美菜の後悔
美菜は後悔していた。
欲しくてたまらなかったものが手に入りそうだったのに、自分から崖下に投げ捨ててしまったような思いがしていた。
遼平はかわいかった。その顔を思い出すたびに胸が疼いた。なにより自分を慕ってくれている。遼平が女の子だったらよかったのにと思った。そうであれば何も問題ない。抱きしめてあげられるのに……
しかし男の子だ。男は絶対に信用しないと心に決めている。眠っている女を犯すような男だったら猶更だ。自分を性欲のはけ口にした高校教師と重なった。男はみんなそうだ。女とやることしか考えていない。
一方で、ふとした瞬間、遼平を弁護しようとしている自分に気づく。
遼平は、遼平だけは違うのではないか。30年間美菜だけを想い続けていたという遼平だけは。何か訳があったのではないか。そう言えば、遼平さんは夢だと思っていたとか言っていた。その後も訳を話そうと美菜に縋っていた。
話だけでも聞いてあげればよかったかなと思うときもあれば、いやいや男の話を真に受けてはだめだと一蹴する自分もいた。
そんな風に、木曜の午後から金土日と心が揺れ動く日々を過ごしていた。
そして月曜の昼休み、いつものように祐美と向かい合わせで弁当を食べていた。目が自然に教室のドアに向いてしまう。あのドアから遼平が顔を出すのではないかと期待してしまう。
「もう来ないよ。顔を見たくないなんて言っちゃったから」
祐美が弁当箱の蓋を閉じながら言った。
「何よ。何のこと」
「またまた、とぼけちゃって。遼君が来るんじゃないかって思ってるんでしょう」
「そんなこと」
祐美が真剣な目で美菜を見つめている。
「ミーナは今、人生の岐路に立っている。と私は思う」
「何、真剣な顔して。どういうこと」
「だから、ミーナがこれから幸せな人生を歩むか、それとも寂しい人生を送るかの岐路に立ってるってこと」
「そんな、大袈裟な」
祐美はそこで間を取って、諭すように美菜に言った。
「遼君、かわいいよね。それはミーナも認めるでしょう?」
「う、うん。認める」
「あんなかわいい子がミーナのことを好きだって言ってるのよ。何を躊躇してるのよ」
「でも、男だし。男は絶対信用しないって決めてるから」
「そう、男だね。だから、ミーナに赤ちゃんを作ってあげられる」
「あ」その言葉が美菜の琴線に触れた。
「ミーナがあんなに欲しがってた赤ちゃんを。しかもよ、遼君とミーナの赤ちゃんよ。どんなにかわいい子が生まれるか楽しみじゃない?」
「……」
想像してしまった。遼平に似た赤ちゃんを自分が抱いている姿を。
思わず涙が滲む。
「でも、でもね、いくら見た目がよくても中身がくずだとどうしようもないじゃない。眠ってる人を犯すなんてくずよ」
「そうだね。私もそれは気になってた。だからね、確かめに行ってきた。金曜日の昼休み」
そう言えば、金曜日、弁当を食べ終わった祐美が、用があると言って午後の授業ぎりぎりに戻ってきた。
「ミーナ、VRって知ってる?」
「VR? 知らない」
「ヴァーチャルリアリティ、日本語で言うと仮想現実。脳に働きかけていろんな体験ができるんだって。簡単な例で言えば、なにもないところで鉛筆を持って字を書いたりできるんだって」
「ふーん、それで?」
「30年後は意識不明者の治療に利用されてるそうよ」
「そうなんだ」
「具体的には、意識不明の男女をVRに繋いで、その…セックスさせて、その刺激で目を覚まさせる治療なんだって」
「な」
衝撃だった。あまりにも想像を絶している。
「その治療を私と彼が受けてたって言うの?」
「そう。30年後のミーナと遼君」
ということは、その仮想世界の中で、美菜と遼平はセックスしたということ?
「でも、なんで私と遼君は意識不明なんかになったの」
「ミーナのことはよくわからないそうよ。たぶん、芸能界の激務で持病が出たんじゃないかって言ってた」
思い当たる節があった。中学の時、高熱で一時昏睡状態に陥ったことがあった。
「遼君は自殺を図ったんだって。アパートの屋上から飛び降りたそうよ」
「自殺! なんで、なんでそんなことを」
「遼君は人づきあいが苦手なんだって。仕事も全然うまくいかなくて、生きていてもしょうがないと思ったそうよ」
「そんな……」
やばい。また涙が滲む。溢れそうになる涙を必死で堪えた。
「私ね、その話を聞いて、ミーナが遼平さんを好きになった理由が分かったような気がする」
美菜の様子を見て、祐美が言った。
「ミーナはね、かわいくて可哀そうな話に弱いのよ。覚えてる? フランダースの犬の映画。あの時もミーナは泣いてた。泣いてたどころじゃないか、号泣してた。号泣しながら、私がそばにいたら絶対助けたのにとか言ってたじゃない」
「だって……、でも遼君、そんな感じじゃなかったじゃない。明るくて、祐美や私と普通に話してたじゃない」
「それはね、ミーナのお陰。ミーナが遼君を助けたの」
「え、私のお陰? どういうこと」
「ミーナが遼君を女装させたの。それで遼君は自分に自信が持てるようになったって言ってた」
「そう、私が女装させたんだ」
「私が思うに、一番大きいのはミーナが遼君を好きだってことだね。そりゃ、こんな美女に好きだって言われたら誰だって自信持つでしょう」
「私、好きだって言ったんだ」
「そりゃ、言うでしょ。恋人なんだから。遼君言ってたよ。『遼ちゃん、大好きよ』って言って何度も抱きしめてくれたって」
「そう」
「最後に遼君の言葉をそのまま言うね。いい?」
「うん」
「ミーナさんは俺を救ってくれた。将来自殺するはずの俺を。だから今度は、俺が苦しんでるミーナさんを助ける番だ。それだけじゃない。俺もミーナさんが必要だ。二人で幸せな人生を歩いていくために、ミーナさんが必要だ」
「……」
だめだ。涙が溢れだすのを止められない。嗚咽とともに大量の涙が零れ落ちた。
祐美はそんな美菜を黙って見つめていた。
しばらくして祐美が言った。
「さてと、私にできるのはここまでかな。あとはミーナがどう考えるか。ただ、ひとつ言えることは、遼君みたいな男の子はもう二度と現れない。女の子だったら遼君くらいかわいい子に出会えるかもだけど、その子がミーナを好きになるとは限らないし、ミーナに赤ちゃんを作ってあげることはできない」
祐美の言葉がひとつひとつ身に染みた。かわいい女の子しか好きになれない自分。そのくせ自分の赤ちゃんを切望している。その願いを叶えられるのはこの世の中で遼平しかいないと思えた。しかもその遼平が自分を慕ってくれている。
「でも、私、顔も見たくないって言っちゃった。許してくれるかな」
半泣きの声で美菜は言った。
「大丈夫よ。遼君はミーナに一途って感じだから、ミーナが付き合うって言えば、大喜びするはずよ」
「うん、うん。私、付き合う。付き合って遼君と結婚する」
「ちょ、ちょっと待てい。いくらなんでも結婚は早すぎる。遼君、まだ15か16でしょう。そんな話はまず付き合って、エッチでもしてからでも遅くない」
「エッチ……、そうか、付き合うってことはエッチするってことか」
「いやいや、そう決まってるわけじゃないから。付き合っててもエッチしてない人はたくさんいるから」
「私、エッチできるかな」
男に触られると鳥肌立ってしまうのに。
「だから……、あ、そうか、鳥肌か。それ、大事なことだね」
祐美は、全部言わなくても分かってくれる。
「ミーナ、遼君に抱きつかれたとき、大丈夫だった? 鳥肌立たなかった?」
「うーん、びっくりしたのと、男かなって思ってたから、反射的に嫌な気持ちはしたけど、鳥肌は立たなかったみたい。でも、服の上からだから」
「そうか。じゃ、今度確かめてみよう」
「確かめるってどうするの」
「そうねえ、キスしてみるとか」
「え? えーーーー、無理無理。ほら、想像しただけで鳥肌立ってる」
言いながら、袖捲りした腕を祐美に見せた。
しかし、一瞬だったが確かに嬉しいと感じていた。それなのに体が拒否している。大丈夫だろうか。赤ちゃんを産むためにはセックスしなければならない。キスを想像しただけで拒否反応が出る体で、裸になって抱き合うなんてできるのだろうか。
「さすがに、いきなりキスは無理か。まあ、最初は手でも握って徐々に慣らしていくしかないか」
「うーん、それも不安だなあ」
「がんばるしかないよ。赤ちゃん欲しいんでしょ」
「うん、遼君の赤ちゃん欲しい。だからがんばる」
「ほんとはがんばるようなことじゃないんだけどね。こんなにきれいなのに、なんてめんどくさい体に生まれちゃったんだろうね」
祐美がため息をつきながら言った。
「私もそう思う。ほんとめんどくさい」
笑いながら美菜は言った。
「まあ、大丈夫でしょう。遼君のことが好きでたまらなくなれば、拒絶反応も出なくなると思うよ」
「うん、それに期待する」
「じゃあ、次の休み時間にもう一度遼君のところに行って、明日の昼休みから中庭を再開するよう言ってくるね」
「うん、お願い……、祐美、ありがとね」
「どういたしまして。ミーナのためだったら何でもやるよ。それに、私もミーナと遼君の赤ちゃん見たいしね」