至福の山頂
「遅くなっちゃった。さあ、頂上まであと一頑張りよ。そんでキスしよ」
「わあい、やったあ」
登山道に戻り、頂上を目指す。緩やかな尾根道を登り、時には下りながら快調に歩いて行く。頂上直下の急坂を登り切ると空へと突き抜けた。
頂上にはだれもいなかった。そういえば今日はほとんど人に会っていない。途中、シオンの群落の近くにある小さな山小屋の前で、休憩している三人の若い男たちに会っただけだった。
「すごーい、いい眺め」
遼平が叫んだ。
「でしょう。これがあるから、登りの辛さにも耐えられるの」
360度遮るものが何もない。雲一つない秋晴れの空、眼下には美菜が住む町が一望できた。
「やっほー」
美菜は思いっきり叫んだ。気持ちいい。
「ほら、遼君も叫んでみて」
「ミーナさーん、大好きですー」
遼平が力いっぱい叫んだ。
「やめてよ。恥ずかしい」
そう言いながらも、美菜は喜びが胸いっぱいに広がるのを感じていた。「大好きだ」という言葉は何度も聞いているが、これほど力強く叫ばれると、その振動が胸に強く響いた。
「遼君、顔になんかついてる。少ししゃがんで、目をつむって」
「あ、はい」
しゃがんで目を閉じた遼平に一瞬口づけた。
「え? ミーナさん、今の」
「約束のご褒美、頑張ったね」
「えー、一瞬だったし目つむってたから実感ないんですけど。もう一回お願いします」
「だめ、また今度ね。さあお昼にしよ」
美菜はリュックからガスバーナーとコッヘルを取り出し、水を入れてお湯を沸かした。お湯をマグカップに入れ、ティーパッグで紅茶を二杯作った。その一つを遼平に渡し、家で作ってきたサンドイッチを出した。
「さあ、召し上がれ」
「うわ、おいしそう」
遼平がおいしそうに食べてくれる。早起きして作った甲斐があった。
二人であっという間に食べてしまった。
「これじゃ足りないよね。まだ食べられる?」
「そうですね。まだ腹半分ってところです」
「そう思ってこれを持ってきた」
そう言って美菜はインスタントラーメンを取り出した。
「え、ラーメン! 山でラーメンが作れるんですか」
「そりゃ作れるでしょ。バーナーがあるんだから」
「俺、ラーメン大好きなんです。特にこのゴマ味ラーメン」
「私もいっしょ。だったら絶対感動するよ。山で食べるラーメンは格別だから」
美菜はお湯を沸かし、二食分のラーメンを大きめのコッヘルに入れて作り始めた。
「俺、この瞬間が好きなんです。ラーメン作ってる瞬間が」
「そうだよね。私もそう、食べてるときよりわくわくしてるかも」
この瞬間、美菜はなんとも言えない幸福感に包まれた。遼平とのたわいもない会話に心が満たされていく。
遼平とずっといっしょにいたい。いずれは結婚して遼平の子を生して、こんな何気ない会話の中で幸せを感じていたいと思った。
「じゃ、遼君、じゃんけん」
「え、なんで」
「いいから」
美菜が勝った。
「負けた人がこのラーメンを二つに分けるの。で、勝った人が選べるの。それが山のルール」
「それは本気でやらないと」
遼平が真剣な顔で、スープをもうひとつのコッヘルに分ける。箸で麺を分けていく。一旦分けた麺を数本元に戻した。
「これでどうです」
「ははーん、古典的な技を使ったな。スープはそっちの方が多いけど、麺はこっちの方がちょっとだけ多いかな。こっちいっただき」
「あー、ばれてる」
笑いながら分け合ったラーメンを二人で食べた。疲れた体に温かいスープが染みわたりエネルギーが湧き出るのを感じる。
「あー、おいしい。こんな景色のいいところで大好きなミーナさんと食べるラーメン、最高です」
食べながら遼平が言った。
「よかった。喜んでもらえて。山、好きになれそう?」
「そうですね。最初はなんでこんなきついことしなきゃいけないんだろうって思ってましたけど、こんなおいしいラーメン食べられるならまた来たいです」
「また来ようね。でもひとりで来ちゃだめだよ」
「どうしてです」
「山で襲われたらどうしようもないから。特にこんな人気のない山だと、助けを呼んでもだれもいないからね」
「山登りする人はいい人が多いって聞いたことがありますけど」
「確かにね、そんな感じはあるけど、みんながみんなそうとは限らないと思うよ。それに遼君みたいにかわいい子がひとりでいたら、魔が差すってこともあるんじゃない?」
「俺、男だから大丈夫です」
「大丈夫じゃないって。もし二人がかりで来られたら抵抗できないでしょ」
「大丈夫ですって、襲われてパンツ脱がされても、脱がした方がびっくりしますから」
「え?」
思わず想像してしまった。
「やだ、遼君なんてこと言うの。想像しちゃったじゃないの」
美菜は遼平の腕を叩いて言った。遼平は笑っている。
「またミーナさん同じこと言ってる。前の世界でも同じ会話してたんですよ」
その言葉を聞いたとき、美菜は複雑な思いに囚われた。
遼平は美菜に、一年後の美菜との数々の思い出を話してくれた。遼平にとって、その美菜は人生を変えてくれた大切な存在なんだろう。
しかし、今の美菜にその記憶はないし、実感もない。そのことが、美菜にとっても遼平が大切な存在となった今、どこかもやもやした割り切れない思いをもたらしていた。
そんなことを考えていたとき、美菜は頬に冷たいものを感じた。
「え、雨?」
空を見上げると、日は照っていたが反対側は真っ黒な雲に覆われている。頭上はもくもくした塊り状の雲が成長している。
あれは積乱雲だ。だとしたら大雨になるかもしれない。
「大変、遼君、天気崩れる。急いで帰ろう」
美菜は急いで炊事道具を片付け、リュックに入れた。
それを担ごうとしたとき、冷たい風が吹き、ほぼ同時に雨が降り出した。
「やばい。もう降ってきた。遼君、雨具つけよう」
リュックを下ろし、雨具を取り出し、身に着けていたとき、遼平を見て愕然とする。




