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ふんっとエドガーは鼻を鳴らして続ける。
「グートルーンでは、今やこの二人の人気は相当なもの。令嬢は被災民たちの前で『私がきっと父を説得します!』……なぁんてことを高らか宣言し、以来領民からはまるで聖女か女神扱い。おまけに彼女はもうすぐ王太子を射止めそうだしな。そうなれば、きっと領都も救われると信じているものも多いのだそうだ」
青年はいかにも不満そうに語る。
おそらく彼のこの憤りは、本来なら王太子と仲睦まじかったはずのラーラを不憫に思ってのことなのだろう。女性は誰でもいいように振る舞っていても、やはり彼にとってもラーラは特別な存在らしい。
しかもとエドガーの憤懣は収まらない。
「この話は王太子にも伝わっていて、お優しい殿下は令嬢の善行にいたく感動なさったようだ。以来、支援には殿下の寄付も寄せられていて、これがまた令嬢の名声を高めた」
なあ、と、エドガーは、険しい表情で話を聞いているヘルムートに問いかける。
「思うに……この話もあって殿下の気持ちはメントライン嬢に傾いた。ラーラが気の毒だ。お前がここで何をしたいのかは知らないが……こんなところにいていいのか? 兄として、今は悲しんでいるラーラのそばに戻るべきでは?」
「……しかし……」
ヘルムートは言葉に詰まる。
もちろん彼も妹が心配だ。甘ったれたところもある妹のこと。きっと兄の助けと慰めを必要としているに違いない。
だが、と、ヘルムートはグステルを見つめる。
幼い頃に別れてから、彼女を想って何年苦しい思いをしたことか。
公爵邸は目の前というところまできて、この大事な場面で彼女のそばを離れるなどということは考えらえなかった。
ヘルムートは、彼女の父たる公爵の出方次第では、彼女に危険が迫るのではと危惧している。
もし自分がいない間に、彼女に何かあったら。そう想像すると、冷たいものが心臓をなでていくようにぞっとした。
──と、その時グステルが静かに口を開いた。
「……私はかまいませんよ」
エドガーの威圧に負けたわけではなかったが、グステルはそう言って隣のヘルムートを見上げた。
青年は少し青い顔をしている。グステルはそんな彼を安心させようとするように微笑む。
「……ステラ?」
「私なら大丈夫です。ここまで手伝ってくださっただけで、もう十分感謝しています。私なら、なんとか考えて公爵のもとへ行けます。公爵の使者が来たら、あなたは急用があってお帰りになったとでも伝えます。私が公爵夫人の手紙を預かったといえば……」
だからラーラのところへ帰ってくださいと続けようとすると、ヘルムートが悲壮な顔をした。
「いけません! そんなことができるわけありません!」
言ってヘルムートはエドガーを見て、苦い顔で強く宣言する。
「妹のことは心配だが、私は今はここを離れる気はない」
「おいヘルムート⁉︎」
「……いいかエドガー、恋愛には悲しみがつきものだが、それは結局自分でなんとかするしかない」
友に言い聞かせようとする彼自身、少年期に小さな恋に落ち、その後大きな悲しみを抱えた。
「ラーラが悲しんでいるのならば私とてつらいが……それはラーラと殿下の問題だ。兄として手助けはできるが、肝心なところは自分で動くしかない。私がラーラの苦しみを肩代わりしてやることはできないし、ラーラ自身が王太子の気持ちを勝ち得るしか方法はない」
驚いたのはエドガーだ。
まさかこの弟妹愛の強い男が、いくら恋愛に夢中になっているとしても、ラーラが悲しんでいると聞いて家に戻らないという選択をするとは思わなかった。
「何言ってんだヘルムート! この話は……グステル・メントラインが民らの前で救済を宣言したのはもう随分前のことなんだぞ⁉︎ それで領都の状況がの改善しているならいいが、現状を見ただろう⁉︎ 令嬢が本当に公爵に掛け合っているか怪しいし、しかも今その女はどこにいる⁉︎ 王都だろう⁉︎ 領地を放っておいて呑気に王都の街屋敷に行って王太子に取り入っているやつが、本当に領都のことを案じて行動しているのか⁉︎ どうせ口先だけの人気取りに決まっている! そのような小狡い手を使う女相手に、純真でか弱いラーラ一人で立ち向かえと? 気は確かか⁉︎」
憤慨して異論を唱えたエドガーは、ヘルムートの隣に座るグステルを睨んだ。それは、この女のせいでラーラが兄の庇護を受けられないとはっきり責める目である。
ハンナバルト家の兄妹は、兄は朴念仁だが妹想いで、妹は愛らしくいつも兄を慕っていた。ラーラに恋した身には妬ましいほどその仲は良く、並び立つと絵画のように美しい。
エドガーはそんな二人を、ずっと羨ましく、微笑ましく思っていた。
だからこそ、今ラーラの代わりにヘルムートの隣にいる娘のことは、そんなハンナバルト家の兄妹仲を引き裂く悪女に思えた。
──が。
彼の苛立つ視線の先で、その娘は思いがけないほど冷静な顔で、あっさりと彼の言葉に頷いた。
「それは私も同感です」
「……は?」
エドガーは戸惑って、つい勢いを失う。
ここで彼女に賛同されるとはまったく思っていなかった。
エドガーは怪訝そうにグステルを眺め、この娘はどういうつもりだと疑うような眼差しを向けるが……グステルは構わずに続けた。
「ステラ……?」
「ヘルムート様、確かにこの件は変です。──いえ、令嬢たちの思惑がどうあれ被災民への施しは事実なので、それは人気取りなどと簡単に一蹴するのはやめていただきたい、ですが……」
それで実際に助かっている人もいるのだからと言ってから。しかし、とグステルの表情は難しく沈む。
「エドガー様のご意見にも一理あります。令嬢たちの言動もそうなのですが……。事に王太子殿下が関わっておられるのに…………」
エドガーは、このグートルーンの現状を王太子も知っていると言っていた。そのことが、グステルにはとても引っかかった。
ここでグステルはまた思案顔で黙り込む。
エドガーの話から何かの違和感を感じたが、まだその正体がはっきりせずもどかしいという顔だ。
表情は次第に険しくなっていって。そんな彼女の様子にヘルムートは不安を感じる。
「ステラ? 大丈夫ですか? 何か気になることがあるのなら、私に遠慮なくおっしゃってください」
間近から声を掛けると、真剣な眼差しでどこか遠くを見ていたグステルがため息をつく。その響きは、どこか焦燥感を帯びていて、それを押さえつけているようでもある。グステルはヘルムートを見た。
「……ありがとうございます。……ともかく、今はメントライン家からの返事を待たなければ。……ヘルムート様は……」
ここでグステルはためらって、それから困ったように笑って言った。
「ヘルムート様は、一度ラーラ様のところにお帰りください」
「ステラ⁉︎」
その言葉にヘルムートは驚くが、グステルは大丈夫ですと笑う。
本当は、彼も絶対に妹が心配でたまらないはずだとグステルにだって分かっている。
「エドガー様のおっしゃる通り、ラーラ様は明らかにメントライン家の企みに巻き込まれています。そのような事情がわかった以上、お引き留めできません。一度、妹君とはお話をされるべきだと思います。きっと……したたかな私より、お兄様の助けを必要となさっているはずですよ」
そう勧めると、しかしヘルムートは固い表情で奥歯を噛み締めて、言った。
「……正直に申します。それでも、私はおそばを離れたくないのです……」
あくまでもそう言ってくれる男に、グステルは──その瞬間、途方もない愛しさを感じた。
家族の危機を知っても、それと同等か、それ以上に自分を心配してくれるとは。それが独りで生きてきた娘の胸を打たないわけがなかった。
胸の中はあたたかいものでいっぱいになって。グステルは自分の中で、“悪役令嬢”と“敵対するヒロインの兄”という固定観念がだんだん薄れていくのを感じた。
──が。
そんな心情は苦笑でなんとか誤魔化した。
グステルは、気持ちを隠して微笑んだまま、固く握られたヘルムートの手に、自分の手をそっと重ねた。
「……ご心配なら、公爵家から招きがあっても、なんとか理由をつけてお戻りを待ってから公爵家にご一緒しますから」
ね? と、グステルは言い聞かせるようにヘルムートの瞳を見る。
今や彼の大事なものは、グステルにとっても大切なものだった。ラーラのことが、ヒロインだからという理由ではなく、彼の家族として心配だ。
大丈夫だから、行ってきてくれと。安心させようとする娘の眼差しは穏やかで。彼ら兄妹に対する気遣いが満ちていた。これには頑ななヘルムートの気持ちも動かされる。
「……、……わかりました……」
ヘルムートは悩んだ挙句、渋々という表情で頷き。と、そんな友を見て、テーブルの向かい側ではエドガーが唖然としている。
自分があれだけ言っても駄目だった友が、娘の説得であっさり翻意した。それが衝撃だった。
ぽかんと口を開く友を尻目に、ヘルムートは不安そうな顔でグステルの両手を取った。
「……では、ヴィムを置いていきます。すぐに戻ります、だから絶対に危険なことはしないでください……!」
お願いですから! と、苦しげに、全力で自分のことを心配する青年を「はいはい」と大人の顔でなだめながら。グステルは……今この場にエドガーとヴィムがいてくれて、本当によかったと心底思った。
──そうでなければ。
彼女は今この瞬間にも、年長者の面の皮をかなぐり捨てて。目の前の、この可愛すぎる彼にたまらず口づけてしまっていただろう。
(あ、危なかった……)
お読みいただき有難うございます。