シオンの群落
一週間後の日曜日、約束通り遼平と山に来た。
登り始めて一時間弱、なんだか遼平の様子がいつもと違うような気がした。
「ちょっと休憩しようか」
登山道の脇の岩場に腰を下ろし、水を飲んだ。
「どうした。疲れた?」
「はい、ちょっと。あとどれくらい登るんですか」
汗を拭きながら遼平が言った。
「んー、二時間くらいかな。シオンまでは一時間くらい」
「二時間……、登れるかな」
不安そうな遼平。
「大丈夫よ。登山は登り始めの一時間が一番きついの。あとは慣れてくるから楽になるよ」
「そうですか。だったらいいですけど」
「でも遼君、登る前からちょっと元気なかったよ。あんまり笑わないし」
そう、美菜が大好きな満面の笑みがなかった。
「ああ、それはきっとズボンのせいです」
「ズボン?」
「俺、ズボン穿くと、とたんに昔の自分に戻ったような気がするんです。自信がなくなって落ち込んじゃうんです」
「そうなの? ズボン穿いてても遼君かわいいのに」
「ほんとですか。幻滅してません?」
「する訳ないじゃない。どんな恰好してても、遼君は遼君。私の大切な恋人よ」
美菜の言葉で遼平に笑顔が戻った。
「嬉しいです」
そう言って、遼平は美菜に抱きついた。
「もっと元気下さい」
美菜は遼平を強く抱きしめて、耳元で囁いた。
「確かにミニスカートの遼君、めちゃくちゃかわいいし、恰好いい。でもそうじゃない遼君だってかわいいの。私大好きよ。自信もって」
「ほんとに?」
「ほんとにほんと。だから頑張って。頑張って頂上まで行けたらご褒美あげる」
「ご褒美? 何ですか」
「そうねえ、遼君、何が欲しい」
「うーん……キスとかだめですよね」
「キス?……うん、いいよ」
「え、ほんとですか」
「あ、でも濃厚なのはまだ無理かも。一瞬チュってするだけなら」
「わ、やった。元気出てきました。早く行きましょう」
遼平は立ち上がって、リュックを担いだ。
「待って」
美菜もリュックを担ぎ、歩き出す。
しばらく歩くと急勾配の斜面にじぐざぐに刻まれた登山道があった。
「ここ、頑張りすぎるとすぐにばてちゃうから、ゆっくり一歩ずつね」
「はい」
数歩歩いただけで、どっと汗が噴き出してくる。休み休み、しかし着実に足を進めた。
遼平も同じペースでついてきている。
30分ほどのきつい登りの後、尾根道に出た。と言っても樹林帯の中で視界は広がらない。
「もう少しでシオンの群落への分かれ道。左側の木に赤いリボンが結んであるはずだから、注意してて」
「はい」
傾斜の緩い尾根道を快調に歩いて行くと、10分ほどで赤いリボンを見つけた。
道を離れ、木々の合い間の草むらの中に入って行く。
「ミーナさん、こんな所でパンツ脱いじゃったんですね」
「こらー、変な想像しない」
「だって、自然に頭の中に浮かんでくるんです」
「もう、そんなエッチな子にはキスしてあげない」
「わあ、ごめんなさい。消えて、消えて」
目の前の空間を両手で掻き消すような素振りする遼平。
しばらく草むらを掻き分けて進むと、突然樹林帯が途切れ、目の前にシオンの大群落が現れた。
周囲を木々で囲まれた広場のような草原の半分以上をシオンが埋め尽くしている。40~50センチの高さの株に20~30輪の薄紫の小さな花が密生している。その株が数え切れないほど、おそらくは2・300株はありそうに思えた。
その数千の紫の花が風に揺れ、同じ動きをしている。
「凄い」
遼平が呟いた。
「うん、凄いね」
美菜はこの光景を見るのは三度目だが、いつも圧倒されて凄いとしか言えなかった。
「ちょっとこっちに来て」
美菜は遼平を連れて、シオンの縁を歩いた。
すると、群落の一角を白い花が占めていた。
「あ、白い花。これもシオンなんですか」と、遼平。
「そうなの。シオンはたまに白い花をつけるの」
「なんか、いいですね。シオンの王族みたいです。みんなをリードしているようです」
ああ、遼平もそう思うのか。
「祐美もそんなこと言ってた。でも私はちょっと違う印象を持ったの」
美菜はこの先を続けるかどうか、少し迷った。祐美には言わなかったが、遼平には正直でありたかった。
「シオンは紫が普通なの。白は普通じゃないの。なんだかそれを自分に重ねちゃって」
「ミーナさん……」
「でもね、普通じゃないけどきれいよね。かわいいよね。みんなとは違うけど堂々と咲いている。私も普通じゃないけど、白いシオンのように堂々と生きていっていいのかなって」
遼平はすぐには言葉を返さなかった。美菜の言葉を噛みしめている気配がした。
「ミーナさんが普通じゃないお陰で、俺なんかを好きになってくれたんです。それに俺も普通じゃないです。ミニスカートでないと自信が持てない男なんて。普通なんて関係ないです」
「うん、そうなんだけどね。前回ここに来たときは最悪の精神状態でね。赤ちゃん欲しいのに男の人に触れられないなんて、生きててもしょうがないって感じだったの。でもね、白いシオンを見てたら、違っててもいいんじゃないかなって思えたの。最悪、人工授精って手もあるしね」
「ミーナさん、苦しんでたんですね」
「だからね、私、白いシオンが大好きなの」
「白いシオン……」
美菜も遼平も普通じゃない。しかし、白いシオンが三株ほど、およそ百輪の小さな花が寄り添って咲いているように、自分たちも支えあって生きていける。
美菜は心の中で白いシオン達に感謝を捧げた。
『ありがとう。あなたたちのお陰でなんとか生きてこられた。そして遼君に会えた。これからは二人で支えあって生きていくね。あなたたちも頑張って』