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ミーナの父親

火曜日の夜、美菜は夜の11時過ぎに目覚めた。何日か振りに悪夢にうなされずにぐっすりと眠ることができた。そのためか気分も少し良くなっていた。土曜日の出来事も夢だったのではないかと思えた。

 しかし、明かりをつけたとき、壁に掛けておいたスカイブルーのワンピースが、それが現実であったこと告げていた。

 とたんにすべての場面が蘇り、恥辱にまみれた自分を消し去りたい衝動に駆られた。しかし、ここでは死ねない。ここで死ねば雪が腰を抜かす。この年まで我が子同然に育ててくれた雪に対して残酷すぎる。どこか遠くで人知れず消えてしまう、そんな方法はないかと考えていた。

 ひどい喉の渇きを覚え台所に降りて行った。物音を聞きつけ雪が起きてきた。

「ごめんなさい、起こしちゃった?」

「ご飯食べます? ミートソースですけど」

 そう言われて急に空腹を覚えた。そう言えば丸一日以上何も口にしていない。

「そうね、いただこうかな」

 雪が冷蔵庫からスパゲティを取り出し、電子レンジで温めた。

「旦那様、帰っておいでです。ミーナさんが起きるのを待っておられましたが、先ほどお休みになられました」

「そう、お父さん帰ってきたんだ」

 片づけは自分でやるからと、雪には休んでもらった。

 ミートソースを食べながら、父親のことを考えていた。

 父親は仕事人間だった。家には月に一度ほどしか帰ってこない。ひどいときは二ヵ月、三カ月も帰ってこないときがある。日本各地、時には海外にも行っているらしい。会社の社長だというが、会社の名前も、どんなことをしている会社なのかも教えてくれない。

 そんな父親だったが、美菜は大好きだった。いっしょにいると父親の愛情を肌で感じることができた。守られているという安心感を得ることができた。

 帰ってくると二日から一週間は家にいた。その間、美菜は父親にべったりとくっついて過ごした。小学生まではお風呂もいっしょに入っていたし、夜は父親のベッドにもぐりこみ抱きしめられながら安らかな眠りに就くことができた。

 美菜の休みと重なったときには、遊園地や海に連れて行ってくれた。そうでないときは近所を散歩したり、雪とその娘の(みぞれ)も連れて四人で外食したりした。カラオケやボーリングにもたびたび連れて行ってくれた。家族をしている実感の中で、美菜ははしゃぎまわり、父親に大いに甘えた。

 父親の休みが終わり、会社に出かけるとき、美菜は父親に抱きついて「行かないで」と泣き喚き、父親や雪を困らせた。それに懲りて、それからは美菜が学校に行っている間にこっそりと出かけるようになった。学校から帰って父親がいないことに気づいた美菜は、泣きながら雪に抱きついた。雪は優しく慰めてくれたが、雪には全面的には甘えられなかった。

 雪は美菜の母親代わりとして、よく美菜の面倒を見てくれている。そのことへの感謝の思いはもちろんある。ただ、雪は主人と使用人との立場を厳格に守り、美菜に対しても敬語を使う。そこにどうしても壁を感じてしまう。実の娘の霙への遠慮もあった。

 父親はたった一人の血のつながった身内であり、何の遠慮もなく心から甘えられた。父親がいると天国のようであり、いなくなると地獄に突き落とされた気分になった。

 寂しかった。夜、父親のベッドに一人でもぐりこみ、父の匂いの中で泣きながら眠りに就いた。

 中学生になるとさすがにお風呂は禁止された。自分の体の変化を感じていた美菜は、恥ずかしさもあり素直に従った。その代わり同じベッドで眠ることは続けさせてもらった。

 父親と枕を並べて、いろいろな話を聞くのが大好きだった。外国の珍しい話に夢中になって聞き入った。特にリオのカーニバルの話には熱中した。数万人の群衆が熱狂して踊るサンバパレード、その熱に煽られ飛び入りで踊りの輪に加わり、見よう見まねで踊り明かした話、その後一緒に踊った人たちと片言のポルトガル語と英語を交え、一晩中飲みながら語り合った話に、時間がたつのも忘れて聞き入っていた。

 ドアがノックされ、雪にやんわりと叱られた。気づけば夜中の二時を過ぎていた。

「怒られちゃった」と舌を出して笑う父が泣きたくなるほどかわいかった。

 しかし、そんな楽しみの時間も高校生になると禁止された。美菜は頑強に抵抗した。

「ミーナはすごく、すごーくきれいになった。俺も男だから、こんな美人がそばに寝ていると、寝ぼけて何をするかわからないんで勘弁してくれ」

 と冗談めかして言う父親に頭では納得したものの、心が反発し、二日間父親と口を利かなかった。

 夕食時に父親が言った。

「明日、ミーナが学校に行っている間に出かける。今度は二ヶ月くらい帰って来れないかもしれない」

「……」

 意固地になっていた美菜は何も言わなかったが、心の中は寂しさと後悔が渦巻いていた。父親と過ごせる貴重な二日間を無駄にしてしまった。

「謝るよ、ミーナ。ミーナがそんなにまで俺と寝るのを楽しみにしていたとは思っていなかった。今夜はいっしょに寝よう。だから機嫌を直してくれないか」

 その場では「うん」とだけ答えたが、ベッドの中で父親に抱きついて

「お父さん、ごめんなさい」と泣き縋った。

 父親は何も言わずに美菜を抱きしめていた。

 しばらくして父親が言った。

「ミーナ、寂しい思いをさせてすまない。ミーナは俺の宝だ。ミーナが俺の帰りを待っていると思うから仕事も頑張れる。仕事は俺の生き甲斐だが、それもミーナがいてくれてこその話だ。ミーナ、愛している」

 日頃口数が多くない父に「愛している」と告げられたのは初めてだった。

「お父さん、ミーナもお父さんを愛してる」

 美菜は嬉しさに涙が止まらなかった。父親を強く抱きしめた。

「だから約束しよう。ミーナが寂しくてどうしようもなくなったら、俺の助けが必要になったら、連絡してくれ。仕事なんか放り投げて帰ってくる」

「うん、うん」

「その時はミーナの願いはなんでも叶えてやる。仕事を一ヶ月くらい休んでも構わない。」


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