価値観の違い
暗い下水道の中を、私は懸命に歩いた。こみ上げて来る吐き気や、目眩を我慢し、フラフラになっても耳を手で押さえ、どこまでも歩いて行く。
しかし限界というのは絶対にやって来る物で、私は倒れてしまった。しかし耳から手は離さない。
「はぁ……はぁ……うぷっ」
息が荒い。それは疲れではなく、下水の中に充満する殺虫剤のせいだ。
いくら人間に効きにくくなったとはいえ、ここまで吸い続けたらさすがに辛い。冷や汗がとまらずに溢れ出て、命の危険すら感じるレベルだ。
命の危険を感じた私は、このまま倒れている訳にはいかないと、根性で立ち上がった。
そして先にある、上へと続く梯子を見つめる。
このままここで倒れていたら、全てが終わってしまう。だったらもう、外へ出よう。元居た場所からはかなり歩いて来たので、もうそろそろ大丈夫な頃合いのはずだ。
本当はまだまだ歩いて進んでおきたい所だけど、ここは妥協する事にした。
「うぅ……!」
耳を塞ぎながらだと、梯子が上りにくい。だけどどうにかして上っていき、マンホールの蓋を頭で押し上げる。
「ぷはぁ!」
そして穴の中から顔を出し、久しぶりに水面に顔を出して息継ぎをしたかのように、思い切り息を吸った。
もしマンホールが道路の真ん中にあったら、どえらい事になっていたかもしれない。そんな可能性も考えられないくらい、その時の私は必死だった。
「はぁ、はぁ……」
しばらく新鮮な息を吸い、落ち着いて来た所でマンホールの場所を確認する。
と、そこは見覚えのある場所だった。
コンクリートがむき出しになった、廃ビル。崩れた瓦礫が地面に散乱し、周囲には規制線が張られている。
そこは、私が七瀬さんに呼び出され、七瀬さんが愛音に変わった場所だった。
私が這い出て来たマンホールは、偶然にもそんな廃ビルの前を通る歩道に繋がっていた。
穴の中から這い出た私は、とりあえずマンホールの蓋を戻しておく。誰かが落ちたら大変な事になるからね。
「おぇぇ」
それから、少し吐いた。
幸いにも周囲に人はいなくて、吐く所は見られなかった。勿論マンホールから這い出た所も見られていない。
私はフラフラになりつつも、廃ビルの敷地内へと入っていく。
「愛音……愛音……」
歩きながら、ぶつぶつと愛音の名前を呼ぶけど、返事は帰ってこない。当然と言えば当然だ。愛音は私の腕の中で死んでしまい、分体は耳の中にあるはずだけど分体は返事をしてくれない。
ようやく新鮮な空気を吸う事が出来て安心したものの、失った物の事を思い出す余裕が出来て涙が出そうになる。
そこへ、猛スピードで走る車がやってきた。
黒塗りの車は、廃ビルの敷地に入ると私の行く手を阻む形で止まり、すぐに扉が開かれて男が降車した。
「……」
ただ黙って睨みつけると、ヘラヘラ挑発するように笑ってくる男。やって来たのは石塚だ。
私はもう、その姿を見て大したリアクションをする気力もない。
「随分と気分が悪そうじゃねぇか。下水に撒いた殺虫剤をたっぷり吸ってくれたみたいで嬉しいぜ」
「……どうして私の場所が分かったの」
私は立っていられず、地面に座り込みながら尋ねる。
「念のため、周辺のマンホールの蓋が開けられたら分かるように、細工しといたんだよ。先日壊滅させた化け物共が下水に潜んでいたからな。お前らが地上のオレ達から逃げるとしたら、下を使うと思ってあらかじめ仕掛けておいた。お前等を見失ってからセンサーの反応を確認したら、案の定、反応があったって訳だ。機械に敏感な化け物に効果があるかどうかは分からなかったが、気づかなかったみたいだな。それとも気にする余裕もなかったか?」
「……」
悔しいけど、石塚は頭が良い。全てを見通して私達を、あの場所に呼んだ。そして絶対に逃げられないように、色々と仕掛けていたのだ。
「殺虫剤もあらかじめ撒いといたから、効いたろ?で、七瀬 愛音はどうした?ちなみにお前等を逃がすためにオレ達に戦いを挑んで来た勇敢な七瀬 和音は、駆除したぜ。お前の母親と一緒だ」
「……愛音も、死んだよ。私の腕の中で、死んだ」
「だろうな。悲しいか?」
「……」
返事をする代わりに、石塚を睨む。
この男だけは、許したくない。何もしていない、罪もない化け物を殺し、笑うこの男の方が、よっぽど化け物と呼ばれるに相応しい。
「どうやら、今度は本当に死んじまったみたいだな。そりゃそうだろうな。殺虫剤が撒かれた密閉空間の下水に逃げて、化け物が生き延びられるはずがない。これから、もっとたくさんの化け物が死ぬぜ。人間様の世界に紛れ込んだ化け物を、この世から一匹残らず殺しつくしてやる」
「……哀れだね。貴方は自分の子供を守る事が出来なかった悲しみを、化け物に責任転嫁して勝手に怒ってるだけ」
「自分の親を食われたと知って、受け入れてるお前の方がよっぽど哀れだぜ。親の死を受け入れる事が出来なかったんだろう?だから、親の姿形をした化け物を受け入れて、死をごまかしてる。お前のかーちゃんはあの世でさぞ悲しんでるだろうよ。オレならぶん殴るね」
「貴方と私は、価値観が根本的に違うみたいだね……」
「それこそが、人間だ。価値観なんて十人十色で、だから戦争なんてもんがおこる。なぁ、そろそろくだらねぇお喋りはおしまいにしようや」
石塚が、静かに銃を取り出し、銃口を私に向けた。
石塚の中では、私は化け物と決定しているらしい。化け物に味方する人間は、化け物。だから、殺してもいい。そんなルールを押し通そうとしている。
「私を殺すの?」
「残念ながら、そのつもりだ。素直にごめんなさいしてみるか?化け物に味方した自分が間違っていました。もう化け物の味方なんてしません。人間様に味方します。って。オレは化け物には厳しいが、人間には優しいんだ。もしかしたら許してくれるかもしれないぜ?」
「貴方は私を、化け物として見てる。だから、許してくれたりは絶対にしない」
「はははっ!ご名答!最期に無様に謝罪する姿を見てから殺してやろうと思ったが、一本取られたぜ!中々特異な体験だったよ。化け物と家族ごっこに、恋人ごっこまでする人間もいるんだな。勉強になった。これからの化け物狩りの参考させてもらう」
「……」
ここで終わる訳にはいかない。愛音は、自分の命が私と共にあると言っていた。なんとしてでも生き延びなければいけないので、私は立ち上がる。
立ち上がった所で、出来る事は少ない。このまま背を向けて逃げ出したら背中から撃たれるし、どこかへ身を隠そうとしてもその前に撃たれて同じ事になる。
ならばいっその事、一か八かで殴りかかろう。近くに転がっていた石を、私は拾い上げる。
私は愛音のような力は持ち合わせていないけど、このまま何もせずに殺されるよりは、戦って、例え低い可能性でも生き延びる可能性がある方を選ぶ。
「──あああぁぁぁぁぁぁ!」
私は、撃たれる前に石塚に向かって突進を開始した。
石塚の銃は、確実に私を捉え続けている。
突進を開始した私に何のリアクションも見せず、表情も無だ。
「じゃあな」
無情にも、その引き金が引かれた。




