シオン
「俺は、ミーナさんといっしょにいられれば満足です。ミーナさんといるとほんとに居心地がいいんです。だから、ずっといっしょにいたいです。できれば夜も」
「夜……それってひとつのお布団で眠るってこと?」
「はい、ミーナさんを抱きしめながら眠りたいです。だめですか」
それは美菜にとっても心躍る場面だった。そうしたい、でも……
「遼君、我慢できる?」
「え?」
「抱き合うだけで我慢できる?」
「ああ、そうですね。それは、できればミーナさんと結ばれたいです。でも我慢できます。ミーナさんの許しなしで抱き合う以上のことは絶対にしません。信じてください」
「それは信じてる。でも……」
遼平に我慢を強いることは、遼平を苦しめていることと同じ気がした。
遼平と結ばれることは美菜も望んでいた。そして遼平の子を宿したい。
だけど、頭でそう思っていてもこの体は耐えられるのだろうか。昨日まで男に触れただけで悲鳴を上げるほどのこの体で、裸で抱き合うなんてことができるのか。
一方で、遼平なら、自分を心から慕ってくれている遼平となら、大丈夫のような気もする。
そんな期待と不安を感じながら歩いていると、前方に薄紫の小さな花が数輪咲いているのが目に留まった。
「あ、シオン」
美菜が言うと、遼平は「えっ」と一声上げてあたりを見回した。繋いだ手から動揺が伝わってくる。
「どうした、遼君」
「いえ、シオンって?」
美菜はシオンの花のそばに立ち止まり、しゃがみこんだ。
「この花よ。シオンの花」
「ああ、花か」
遼平もしゃがみこんだ。
「何だと思ったの」
「実は、最近俺にも男の友だちができて、名まえが紫苑って言うんです。だから、紫苑君がいたのかと思っちゃって」
「そうなんだ。私といっしょのところを見られるとまずいの? なんだか焦ってたみたいだけど」
「いえいえ、俺がミーナさんを好きなことは話しているし、全然まずいことはありません。ただちょっとびっくりしただけです」
遼平だって男の子だ。仲のいい男の友だちがいてもおかしくない。だけど遼平だ。この完璧な美少女の外見を持つ遼平が、男と仲良くしていることに胸がざわついた。
「そのシオン君は遼君が男の子だって知っているの?」
「もちろんです。クラスメートですから」
そうか。だったら大丈夫なのかな。
そう安心したとき、美菜は自分がシオンに嫉妬していたことに気づいた。
なんてことだ。遼平とはたった今恋人になったばかりなのに、もうその男の友人に嫉妬しているとは。
そんなことを言えば、自分はどうなんだ。祐美に対して友人以上の想いを寄せている。それを承知の上で、遼平は自分を愛してくれている。
遼平が誰と仲良くしても気にしてはいけない。自分を愛してくれている。それだけで十分だ。
「そうか、これがシオンなんですね」
遼平の一言で現実に引き戻された。同時に、その友だちの名がシオンであることに、どこか運命的なものも感じていた。
「そう、かわいいでしょう」
「そう言えば、ミーナさん、シオンが好きだって言ってましたね。アパートにシオンの鉢植えが置いてあって、咲いたら見せてもらえることになってたんです」
「そう、大好きよ。バラや椿みたいに派手なのもいいと思うけど、私はどっちかというと、シオンやヒナギクみたいに小さくてかわいい花が好きなの」
「そうですね。かわいいですね。そうか、これがシオンかあ」
美菜は、遼平の言葉に意味ありげな響きを感じた。友達のシオンのことを考えているのか、それとも前の世界の美菜のことを思い出しているのだろうか。少し気になった。
「私ね、元々シオンは好きだったんだけど、それが大好きになったできごとがあったの」
「できごと?」
「そう、山の中でシオンの大群落に出会ったの」
「山? ミーナさん、山登りするんですか」
「うん、祐美が好きで、祐美に連れて行ってもらってるの。高校に入ってからだから十回くらいかな」
「へえ、その話は初めて聞きました」
「それでね、ある日登ってる途中で我慢できなくなって、花摘みに行ったのね」
「花摘み?」
「おしっこ。山登りの用語で、女の人は花摘み、男の人は雉撃ちって言うのよ」
「そうなんですね。でもトイレなんてあるんですか」
「ないない。そこらへんでやるのよ」
「えーー、女の人はパンツ脱ぐから大変なんじゃないですか」
「そう、大変。道から見えるとこですると、お尻見えちゃうから、見えないところまで草むらかきわけてするの」
「やだあ、ミーナさん。お外でお尻出しちゃったんですね」
遼平が笑いながら言った。いたずらっ子のような目がかわいい。
「そうよ。一日に二・三回はするから、2・30回はしてるけど」
美菜も笑いながら言った。祐美以外にこんな話を、しかも男の子に笑いながら言えた自分に満足していた。そして遼平のことがますます愛おしく思えた。
「それでね、用を済ませて周りを見たら、遠くに紫の花が見えたの。だからそこまで行ってみたの。そしたらあったのよ、シオンの大群落」
「その時はもうパンツはいてるんですよね」
「あ、あたりまえでしょう。何の想像してるのよ」
「えっと、ミーナさんのお尻?」
「こらー、その想像、消して、消して。そのうち見せてあげるから。って間違い、間違い、今のなし」
「やったあ」
「いや、だから……」言いながら、美菜は声に出して笑い始めた。
つられて遼平も笑っている。
「もう、遼君、おもしろい」笑いながら美菜は言った。
「これなんです」
「え、何が」
「ミーナさんには何でも言えるんです。何を言ってもミーナさんはちゃんと受け止めてくれるんです。冗談言えば、冗談で返してくれるんです。だから、ほんとに居心地いいんです。だから大好きなんです」
「遼君……」
それは美菜も同じだと思った。こんな下ネタみたいな話を、男の子には絶対に言えない冗談を、遼平にだったら平気で言える。そして、そんな自分が好ましかった。
「そうだ、今度の日曜日に山に行かない? シオンの大群落を見に」
「あ、行きたいです。でも俺、山とか行ったことないんですけど」
「大丈夫。まあ私も初心者みたいなものだけど、そんなに高い山じゃないし、そこは二度行ってるから」
「何を持っていけばいいんですか」
「そうね、まずリュック、大きめの水筒、雨具、タオル二枚くらい、それに下着も含めて着替え一式かな。お弁当は私が用意するからいらない。あとは好きなお菓子くらいかな」
「恰好は? ミニスカートじゃだめですよね」
「もちろんよ。ミニスカートなんかで来たら、遼君のきれいな脚が傷だらけになっちゃう」
「俺、私服はミニスカートしか持ってないんですけど」
「えっ!」
絶句した。そこまで徹底してるのか。
「あ、実家にはありますけど、遠いし」
「ジャージがあるでしょ、体操着」
「あ、はい」
「じゃあそれ。着替えもジャージでいいね。上は長袖のTシャツか、なければ長袖の体操着、寒いときもあるからジャージの上着もリュックに入れといて」
「わかりました。うわあ、楽しみです」
「じゃあ決まりね。私も楽しみ」
シオンの前で長い間しゃがみこんで話していたため、膝が痛くなってきた。
「それじゃ行こうか」
美菜は立ち上がって言った。
遼平も立ち上がろうとしてよろめいた。とっさに体を支えた。
そのまま遼平は覆いかぶさるように美菜を抱きしめた。
「ミーナさん、大好きです。どうしようもないくらい大好きです」
「うんうん、私もよ。遼君が大好き。ずっといっしょにいよ。夜はまだ無理だけど、なるべくずっといっしょにいて、たくさんおしゃべりしよ」
「はい、はい、嬉しいです」
遼平が半分べそをかきながら言う。
その姿を見て美菜は思う。この子を守ってあげたい。それが、美菜がこの世に生まれてきた理由なんだと思った。
「ねえ、これから私の家に来ない? 雪さんが遼君に会いたがってるの。雪さんのことは聞いてるでしょう?」
「あ、はい、何度か。ミーナさんの家のお手伝いさんで、ミーナさんを育ててくれた人だと聞いています」
「私ね、お母さんがいないの。雪さんをほんとのお母さんのように思ってるのね。だから、雪さんには全部話してる」
「全部ですか」
「そう、全部。遼君が一年後の世界から私に会うために来てくれたこととか、その世界で私を強姦魔から救ってくれたことも、動けない私をお風呂に入れてくれたこと、そして結ばれたことも全部」
「雪さん、信じてくれたんですか」
「そうね、まあびっくりしてたけど、私にぴったりの人だって喜んでた。私がレズのくせに赤ちゃん欲しがってることを随分心配してたから」
「そうですか、俺も会いたいですけど、何を話せばいいんでしょう。なんか緊張しちゃいます」
「そうねえ、雪さんも口数多い方じゃないから、話は弾まないかも。でも大丈夫。雪さん、聞き上手だから、聞かれたことを正直に答えてくれれば、きっと雪さんも遼君を気に入ってくれる」
「わかりました」
「じゃ、行こうか。きっとご馳走作って待ってるよ」
美菜は遼平の手を取って歩き始めた。
なんだか心が軽い。未来が明るく輝いている気がした。