第六十三話 取り戻したものと欠落したもの
開けられた扉から一歩踏み出した時、弾き出された感覚がありました。物理的なものではなく精神的な意味です。
そして私は頭を激しく揺さぶられる感覚を覚えます。
『愛している』
聴こえたのは旦那様の声です。浮かんだ光景は周囲が炎に炙られた一室に今より少し若い旦那様の姿です。
私にとってとても大切な記憶の一欠片だと思います。
浮かんだ光景はそれだけではありませんでした。
『アップルパイが良い』
マージュちゃんの甘える声です。確かせがまれて一緒に作った時の記憶です。……そうです。甘くなかった林檎を美味しく食べる為に蜂蜜を多めに使って作ったんです。
お嬢様とリッシュ君も美味しそうに食べてくれました。
これは幸せのひとときの記憶の一欠片です。
『怪我した』
剣の稽古をして怪我をしたリッシュ君のマイペースな声です。治療した時私をじぃっと見ていました。
どうして見てるのかと思っていましたが、治療魔術のやり方を見ていたのでした。
今度リッシュ君に治療魔術を教えてあげると約束しました。
……でも私が記憶を失って約束を忘れていました。
ごめんね……
『これは秘密なんだけど』
最後はお嬢様の声でした。お嬢様の秘密を教えてもらった時の記憶です。これも大切な記憶なのに忘れてしまうなんて……
起きているのに目が覚めた気分です。生まれ変わったとも表現できるかもしれません。
でも今までの自分と変わったと言うつもりはありません。
変わったのではなく取り戻したのです。
「……ありがとう」
誰かに言っているわけではないのに言葉が漏れ出します。
それから手には剣が握られています。そして覚悟はあります。
自然に足は速く動いています。
あの時と同じで恐怖に勝る高揚感が身体と心を動かす動力となり、誰にも負けたくないと思います。
速く早く疾くと心の方が動き始めている事に気づきに自身を律するようにします。
目的地にはすぐに着きました。シェーヌさんが倒れていて旦那様が傷を負っていました。
身体が熱くなる感覚がありました。それは大切な人を傷つけた純粋な怒りでした。
私は敵に向かって剣を向けて突きます。
「な、」
「貴方を赦しません」
理屈も理由も要りません。敵には容赦をしてはいけない。
私は記憶を取り戻すと同時に大切な事を欠落していることに気づいていませんでした。
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次回は水曜日の18時〜20時の更新になります。
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