逃げ場
どれくらいの時間、愛音と唇を重ねているのだろう。一瞬とも、数十分とも思えるような時間、こうしている気がする。
目を見開いていつまでこうしているのかと、目の前の愛音に訴えかけると、少しだけ潤んだ瞳がようやく遠ざかっていく。同時に、唇も私から離れた。
「ぷはぁ!」
どうやら私は息を止めていたようで、離れた瞬間に大きく息を吸う。
「はあぁ……」
一方で愛音は、色っぽく息を吐いて口を拭った。
私と愛音の唇の間には、涎が糸を引いて橋が出来ていたけど、それは一瞬で崩壊。床に落ちていった。
私の口から垂れた涎は、拘束されている私の代わりに愛音の触手が拭ってくれた。
「……な、何するの。初めてだったのに」
それから私は、愛音に向かって抗議した。
今のキスは、正真正銘私の初めてのキスである。いわゆるファーストキスだ。それを同性の女の子、しかも化け物に拘束された上で奪われてしまった。
若干無理やりと言うか、同意を得ていない行為ではあったものの、感想としては……正直、かなり良かった……。愛音の唇は貪りたくなるほどに柔らかく、まるでプリンか何かが口に触れているようだった。味はちょっと覚えてないけど、プリンというより、たぶん柑橘系だったかな。
ファーストキスとしては、大満足の結果である。
だからという訳じゃないけど、抗議する声はとても小さい。
「落ち着いた?」
「……」
そう尋ねられ、私はお母さんに殺意を向けていた事を思い出す。愛音の拘束に体の関節が外れる事も厭わない勢いで抵抗していた所を、愛音にキスされたのだ。
私、お母さんの前で友達とキスしてたよ。いや、お母さんじゃないか。キスした相手も化け物だし、情報量が多すぎる。
「親の前で、女の子同士で突然キスをするとか……貴方達本当に仲が良いのね」
「み、見てたでしょう!?今のは愛音が突然して来ただけで、私はしてない!」
「満更でもないような顔して、何言ってるの。それに咲夜は可愛い女の子が好きじゃない。特に、七瀬さんみたいな子がタイプなんでしょう?」
「そうなの?」
「んなっ、ち、ちがっ……くもない、けど……そうじゃなくて!とにかくお母さんを返して!」
確かに、愛音は私のど真ん中ストライクくらいには好みだ。
でも今はそんな話をしているのではなくて、お母さんの正体について話している。はぐらかされたりなんかしない。
「それはさっきも言ったけど、無理。でも、そうね……」
お母さんはそこまで言って、寂しそうな表情を浮かべた。そんな表情のまま、何かを考えているようだ。
「ちょっと待って。二人とも、一旦落ち着いて欲しい」
「……貴女が招いた事態じゃない」
と、お母さんがボソリと抗議するも、愛音はスルーした。
「咲夜。今日は家に来て」
「は、は?愛音の家に泊まるって事?」
「そうよ。いいわよね?」
愛音は私と、お母さんを交互に見てそう尋ねた。
「……好きにすればいい」
「じゃあ決まり。行きましょう」
「ちょ、ちょっとぉ……!」
私の返事なんか聞かずに、愛音の触手に運ばれて私は連れていかれる。その際に、お母さんが目に入った。正確にはお母さんじゃなかったけど、とても寂しそうな顔をしている。今にも泣きだしてしまいそうなくらい打ちひしがれていて……心がズキリと痛む。
でも私は、そんなお母さんから目を逸らした。そして愛音に連れられ、家を出ていく。
さすがに外に出る頃には人の姿の愛音に手を引っ張られるだけで、触手で運ばれて行ったりはしていない。
私は愛音に手を引かれ、夜空の下を歩いていく。道中、愛音から話しかけて来る事はなくて、私からも話しかける事はなかった。お互いにただただ黙って、手を繋いで歩く。
ほとんど無意識に愛音任せで歩いていたので、愛音の家についたと気づいたのは愛音に足元に気を付けるように促されてからだった。
愛音の家は、控えめに言って豪邸だ。家は鉄格子がぐるりと囲っており、目隠しに均整の取れた低木が庭に並んでいる。敷地内に入るには門扉をくぐる必要があるんだけど、門扉には車用の大きな引き戸と、人が出入りするようの小さな扉がついている。私達は小さな扉をくぐって中に入ると、そこには家が一軒ヨユウで建てられるような駐車場と庭があり、一番奥に大きな2階建ての建物が建てられていた。
「愛音の家、大きいね」
「そうね」
短く会話をしながら庭を通って建物へとやって来ると、愛音が取り出した鍵で玄関の扉を開く。
すると人の気配を察知したのか、家の奥から人が速足でやって来た。
「愛音、こんな時間まで一体なにをして──……!」
やってきた人物はやや喋りにくそうに、だけど語気を強めながら言葉を荒げ、途中で私に気付いて言葉を中断した。
「ただいま。ママ」
「お、おじゃまします」
「桜さん?こんな時間にどうしたの……?」
私達を出迎えたのは愛音のお母さんなんだけど、私の姿を見て驚いている。
赤色のパジャマ姿のおばさんは、お風呂上りなのか髪の毛をタオルで巻いており、肌も赤く見える。更には顔にはパックがされていて、先程喋りにくそうにしていたのはそのパックがはがれないようにするためだったようだ。
常識的に考えれば、前もって泊めてくださいと、連絡の一つや二つくらいはすべきだった。こんな時間にやってきて、いきなり泊めてくださいはマナー違反に等しい。
前もってちゃんと言っておけば、愛音のお母さんがこんな姿で私を迎え入れる事もなかっただろう。
「私のせいで、咲夜とお母さんが喧嘩しちゃったの。だから今日は家に泊めてあげて」
「私のせいって……貴女一体何をしたの」
「愛音に、貴女のお母さんは化け物だよって教えちゃった」
「……はぁ。入りなさい」
何があったのかを簡潔に聞いた愛音のお母さんは、溜息混じりながらもそう言って、私を家にあげる許可を出してくれた。
家の場所は知っていたけど、愛音の家にあがるのはこれが初めてだ。少し大袈裟だと思うけど、私の部屋くらい広いんじゃないかという勢いの玄関をあがると、廊下を歩いてリビングへと通された。リビングもこれまた広い。ただ、そう感じるのは物の少なさの影響もあるのかもしれない。隅っこの方に対面で4人掛けのソファが2つ置いてあり、壁際の本棚には本がビッシリと並ぶ。他にはオシャレなオープンキッチンと食卓用と思われる4人用の机とイスがあるくらいで、家具に対してスペースが余りがちだ。
その後、愛音のお母さんはパックを外して来ると言って席を外した。
私は愛音と隣り合ってソファに座りこむ事となる。
「ごめんね、咲夜」
すると、愛音が私に謝罪の言葉を口にした。
「何の事……?」
「咲夜のママの事。私、咲夜が私の存在を受け入れてくれたから、てっきりママの事も受け止める事が出来ると思ってしまっていた。咲夜のママの言う通り、他人と大切な人とじゃ、受け止め方が全然違うよね」
「……うん。ショックだった」
私は甘えるように、愛音の肩に頭を乗せて訴えかける。
「でも愛音のせいじゃないよ。お母さんが化け物だったのは昔からだし、喋っても黙ってたってその事実は変わらない。愛音が謝る事はない。でも……ショックだった」
泣きたいけど、不思議と涙は出て来なかった。それくらい昔からお母さんは化け物で、とうの昔に亡くなっていた。
一体どうしていたら、お母さんは助かったのだろうか。私がもっと早く気づいていれば、何か変わったのだろうか。
……また、後悔している。
「愛音から、貴女に化け物について話して、受け入れてくれたと聞いているわ。それは間違いない?」
そこへ、パックを外した愛音のお母さんがやって来て私に尋ねた。
その手には缶チューハイが握られており、私と愛音が座るソファに深く座り込むと、缶を開いてぐびぐびと飲み始める。
「は、はい」
うちに謝罪に来た時はスーツ姿で、しっかりとした大人って感じのイメージだったけど、案外だらしのない人なのだろうか。
「それで、母親が化け物だと知った今、どうしたいの?」
「どうしたい、って?」
「母親の事。どういう結末になったら、満足するの?」
「か、仇を打ちたいです」
「それはダメ。私がさせない」
「どうして……!邪魔するの!」
隣に座る愛音が即座に私の決意を否定してきて、私は立ち上がりつつ怒りをぶつけた。
思えば、家でも私を拘束して邪魔して来た。やっぱり、化け物同士だから庇い合っているのだろうかと勘繰ってしまう。
「……私達化け物は、記憶も継承する。その辺りの話はもう愛音から聞いているんでしょう?」
「……はい」
「記憶を受け継ぐと言う事は、擬態した人間の意志も受け継ぐ事になる。それに性格や考え方も、大小あるけど影響される物よ。そこは個体差があるけど、何年も何十年も懸命に子供を育てて来た化け物が、子供を愛していないと思う?」
「……」
ゴクリと唾をのんだ。
お母さんと入れ替わった化け物は、まるで本物のお母さんのように私を愛してくれた。それは間違いない。でもあれが演技だったとすると?いや、演技であんな事何年も続けられるものなのだろうか。
私はソファに座り直し、呆然と考えこむ。
「家に帰って、もう一度ゆっくりとお母さんと話して聞いてみなさい。どんな想いで育てて来たか、教えてくれるはずよ」
「で、でももし、本当に全部演技だったら?私の事なんて、なんとも思ってなかったら?」
「真実を知るのは怖いだろうけど、勇気を振り絞りなさい。それで悪い方向に進みそうだったら、また家にでも来ればいい。話くらいなら聞いてあげる」
愛音のお母さんは、もしもの時の逃げ場を私に作ってくれたようだ。逃げ場があるのとないのとでは、精神的なもちようが全く違う。正直いって、凄くありがたかった。
こんな優しい感じの人だけど、裏では愛音を虐待する毒親なんだよね?と、ふと思った。
「……おばさんは、どんな気持ちで愛音を虐待しているんですか?」
尋ねた次の瞬間、愛音のお母さんが飲み終わった缶チューハイを力強く潰して驚いた。私は自分が地雷を踏んでしまったと感じ、愛音に助けを求めるように視線を向ける。
けど、愛音は小さく微笑むだけだった。




