過去を捨てた名前
闇と生きているロゼッタ。だが、そのハリボテの生活、人形と生活することにまた、あの"癇癪"が爆発する。
新たな目覚めから、冷えた心が少しづつ満たされ、ロゼッタの癇癪も少なくなくなり始めたが───。
ロゼッタの影はすでに部屋の隅に控えている。従者として、毎朝寸分違わず主の身支度を整え、指先ひとつ乱さぬ所作で髪を梳き、ドレスの紐を締め、最後に必ず―忠誠の口付けを落とす。
今日も、変わらない口付けをまた、同じように。
ロゼッタの白い手の甲に、静かな唇が触れた。
「ねぇ……このキスは義務なの?」
ロゼッタの声は、ひどく静かだった。
しかしその奥に、冷えた刃のような棘が潜んでいる。
従者は答えない。ただ、いつものように膝をつき、頭を垂れたまま。
次の瞬間。
テーブルの上の熱い紅茶のカップが、宙を舞った。
パシャリ、と液体が従者の顔を打ち、ガシャンと磁器が床に砕け散る。赤茶の雫が銀髪のを伝い、床へとぽたり、ぽたりと落ちた。
それでも、従者は微動だにしない。
「どうせ、お前も腹の底で私を嘲笑ってるんでしょ!」
ロゼッタの胸の奥で、燻っていたものが爆ぜる。
「私は、何のためにここにいるの!人形みたいな執事や、侍女に囲まれて、満たされない、何も満たされない!そんな薄っぺらい忠誠なんていらないわ!」
ロゼッタの握りしめた拳が震え、呼吸が荒くなる。沈黙を破ったのは、従者だった。
「主様が、私をお切りになるのでしたら…」
差し出された剣の刃は、曇りなく光を映す。
「これで、首を切り落としください」
ロゼッタは一歩、たじろいだ。恐怖ではない、その“無”が、彼女の心をさらに冷やすのだ。
そのとき。後ろから、柔らかな腕が彼女を包んだ。
「ロゼッタが要らないのなら、消せばいい。壊せばいいんだよ」
甘やかな声。
振り向かずとも分かる――彼だ。
彼の掌がかざされると、赤い光が滲む。フォンと音が鳴り空気が歪み、熱を孕む。
従者へと向けられたその光に、ロゼッタは叫んだ。
「やめて!」
「どうして? ロゼッタが要らないなら、僕が始末してあげるよ」
「いい。もういい!」
彼の腕を振りほどき、ロゼッタは部屋を飛び出した。部屋に残された従者に、彼が何かを囁く。瞬時に魔法が発動し、濡れた髪も服も元通りに整う。
そして影は、主の後を追った。
◇
黒バラの庭園。
夜露を宿した花弁は、血のように艶めいている。噴水脇の白い大理石の段差に腰掛け、ロゼッタは俯いていた。水音だけが、静寂を刻む。
「主様。こちらにいらっしゃいましたか」
低く、穏やかな声。
「一人にして!」
ロゼッタの叫びは、さっきよりも弱かった。それでも従者は、静かに膝をつき、彼女の手を取る。
「私は、影であります。主様が望む感情をお与えください」
「感情…?」
「はい。主様が私に、ある物をお与えくだされば、それは義務ではなく、本当の忠誠の証となりましょう」
ロゼッタは戸惑う。
「どうすればいいの?」
「私に、名を授けてください」
名前───
それは、存在を縛り、存在を許すもの。
ただの“影”だったものに、輪郭を与えるもの。
しばしの沈黙ののち、ロゼッタの唇が動いた。
「─ヴェルディ」
その瞬間。
従者の身体が黒い霧に包まれ、黒い衣の裾が揺らぐ。
闇が彼を抱き、そして静かに収束した。ヴェルディが顔を上げると、その瞳には、初めて――熱が宿っていた。
「主様から名を授かり、ヴェルディはこの上なき幸福を感じております」
その声は、かすかに震えている。
「この名に恥じぬよう、主様に忠誠と愛を誓います」
唇が触れた。冷たいはずの口付けが、驚くほど温かい。胸の奥に、じわりと灯がともる。ロゼッタは、甘美な笑みを浮かべた。
◇
その夜。
天蓋の寝台に身を横たえるロゼッタ。遅れて彼が部屋にやって来ると、ブランケットの中へ滑り込み、背後から、私の身体を包むように抱きしめる。
「ねぇ、そう言えば、あなたには名前がないの?」
「僕に、名前?ロゼッタが好きに呼べばいいよ」
ロゼッタが振り向くと、彼と唇が重なる。甘く、溶けるような、口付けに部屋の空気が甘くなる。
「それなら、私に名を、くださらないかしら?」
彼は微笑む。
「どんな名を、君に贈ろうか」
ロゼッタは呟いた。
「アレン……」
その名が彼を形づくる。アレンは、彼女の瞳を覗き込み、耳元で囁いた。
「そなたの名は――フィオーレ」
「フィオーレ?」
「そう。美しい花には棘がある。触れれば毒が巡り、抗えず、やがて心を侵す。闇の中でこそ咲く、唯一の花─そんな意味を込めた」
フィオーレ。
甘く、危うい響き。
「気に入ったわ──」
名を与え、名を与えられ。アレンて私の存在は重なり、絡まり合う。
急に、フィオーレの瞼が微睡むと、アレンが耳元で甘く囁いた。
「おやすみ、フィオーレ。よい夢を」
私の、漆黒の髪に落とされる口付け。天蓋のカーテンが静かに下ろされ、世界は闇に包まれた。
黒バラの庭で芽吹いた名は、やがてどんな花を咲かせるのか。
それを知るのは、まだ――闇だけだった。
あと1話、ロゼッタ編で学園に戻ります。ブクマ登録ありがとうございました(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”




