普通って何?
「あら、いやだ。あたしったら自分のことばっかり話して、シオン君の話を聞かないと」
「ねえ、お母さん、シオン君の言う別の世界って、パラレルワールドのことかな」
待ち構えていたように綾が言った。
「ああ、そうかもしれない」と、あかり。
「僕も、もしかしたらそうかもと思っていましたけど、パラレルワールドってほんとにあるんですか」
「それがあるのよ。私のお父さん、大学で量子力学ってのを研究してたんだけど、それによるとパラレルワールドはあるんだそうよ。それにパラレルワールドを渡ればタイムトラベルも可能だって言ってた」
「ほんとに?」
「だけど、パラレルワールドを物質は渡れないとも言ってたのよ。だからシオン君の体がここにあることの説明がつかない。まあ、お父さんが間違ってるのかもしれないけど」
あかりが言った。
「そっかあ、そう言ってたね。じゃあ、どういうこと」
「僕は……」
言いかけて、躊躇した。言っても否定されるだけだ。だけど、言いかけてしまった。二人が注目している。
「僕は夢だと思っています」
「は? 何が」と綾。
「僕は母さんに会うためにVRにつないでもらいました。目が覚めたらこの世界にいたんです。だったらこれは、この世界は、VRが見せている夢だと思うのが一番自然なんじゃないでしょうか」
「いやいや、何言ってるの。だったら何、私たちはシオン君の夢の中の存在? そんな訳ないじゃない」
やはり綾が否定した。
「そう考えないと僕がここにいる理由がわからないんです。でも夢でもいいと思っています。ユーナに会えた。夢でもいいからずっとユーナといっしょにいたいんです」
言ってしまってから気づいた。こんなことを言ってもいいのかと。だけど、止まらなかった。
「怖いのは夢から覚めて、ユーナと引き離されてしまうことです」
その時、腕にしがみついていたユーナの体がびくんと震えた。
「だめえ、お兄ちゃん」
そう叫んで、ユーナは再び紫苑に抱きついた。
「どこにも行かないで。ずっとユーナのそばにいて」と、泣き叫ぶ。
その瞬間、ユーナに選ばれた幸せに包まれた。しかし、反射的に見た綾の悲しそうな顔に衝撃を受けた。ユーナの恋人、しかも子まで生している綾に見せていい姿ではない。
「お母さん、私家を出るね」
それまでとは全く違ったしんみりとした綾の声。ユーナの体がまたびくんと跳ねた。
「何を言うの、いきなり」
「だって、これからずっとユーナのあんな姿を見なくちゃいけないのよ。私耐えられない」
「綾ちゃん、ごめんなさい」
ユーナは飛び起きて、テーブルを飛び越え、綾に抱きついた。
「ユーナを置いて行かないで。綾ちゃんがいないと、ユーナ生きていけない」
「ほらほら、私に抱きつくと、お兄ちゃんが悲しむよ」
「嫌だ。ユーナ、綾ちゃんもお兄ちゃんも大好きなんだよ。だから出て行くなんて言わないで」
「そうだよ、綾。ユーナがシオン君を好きなのはお兄ちゃんだからでしょう。なにも綾が出て行くことないじゃないの」
「違う。ユーナはシオン君を愛してる。私、わかるんだ、ずっとユーナを見てきたから。そうでしょ、ユーナ」
「うん、お兄ちゃんを愛してる。でも綾ちゃんも愛してるんだよ。どっちかを選ぶなんてできないよ」
「選んだじゃない、私に遺書なんか書いたりして」
「あれは違うの。初めはね、綾ちゃんも吸血鬼にしちゃって三人でひっそり生きていこうと思ったの。でもお腹の赤ちゃんのことを思い出したの。そんなことしたら赤ちゃん、死んじゃうんじゃないかって。だから諦めたの。ユーナ、悲しくてお布団の中でずっと泣いてたの」
「諦めてるし……」
「うーー、ごめんなさい、ごめんなさい、ユーナが悪かった。でも綾ちゃん、大好きなの。お兄ちゃんも大好きなの。ユーナどうしたらいいの。綾ちゃん、どうしたらユーナを許してくれる? お願いだから出て行ったりしないで」
紫苑は泣きながら必死に懇願するユーナの姿に胸を打たれていた。同時に、綾のことが本当に好きなんだと思うと、嫉妬の痛みも感じていた。
「ユーナ、私もユーナが大好きよ。ユーナしかいないと思ってる。でもね、だからこそユーナがシオン君に惹かれているのが辛いの。ユーナと私は一心同体だと思ってたから、ユーナが好きなことは私も好きになろうとしてたけど、これはそういうわけにはいかないから。私もどうしたらいいかわからない」
綾の言葉にユーナはぴたりと泣き止み、顔を上げて言った。
「綾ちゃん、それだ」
「え? どれ」
「綾ちゃん、ママに初恋だって言ってたよね。今でも好き?」
「ママ? ミーナさん?」
「うん」
「大好きだよ。ユーナに負けないくらい。でもそれが?」
「あのね、ユーナ、赤ちゃんのママになるって言ったよね。そしたら綾ちゃん、パパがいないって言ってたよね。お兄ちゃんがパパになればいい」
「え? どういうこと」
「だから、ユーナは綾ちゃんとお兄ちゃんが大好き。綾ちゃんとお兄ちゃんもユーナのことが好き。あとは綾ちゃんとお兄ちゃんが恋人になれば何の問題もない。お兄ちゃん、ママに似てるから」
おいおい、何を言い出す。そんなこと綾が認めるわけがない。紫苑は思った。
綾は考え込んだ。え? なぜ否定しない。
「ユーナはそれでいいの? 私とシオン君がエッチしてもいいの?」
「だって、ユーナとお兄ちゃんは男同士だからエッチできないでしょう。ユーナと綾ちゃんは一心同体だから、綾ちゃんとお兄ちゃんがエッチしてくれたら、ユーナも嬉しい」
冗談じゃないと紫苑が言いかけたとき、あかりが先に言った。
「だめ、ユーナ、そんな非常識なこと認めない。恋人は一人と決まってるのよ」
「えー、だれがそんなこと決めたの。ユーナ、綾ちゃんもお兄ちゃんも大好きなんだよ。どっちか選んだら、選ばれなかった人が傷つくじゃない。ユーナ、だれも傷つけたくない」
「だからといって、そんな三角関係みたいなこと普通じゃないでしょう。だれに聞いても非常識って言われるよ」
「普通って何、常識って何。ユーナわかんないよ。三人が三人とも愛し合ってるんだよ。だれも傷つかないし、みんな幸せになれるんだよ。どうしてそれがいけないことなの。それがだめって言われたら、ユーナ、どうしたらいいかわからない」
涙を必死で堪えながら訴えるユーナ。最後は堪えきれず泣き崩れてしまった。
「ユーナ……」
結菜の勢いに押されて、あかりは言葉を失っている。
「でも、だからと言って……」
「お母さん、この家で常識とか普通とか意味あるの」
「綾まで、何を言い出すの」
「ユーナのこの恰好を見てよ。男の子のユーナがこんな恰好をしてるのを、世の中の常識では変態って言われるのよ」
「だってそれはミーナさんのメモ帳に、男の子でも女の子のように育てるって書いてあったから」
「そう、この家ではミーナさん中心に物事が回ってる。私、それを非難してるんじゃないよ。そのミーナさんのメモのお陰でユーナはのびのびと育った。もし世間の常識や普通に縛られて、男だからとか男のくせにとか言われていたら、こんな魅力的なユーナはいなかった」
その通りだと思った。男の子の恰好をしていてもそれなりにかわいいだろうが、周りの人間の心まで明るくしてくれる天真爛漫そのものの結菜は存在しなかっただろう。
「私はユーナが大好きなの。辛いことや悲しいことがあっても、ユーナの笑顔を見ると元気になれた。男嫌いの私がミーナさんみたいに苦しまずにすんだのはユーナのお陰」
「男嫌い?」
予想外の展開に、ここは黙っていようと思っていたのに、つい口が滑った。
「そうなのよ。綾の母親は男に殺されたからね。ユーナのパパとママが刺されたとき、巻き添えになってしまって」
あかりが説明してくれた。あかりのさらりとした言い方に流してしまったが、殺されただの刺されただの、物騒な内容がすぐには頭に入ってこなかった。
「それもあるけど、たぶん元々だと思う。だって男の子にドキドキしたことなんて一度もないから。むしろかわいい女の子に惹かれる。だから私もミーナさんと同じレズよ」
それでは自分と恋人にはなれないのでは、と紫苑は思ったが口には出さなかった。
「私とミーナさんがレズで、ユーナとユーナのパパは女装趣味。ユーナなんか中学の時男の子が好きになってたからバイセクシャル気味だし、この家はお父さんとお母さん以外はみんな変態だらけじゃない」
「そんなこと……、でもだれにも迷惑かけてない」
「私ね、お母さんにとても感謝してるの。お母さんが世間の常識や普通にとらわれずに、私とユーナを育ててくれた。私たちを否定せずにありのままを受け止めてくれた。お陰で私は自分の性癖に苦しまずにすんだ。姉のくせに弟を誘惑した私を叱らないでくれた」
「驚いたけどね。でもまあ、血は繋がってないし、ユーナは危なっかしいし、綾がついていてくれたら安心できるからね」
確かにそうだ。結菜には綾が絶対に必要だ。
「確かに常識がいつも正しいとは限らないけどね。でもね、恋人は一人だけというのはあたしの信念なんだけどね。二股かける人間はくずだと思ってたよ。三人がお互いに愛し合うなんてことがあるのかねえ。って綾、大丈夫なの? シオン君は男だよ。その……できるの?」
「セックス? できると思うよ。だってシオン、ミーナさんにそっくりなんだもん。ミーナさんに抱きしめられてると思えば……、やだ、なんかドキドキしてきちゃった」
えー、なに赤くなってるの。いつのまにか呼び捨てだし。
「しょうがないのかねえ、だれに迷惑かけるでもなし、当事者が幸せなら何も問題ないのかねえ。だけどミーナさんが目覚めたらなんと言うだろう。あたしが叱られるんじゃないかな」
「大丈夫、ミーナさん言ってたんでしょう。男が女装すると世の中の人は変態だと言うかもしれないけど、本人がそれで生き生きできる、人の役に立てるのなら何が問題なんだろうって。私、お母さんに聞いたこの言葉を宝物のように思ってるのよ」
「うーん、そうだね。ミーナさんなら分かってくれるかもしれないねえ。綾とユーナが、それがいいと言うなら、もう私は何も言わないよ。あとはシオン君がどう思うかだね」
来た、ついに来た。どう答えればいい。
綾は美人だし、スタイルもいい。気が強そうなところも嫌いではなかった。だからと言っていきなり恋人はないだろう。と言って断れる状況でもないように思えた。
「はあ、えーっと、そうですね」
「何、嫌なの?」脅しまで来た。
「いや、嫌じゃないんですけど、いきなり恋人にと言われましても……」
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんもきっと綾ちゃんを好きになるから。綾ちゃんのおっぱい、とってもおいしいんだよ」
うわっ、結菜、なんてこと言う!
「ユーナ!」
綾の大声に、結菜の体がびくんと飛び跳ねた。
「そゆことユーナって何度言ったらわかるの!」
「あ、ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません」
「もう、あったまにきた。お風呂上りにお尻10発ね」
「えー、10発はだめー。明日学校で椅子に座れなくなっちゃう」
「だめ!」
「五発にして」
「だめ、九発」
「六発は?」
「だめ、八発」
「うー、七発」
「じゃ、それで」
「えー、七発だと明日は直ってるけど、今夜仰向けで眠れない」
きっと何度もぶたれてきたんだろう。
べそをかきながら「お兄ちゃん、助けて」と甘えてきたユーナに
「ユーナ、なんで五発って言ったの」と囁いた。
「あのね、綾ちゃん、ぶったあとクリームをお尻に塗ってくれるのね。そしたら五発だとしばらくすると痛くなくなって仰向けでも眠れるの」
「だったら最初に一発って言えばよかったんじゃない?」
「え?」
「そしたら、綾さんは何と言うかな」
「九発」
「それから?」
「ユーナが二発でしょ、綾ちゃん八発、ユーナが三発、綾ちゃん七発、ユーナが四発、綾ちゃん六発、で、ユーナが五発、ほんとだ。お兄ちゃん、天才?」
それくらいわかるだろうと思ったが、結菜に褒められるとなんでこんなに嬉しいんだろう。
「綾ちゃん、もっかいやり直していい?」
「だめでしょ」
「あーん、お兄ちゃーん」再び甘えてくる結菜。
仕方がないので「綾さん、今日のところは僕に免じて五発にしてもらえませんか」と、言ってみた。
「いいわよ。シオンが恋人になってくれるのなら」
えー、そんな取引みたいなこと!
「あ、あの、綾さんはとても魅力的だと思います。僕なんかにはもったいないくらいです。ユーナも望んでいるからそうなってもいいかなって思っています。でも、今日会ったばかりでいきなり恋人はどうなんでしょう。もっとお互いを知ってからでいいのではないかと」
「んー、そうね。じゃあ条件が二つある」
「条件?」
「この家に引っ越してくること。そうすればお互いのことがよくわかるでしょ。それにユーナといっしょに暮らせるんだよ。シオンも嬉しいでしょう?」
「はあ」
「うわあ、お兄ちゃん、そうしよ。そしたらずっといっしょにいられるよ。やったあ」
おいおい、まだ返事してないんだけど。
「大丈夫よ、襲ったりしないから」
いやいや、そんなこと期待、じゃなくて心配してないけど……
「わかりました。で、もうひとつの条件とは?」
「あ、そうね、それが……その……」
先ほどまでのはきはきした様子から一転、急に恥ずかし気で歯切れが悪くなった。ちょっとかわいいかも。
「綾さん?」
「それよ、綾さんじゃなくて、ユーナみたいに呼んで欲しい」
「は?」
「だから、ユーナみたいに、あ、綾ちゃんって呼んで欲しいの。だめ?」
うわっ、顔真っ赤にして、か、かわいい!
「わかりました。そんなことでよければ」
「……」
「あの、どうしました」
「早く呼んでよ」
「え、今呼ぶんですか」
「そうだよ、早くう」
「あ、綾ちゃん」
「なあに、シオン。これから仲良くしようね」
そう言った綾の笑顔に、心を鷲掴みされてしまった。この笑顔を見られるのなら恋人になってもいいかなと思った。
目を下に向けると、紫苑の左腕を抱きしめながら満面の笑みを浮かべている結菜がいる。テーブルの向こうにはあきれ気味だが温かい微笑みを浮かべているあかりがいる。
みんないい人たちだ。この笑顔に包まれて家族のように暮らすのも悪くないと思った。
「こちらこそよろしくお願いします。明日にでも身の回りの物だけ持って、引っ越してまいります」
「あら、明日と言わず今夜から泊まっていけばいいのに。そうだ、これからユーナと三人でお風呂に入らない?」
「綾さん、じゃなくて綾ちゃん!」
「何よ、そんなに血相変えて」
「僕、今綾ちゃんのこと好きになりかけてたんですよ。それなのにそんな節操のないこと言わないでください。そんなことは交尾を済ませてから言ってください」
「こうび?」
「あ」しまった、興奮して口が滑った。
「こうびって……、ああ交尾ね」
綾とあかりの笑いが爆発した。結菜はきょとんとしている。
「綾ちゃん、こうびって何」
「セックスのこと」大笑いしながら綾が教えた。
「ああ、交尾」結菜も笑いに参加した。
散々笑われたあとに
「そんなに笑わなくても」と、紫苑が言うと、
「ごめん、ごめん。シオンが真面目な顔して強烈なギャグかますから」
笑いながら綾が言う。
「別にギャグかましたわけじゃないです」
「でもなんで交尾? あいたた、お腹痛い」
「雪さんが言ったんです」
「雪さんが?」笑いながらあかりが言った。
「どういう状況で」
「僕、子どもの頃から母さんの世話をしてたんです。体を拭いたり、手足を動かしたり、もちろん下の世話も。小さいときは雪さんがメインでやってたんですが、10歳くらいからは僕ひとりでやってました」
「そう? ひとりでやってたんだ。大変だったね」と、あかり。
「いえ、むしろ楽しかったんです。母さんは僕の憧れでしたので。雪さんはそのことを知ってたんで、交尾は絶対だめですって僕に言ったんです」
「雪さん、昔の人だからね。セックスなんて言えないよね」あかりが言った。
「で、ミーナさんと交尾したの?」綾が言った。
「してません」
「でも、したかったのよね」
「そりゃ、母さんは憧れの女性で、目の前に裸でいるんですから。特に17・8の頃はしたくてたまらなかったです」
「どうして我慢できたの」
「それは……眠ってる母さんとしたら、母さんを汚してしまうような気がしたからです」
「うん、シオン偉い。私はシオンを信じる」
「綾ちゃん」
「もし、シオンが母親だからなんて言ってたら、私は信じなかった。シオンにとって母親は雪さんでしょう?」
「はい、その通りです。母さんは母さんと呼んでましたけど、僕にとってはひとりの女性でした。理想の女性でした」
「私はね、別に母親としてもいいと思ってる。周りの人は気持ち悪いとかタブーだとか言うかもしれないけど、それは女装やレズを気持ち悪いとか言うのと基本的には同じレベル。当人同士がそれで満足してれば、周りが何と言おうが関係ない」
凄いと思った。実の母親と結ばれたがっている自分に対して、何度自己嫌悪の深い沼に沈んでいっただろう。綾が体についた泥を浄化してくれている気がした。
「ただ、近親相姦の場合は微妙な問題があってね、母親や父親、叔父さん、叔母さん、要は年長者が年少者を誘惑した場合は、子どもが断れずに傷ついている場合があるんで、一概にいいとは言えないけどね。こんなこと言うと、私なんか姉のくせに弟を誘惑したいけない姉になるんだけど」
「大丈夫だよ、綾ちゃん。ユーナ、傷ついてないから。綾ちゃんとエッチできてすっごく満足してるから」
「ありがとう、ユーナ、おいで」
結菜が紫苑の元から、手を広げた綾に飛びついた。
「ユーナ、大好きだよ」
「ユーナも、綾ちゃん大好き」
抱き合っている二人を見ても嫌な感じはしなくなっていた。二人の間に入りたいとさえ思った。
「シオンがミーナさんと交尾しても、私はいいと思う。でも、それはミーナさんも納得してないとだめ。眠ってる人とは絶対だめ。それは強姦と同じ。だから、シオンが我慢できたのは立派だと思う。偉かったね」
褒められることではないと思った。確かに最後の一線は越えなかったが。危ないときは何度もあった。自分も裸になって抱きついたときもあった。触ってはいけないと言われた場所を素手で触ったときもあった。踏みとどまれたのは倫理感なんかではなく、ただ自己嫌悪の沼から這い上がれなくなるのを恐れたからだ。
これ以上この話題に触れたくなかった。毎日のように美菜の胸を触り、吸っていたことなど話せるわけがなかった。結菜には絶対に知られたくなかった。もう、黙っていようと思った。
「でも、パパは眠ってるママとエッチしちゃったよ。それはいけないことなの」
「ああ、それは夢だと思ってたからね。30年前に憧れてた人が若い姿でしかも裸で眠っていたら、誰だって夢だと思うんじゃないかな。実際、VRが見せる夢だったんだし。ユーナのパパは現実でそんなことする人じゃないと思う。そうだよね、お母さん」
「そうだね。遼ちゃんは、大きなストレスがかかると壊れちゃうんじゃないかって思うくらい初心で繊細だった。だから、現実でそんなことは絶対できない。でもね、ミーナさんに出会って、ミーナさんに愛されて、遼ちゃんはめきめき強くて逞しくなっていったのよ。あたしたちを何度も笑わせてくれたし、ミーナさんのピンチを何度も救ったのよ。あたしはあの二人が目覚めて幸せになって欲しい。ユーナを抱きしめて欲しい。その姿を何度思い描いたかわからないよ」
あかりが涙ぐみながら言う。
「もう、お母さん、最近ほんとに涙もろくなっちゃったね。もうすぐだよ、もうすぐ二人とも目覚めて私たちを抱きしめてくれるよ。私もユーナも同じ気持ちだよ。シオンだってそうだよね、ミーナさんに会いたいでしょう?」
「はい、それはもう、ほんとに楽しみです。でも、母さんは僕の存在さえ知りませんから、どんな反応するのか、ちょっと怖い気もします」
「そうなの?」
あれ? なんか変なこと言ったのかな。雰囲気が急に暗くなった。そう思いながら結菜の顔を見ると泣きそうな顔をしている。そこで気づいた。美菜は結菜の存在も知らない。結菜もそれを心配している。
紫苑は立ち上がって、綾に抱きついている結菜を後ろから抱きしめた。
「ユーナ、ごめん。ユーナも同じだったんだね」
「ううん、大丈夫。ママはとっても優しい人だってお母さんが教えてくれたから。子どもを欲しがっていたって教えてくれたから、きっと、きっとユーナを抱きしめてくれる。お兄ちゃんもだよ。お兄ちゃんも抱きしめてくれる」
懸命に涙を堪えながら、紫苑に抱きつく結菜。最後は泣きながらもなんとか言い切った。結菜も不安なんだ。楽しみにしながらも、もし『あんたなんか産んだ覚えはない』と、突き放されたらどうしようと。
もっと大きな不安もあった。VRの成功率は高くない。大いに期待したあとの落胆を紫苑は経験している。あの悲しみを結菜に味わってほしくなかった。
紫苑は結菜のために祈った。
『母さん、今度こそユーナのために目覚めてよ。みんな母さんが目覚めるのを心から待ってるんだよ。目を覚ましてユーナを抱きしめてやって』
気づいたら、紫苑も声を上げて泣きながら結菜を抱きしめていた。