結菜と紫苑
次の日、紫苑は午後二時過ぎに目を覚ました。普段より二時間ほど早く起きて、食事を済ませ、ユーナを迎える準備をした。準備と言っても昨夜コンビニで買ったお菓子を皿に開け、テーブルに運ぶともうやることがなくなった。
本でも読もうかと思ったがそんな気分ではなかった。ユーナに会えると思うとわくわくしていた。時間の進みが遅い。二分ごとに時計を見てため息をついた。
ユーナを待ち焦がれた思いが破裂しそうに膨らんだとき、アパートの外階段を上がってくる足音がした。思わず玄関先まで足が動き、ドアが開くのを待った。
ドアがおずおずと開き、大きな荷物を二つ抱えたユーナが現れた。
ユーナと目が合ったとき、ユーナは荷物をその場に落とし、靴を脱ぎ捨て、紫苑の胸に飛び込んできた。
「お兄ちゃん」
「ユーナ!」
紫苑はユーナを全力で抱きしめた。抱き上げたまま、ユーナの感触を味わった。
「お兄ちゃん、苦しい」
「あ、ごめん」
ユーナをゆっくりと下して、今度は優しく抱きしめた。
「ユーナ、会いたかった」
「ユーナも会いたかった。お兄ちゃん、大好き」
しかし、これではまるで何年も会わなかった恋人同士だなと思った。昨日会ったばかりで、会いたかったもないもんだ。そう思うとなんだか気恥ずかしくなった。
「荷物取ってくる」
ユーナが落とした荷物を拾い上げた。二つともずしりと重い。
「何、この荷物」
「ユーナ、家出しちゃった」
「家出! なんで」
「その訳はあとで話すから。ユーナ行くとこないの。ここに泊めてくれる?」
「それはいいけど」
ユーナは紫苑の腕の中から離れ、その場に正座して
「何もできない不束者ですが、末永くよろしくお願いします」と言って両手を前について頭を下げた。
「それじゃ、嫁入りの挨拶だよ」
「いいの、似たようなものだから」
ユーナが正座したまま、襟元を広げて言った。
「じゃ、お兄ちゃんいいよ。少しくらい痛くてもユーナ我慢できるから」
「え、何が」
「ユーナの血、吸いたいんでしょう。どうぞ」
「あ、あれ? えっと、それは冗談だから」
「冗談? じゃ、嘘だったの?」
「嘘というか、冗談。まさか本気にするとは思わなかったから」
「だって、太陽に当たったら死ぬって」
「あ、それはほんと。そういう病気。吸血鬼ってわけじゃない」
「……」
ユーナの大きく見開いた目にみるみる涙がたまっていった。
「ごめん、ごめん。お兄ちゃんが悪かった。すぐに冗談だよって言えばよかった。だから泣かないで」
泣かないでと言ったのが引き金になったように、ユーナは声を上げて泣き出した。泣きながら声をひきつらせて言った。
「お兄ちゃんのばかあ。ユーナほんとに心配してたんだよ。いろいろ考えて、いろいろ悩んで、お兄ちゃんに付いて行こうって決めたんだよ」
紫苑はたまらず正座しているユーナを横抱きにして言った。
「そうだったんだね。ごめんね、お兄ちゃんがばかだった。でもお願いだから泣かないで。ユーナが泣いてると、胸が痛い」
その言葉が効いたのか、ユーナの泣き声が治まってきた。
「あのね、ユーナ最初は嬉しかったんだよ。吸血鬼になれば、お兄ちゃんと永遠の時を生きられると思って。でも家に帰ったら綾ちゃんのことを思い出したの」
「うん」半泣きの声が胸に染みる。
「ユーナ、綾ちゃんも大好きなの。綾ちゃんとお別れしたくない。で、どうしようって思ったらいい考えが浮かんだの。綾ちゃんも吸血鬼にしちゃって三人でひっそり生きていこうって」
「う、うん」
「そしたらね、今度は赤ちゃんのことを思い出したの。吸血鬼って体は死んでるんだよね。死んだまま生きてる…あれ? 生きたまま死んでる? ああもう、そんなもんどっちでもいい! とにかく死んでる体の中の赤ちゃん大丈夫かなって思ったの」
「うん」
「ユーナも赤ちゃんのパパだし、でもほんとはパパは嫌なの。ママになりたいって言ったら、綾ちゃんが、だめよ、ママは綾ちゃんだよって言うの」
「……」
話が完全に変わっている。つい先ほどまで大泣きしていたのが嘘のように、興奮気味に話している。紫苑は目の前で表情をくるくると変えるユーナの顔を見ながら、幸せな思いに浸っていた。
「お兄ちゃん、話聞いてる?」
「う、うん、聞いてるよ」
「だからね、ユーナ言ったの。綾ちゃんはお母さんで、ユーナがママになればいいって」
「そしたら綾ちゃんは何と言ったの」
「いいよって。でも、そしたら赤ちゃんにパパがいないね。かわいそうって言うの。ユーナ、困ってしまって。お兄ちゃん、どうしたらいい」
「うーん、そうだなあ」
正直に言えば、そんなことどうでもよかった。ただ、ユーナを抱きしめながら、ユーナの愛らしい顔を見て、たわいもない話をしていることに満足していた。本当に吸血鬼になって永遠の時をユーナと過ごしたいとさえ思った。
「あれ? ユーナ、何の話をしてたんだっけ。すっごく大切なこと話してた気がするんだけど」
「えっと、綾ちゃんを吸血鬼にしようかと悩んでたってことかな」
「あ、そうだった。それでね、赤ちゃんのこと考えたら綾ちゃんを吸血鬼にはできないと思ったの。それでユーナ、気づいたの。これは二択だって」
「二択?」
「そう。お兄ちゃんか綾ちゃんのどっちかを選ばなきゃいけないんだって」
「そ、そうなの?」
「そうなの、ゆうべはお布団の中でずっと悩んでたの。でもね、結論はとっくに出てたの。お兄ちゃんを選ぶって。でもね、そうすると綾ちゃんやお腹の赤ちゃんを諦めるってことでしょう。そう思うと悲しくて、悲しくてお布団の中でずっと泣いてたの」
その時の思いが蘇ったのか、ユーナは再び泣き出した。
「そう、かわいそうに。ほんとにごめんね。悲しい思いをさせちゃったね」
紫苑は力を込めてユーナを抱きしめた。
「お兄ちゃーん」
そう言って縋りつくユーナが心の底から愛おしかった。
「一晩中泣いてたの?」
「ううん、いつの間にか寝ちゃってて、お昼頃まで寝てた。起きても悲しくて、泣きながら綾ちゃんに、あーーーー」
「ど、どうした」
「ユーナ、綾ちゃんに遺書書いちゃった」
「いしょ!」
「あれ見られたら大変。取ってくる」
ユーナは慌てて立ち上がり、急いで出て行った。
紫苑は呆然と見ていることしかできなかった。
外階段を慌ただしく降りる音がした。しばらくして、今度は駆け上がってくる音がしたと思うと、ドアが勢いよく開かれて、
「お兄ちゃん、綾ちゃん土曜日は帰るの早いからもう見られてる可能性が高いの。そしたら綾ちゃん泣いてると思うから、ユーナが慰めないといけないの。だから、今日はもう来れないと思う。明日また四時に来てもいい?」
「ああ、もちろん」
「じゃね」
「ああ、ユーナ待って」
「何」
「あんまり急いで事故ったら大変だから、ゆっくり急いで」
「難しいこと言うのね。でもわかった。じゃね、お兄ちゃん」
ドアが閉まり、すぐに開いた。
「お兄ちゃん、愛してるよ。うわっ、言っちゃった」
そう言って微笑んだユーナの笑顔に見惚れて、返事ができなかった。
閉じたドアに向かって小声で「お兄ちゃんも愛してるよ」と、独り言のように言った。
外階段を二段飛びで降りるような音がした。
「だから、ゆっくり急げって」
紫苑は軽い喪失感を覚えながらも、ユーナに選ばれた喜びに浸っていた。