って微笑んだ笑顔に心が吸い取られてしまった。
数歩駆けだしたユーナが振り返って言った。
「玉ねぎとか十字架とか持って行かないから、心配しないでね。ばいばーい」
大きく手を振るユーナに、こちらも手を振って応えた。
紫苑は弾んだ気持ちで教室に向かった。