紫苑の想い
「母さん」
紫苑が涙を浮かべて、美菜を見つめ返した。
フルートの曲が変わった。白鳥の湖の冒頭の部分を奏でている。
その音色に誘われて、紫苑を抱きしめたい思いに駆られた。
「紫苑は私が何歳の時の子なの」
人目を憚り、代わりにそう尋ねた。
「母さんが19の時です。19歳の六月九日」
「そう、ということは紫苑を孕んだのは18歳の夏頃、二年後くらい」
あれ? 紫苑の父親がだれなのか定かではないが、遼平と出会った以上、遼平以外の男とセックスするつもりはない。だとすると紫苑は生まれない。
「あのね、私は遼君以外の人と、その……子作りするつもりはないのね。もちろん紫苑の父親とも、だれだかわからないけど。でもそうすると紫苑はどうなるの。消えちゃうの」
「ああ、タイムパラドックスですね。それはないと思います。母さんはもう芸能界にデビューするつもりはないんでしょう」
「うん、遼君と出会ったから」
「だったら……そうか、遼君に出会った瞬間に僕の世界とは歴史が変わったんだ」
紫苑が考え込んでいる。
「いずれにしてもこれはパラレルワールドですからタイムパラドックスは発生しないと思います」
「そうなの?」
「ただ、この世界に僕が生まれてこないのは確かですね。遼君と母さんの子、結菜が生まれてくる……、ん、待てよ、もしかしたら僕が結菜として生まれてくるのかも。だからあんなに惹かれあったのかな」
紫苑が独り言のように呟いている。
「紫苑?」
「ああ、ごめんなさい。自分の世界に入ってました」
「どうしたの」
「大丈夫です。僕は消えたりしません。それどころか、今度母さんが産むことになる結菜が、僕の魂を持ってるかもしれないって思ったんです」
「うーん、よくわからない」
美菜は紫苑の話の内容より、美菜が子どもを産むことを前提にしていることが気になった。遼平に昨日のことを聞いたのだろうか。
「紫苑、昨日のこと遼君に聞いたの?」
「はい、遼君と母さんが結ばれたことですね」
紫苑が嬉しそうに言った。
「……いつ聞いたの」
「登校中です。僕の家、遼君のアパートのすぐそばなんで。あと、休み時間ごとに話してくれました」
嫌な予感がした。
「く、詳しく聞いたの?」
「はい、事細かく。入れっぱなしで六連発……」
美菜は慌てて紫苑の口を両手で塞いだ。
「もういい! 言わなくていいから」
「あっちゃー、六回も出しちゃったの。山小屋入れて七回。遼君、体大丈夫なの?」
祐美が茶化すように言った。
「あ、はい。なんか腰のあたりがすかすかして、ちょっとふらふらしてますけど大丈夫です」
「そんなこと真面目に答えなくていい!」
思わず強めに言ってしまった。
「あ、はい。ごめんなさい」
「もう、遼君。なんでそんな恥ずかしいことべらべら喋っちゃうの」
「だって、紫苑君ミーナさんの子どもなんだし、そういうこと知る権利があると思ったんです」
「ど、どこの世界に親の情事を子どもに事細かく知らせる親がいるのよ」
美菜は恥ずかしくて紫苑の顔を見ることができなかった。それでもどんな表情をしているのか気になり横目で盗み見た。
紫苑が目に涙を溜めて美菜を見つめている。一粒こぼれ落ち頬を伝い、口を塞いでいる美菜の手を濡らした。
「ごめん、苦しかった?」
急いで手を引いて、美菜は言った。
「い、いえ、嬉しかったんです。か、母さんが……初めて……僕に触れてくれたんで」
泣き出すのを堪えて、途切れ途切れに言う紫苑の言葉が胸に刺さった。
返す言葉が見つからず、美菜は紫苑を見つめた。
紫苑も美菜を見つめている。涙が次々に零れ落ちている。
「ミーナさん」
遼平がやや強い口調で言った。その口調に驚いて遼平を見た。
「紫苑君はミーナさんのことが好きなんです。物心ついてから25年くらいずっと、ミーナさんを好きだったんです」
「それは……母親だからでしょう?」
「いえ、僕にとって母親は雪さんです。母さんは……母さんと呼んでましたけど、僕にはひとりの女性です。憧れの女性です」
「だれか他に好きになった人はいないの?」
美菜の問いに紫苑はすぐには答えなかった。
「実はいます。これを母さんに言っていいのか迷いましたが、遼君です。遼君が好きです」
「へ?」
あまりに意外な答えに変な声が出た。
「遼君は男の子よ」
「はい、知ってます。変ですか」
「ううん、変じゃない。でも……」
別に男が男を好きになっても変じゃない。それはわかっているつもりだった。美菜だって一時期気も狂わんばかりに祐美に想いを寄せていた。
「でも、遼君と恋人になろうとかいうつもりは全くありません。母さんには遼君が必要です。母さんには幸せになってもらいたい。僕の世界の母さんは不幸でした。こんなにきれいなのに愛する人に巡り合えずに、18歳で意識を失って30年も眠り続けてるんです。人生で一番楽しいはずの時間を眠ったままでいるんです。それを思うと母さんが可哀そうで可哀そうで……だから母さんが遼君と巡り合って恋人になって、昨日結ばれたことを知って、僕はほんとにほんとに嬉しかったんです。これで母さんは幸せになれるって」
大粒の涙を流しながら切々と話す紫苑に心を打たれていた。
「母さん」
紫苑の涙声に美菜も涙が滲んでくる。
「ん、何」
「ほんとにほんとによかったね」
そう言って紫苑は左手で目を覆って嗚咽を噛み殺している。
その姿を見ていると、紫苑がどれほど美菜を愛しているかわかるような気がした。
「紫苑はそれでいいの? 大好きな遼君を私が取ってもいいの?」
紫苑は涙を拭いて深呼吸して気持ちを落ち着かせて言った。
「構いません。僕は母さんも遼君も大好きだから、ふたりが幸せなら僕も嬉しいです。ただ……」
「ただ?」
「僕の願いは、母さんが目覚めて僕を抱きしめてくれることだったので、もしよかったら僕を抱きしめてくれませんか」
美菜が紫苑を抱きしめようと一歩前に出たとき、祐美がそれを遮った。
「ごめん。感動的なシーンに水を差すようで悪いんだけど、ここじゃだめ。観客がいる」
観客? そうかフルートの子。そう言えば曲が途切れている。
「あのフルート、二組の花梨よ」
「ああ、スピーカーって言われている子」
うわさ話が大好きな子で、毎日のようにクラスや部活であることないこと言いふらしているそうだ。祐美はスピーカーと呼んで毛嫌いしている。
「さっきから練習するのをやめて、どうもこっちの話に聞き耳を立てている様子なの。ここで抱き合ったりしたら、なんて言いふらされかわからないんでね」
「そうね」
「そういうことで続きは遼君のアパートでやろうか。私もまだ紫苑君に聞きたいこともあるんでね」
祐美の提案に三人とも賛成して、鞄を取りにそれぞれの教室に戻った。




