動き出す闇の足音
闇の足音がゆっくりと動き出す。
午後の陽光は、白いレースのカーテンを透かし、静かな部屋に淡く差し込んでいた。
その光の中で、ロキシーが笑っている。
あの女の隣で。
柔らかな木漏れ日のような微笑み。優しい眼差し。
あの女が何かを語りかけ、ロキシーは静かに頷く。二人は寄り添うでもなく、離れるでもなく、ただ自然に並んでいた。
まるで一枚の絵画のように、穏やかで、完成された光景。
それの映像“視た”瞬間、フィオーレの奥歯がぎり、と鳴った。白い指先に歯を立てると細く整えられた爪を、形が崩れるほど強く噛み皮膚が裂け、血が滲む。それでもやめられない。胸の奥が、ざわつくのが治まらない。
(どうして、あの女なの?)
ロキシーは、私のものになるのに。
滲んだ血を、舌で舐め取ると、苦い鉄の味が広がる。
背後で素早くヴェルディが、手当てをしようとするが、フィオーレは鋭く振り払った。
「気安く触らないで!」
低い声。震えているのは怒りか、それとも――。
◇
「ねぇ、アレン」
背後の長椅子で本を読んでいた彼が、ゆっくりと顔を上げる。薄闇を宿した穏やかな金と赤の混ざった色の瞳が、フィオーレを映す。
「フィオーレ?」
柔らかい声。その声音だけで、胸のざわめきが少しだけ鎮まる。
「王立学園、あの女も通うのよね」
一瞬、アレンの瞳が細められる。
「そうだね」
フィオーレの唇が、ゆっくりと歪む。
「私も、行こうかしら」
フィオーレがため息を漏らすと、妖艶な声色が部屋に溶けだす。
「退屈なの。この城も、こんな毎日も」
彼の読んでいた本を、不意に取り上げる。その本をぱさり、と床に落とした。アレンは驚きもせず、ただ視線を彼女へ向ける。
フィオーレはそのまま彼の首に腕を回して、顔を近づける。
「あの女と遊べば、きっと楽しくなるわ」
フィオーレが手の指を絡ませ甘く笑う。アレンはしばらく彼女を見つめ、静かに言う。
「君が望むままにすればいい」
当然、という顔でフィオーレは続けた。
「アレンも、一緒に来てくれるでしょう?」
行くと即答しない、アレンが口を開いた。
「ごめん。僕は、行けないんだ」
空気が止まる。腕をほどき、彼を見上げた。
「何で?行けないって? どうして?」
声がわずかに早くなる。
アレンは立ち上がり、彼女の手を取った。その指先が温かい。何も言わず、玄関へと歩き出す。その、重厚な扉が開くと見えない膜のようなものが空間を覆っている。
「フィオーレ、見ててね」
アレンが手を伸ばす。触れた瞬間――空間が軋んだ。
拒絶するように波打ち、黒い火花が散る。
彼の利き腕が一瞬で黒焦げに変わる。焼ける匂いが漂う。
「……っ」
フィオーレの喉が引きつる。
「アレン!手当しないと」
慌てるフィオーレだが、アレンは眉ひとつ動かさない。痛みを感じていないかのような無表情。
─ただ、外へ出ることを“許されていない”。黒く焦げたやけどは、知らぬ間に元に戻っていてフィオーレが驚いてみていた。
「僕はこの城から出られないよう、縛られているんだ。だから完全に外へ出ることはできない」
淡々とした説明に、フィオーレが声を荒らげる。
「壊せばいいじゃない!アレンなら、簡単に壊せるでしょ?」
アレンのシャツを握りしめるフィオーレに、首を横に振って答えた。
「駄目だった。どんなに魔法を使っても、壊れないんだ」
フィオーレの声が跳ね上がる。
「嫌! 嫌よ! 嫌!」
甲高い叫びが玄関ホールに響く。
「どうして! 私を一人にするの!?」
呼吸が荒れる。視界が滲む。
足を踏み鳴らし、拳で彼の胸を叩く。
「アレンは、私がいなくても平気なの!? この城で満足なの!?」
フィオーレの声が跳ね上がり、呼吸が荒れ足を踏み鳴らし、拳で彼の胸を叩き続けるが、アレンは答えない。ただ見つめるだけだった。その沈黙が、余計にフィオーレの不安を煽る。
「もう嫌! 聞きたくない!」
耳を塞ぎ、首を振るフィオーレ。
置いていかれる恐怖が、怒りの形を取って暴れる。
アレンはゆっくりと近づき、彼女の両腕を掴んだ。
「フィオーレ」
低く、優しい声、それでも彼女は涙を零す。
「アレンが一緒じゃなきゃ嫌なの!」
その瞬間。アレンは迷いなく彼女を抱き上げた。ふわり、とフィオーレの身体が浮き、驚きに息を呑むと無意識に彼のシャツを掴んでいた。
「フィオーレ、落ち着いて聞いて」
彼の胸の鼓動は一定だ。
「僕はどこにも行かない。君を一人にして、置いていかないよ」
その瞳に嘘はない。
彼は、この城から出られないのだから。
「三年なんて、すぐだよ。それにヴェルディもいる」
彼の指が頬を撫でる。優しく、壊れ物を扱うように。
「その間に、君はもっと美しくなる」
甘い言葉が、フィオーレの怒りを溶かす。
「…アレンは、私のこと嫌いにならない?」
震える声、額と額が触れ合う。
「嫌いに、ならないよ」
「癇癪ばかりの、私なのに?」
「君は、特別だから」
アレンの一言で、空洞だった心が満たされる。アレンは静かに続けた。
「そうだ。出発の日に贈り物をあげるね」
フィオーレは、ゆっくりと頷いた。
◇
出発の朝。赤と黒のドレスを纏ったフィオーレは、結界の境界の前で立ち止まっていた。一歩踏み出せば、城の外だけど、足が前に動かない。振り返れば、アレンが静かに佇んでいる。
「…行くのやっぱり、やめてもいいかしら」
声は強がっているのに、瞳は揺れている。フィオーレは踵を返し、彼のもとへと戻り腰に抱きつく。
「三年…会えないなんて長すぎるわ」
アレンの服の袖を掴む指先に力がこもる。彼が穏やかにその手を包み込み、足元へ視線を落とした。
「寂しがると思ったから、これを君に用意したんだ」
彼の影が、ゆらりと揺れる。次の瞬間、影が盛り上がり、小さな少年の形をとった。アレンにそっくりな、闇の分身。
「結界には触れられない。だから君の傍にいられる」
小さな影がフィオーレを見上げる。確かに、アレンの気配が宿っているように感じ、胸の奥の不安が、わずかにほどけた。アレンは彼女の右手を取り、ゆっくりと片膝をつく。フィオーレの白い薬指にそっと口づけると、闇色の光が集まり、宝石を宿した指輪が形を成した。
─アレンと同じ瞳色の石。
それを、静かにフィオーレの右手の薬指へとはめる。ひんやりとした感触が、やがて温もりに変わる。アレンが、顔を上げ、フィオーレに微笑む。
「三年後、僕を選んでくれるなら、その指輪の意味を、正式なものにしよう」
フィオーレは指輪を握りしめ、彼の腰にしがみつき涙を零した。
「…選ばないわけないでしょう」
「アレンと、離れたくない」
はっきりとした本音に、アレンは彼女を抱き寄せる。
「僕は、ずっとここにいる。君の帰りを待つよ」
小さな影が、ちょこんとドレスの裾を掴んだ。ようやくフィオーレは身体を離し、何度も振り返りながら結界を越える。指輪が月光の光を受け、きらりと輝いた。フィオーレは最後の一瞬まで、名残惜しそうに。
そして――彼女の姿が完全に見えなくなった城の玄関ホールに、静寂の闇が落ちる。
コツ、……コツ、……コツ。
不気味なほど規則正しい足音が、城の廊下に響き始める。先ほどまでの穏やかな空気は消え失せ、重たい闇がゆっくりと広がっていく。
アレンの口元が、ゆるやかに吊り上がる。
「フィオーレ、君は僕のものに…楽しみだ」
低く、甘く、どこか底知れない冷たい声色。長い廊下の奥へと歩き出すその背に、揺れる影が幾重にも重なった。
その時を、待ちながら。闇が静かに動き出す──
ここまでが、フィオーレ編になります。アレンが闇の帝王とは:( ;´꒳`;):ヒェッ。あれ?メルに封印された、魔王は?思うかもですが後々、明らかになると思うので次回のお話もお楽しみに!




