86 ヘルムートの悲願
父には会いたいが、他の者には自分の存在を悟られたくない。
そこでグステルは、表向きは母、メントライン公爵夫人から手紙を託されたヘルムートの付き人として実家を訪問することにした。
では、と言ったのはヴィムである。
「え?」
「ステラさんにはお召し替えしていただかないといけませんね」
これにはヘルムートがキョトンとする。
「ん? なぜだ?」
「え? だって……ステラさんのお洋服、見るからに庶民が着るものですし」
言ってヴィムはグステルを見る。
今グステルが着ているのは、すっきりとしたデザインのブラウスにロングスカート。どちらも彼女の手製で、外ではこのうえに分厚めのローブを身につけてきた。
今回は旅支度にあまり時間をかけられなかったので、その上等なローブはハンナバルト家からの貸与品。ヘルムートはくれると言ったが、グステルは丁重にそれを辞退した。
グステルは納得という顔。
「そうですね、この格好でハンナバルト家の使用人のふりはちょっと無理ですね」
実際ハンナバルト家の使用人であるヴィムも、品質の良い仕着せをヘルムートから支給されて身につけている。
「私の服は、中身とローブの格式があっていませんし、そもそも邸内ではローブは羽織りません。母の邸では田舎でしたし、はっきりと付き人と名乗って入ったわけでもありませんでしたし……」
それにとグステルは苦笑。
あの時は、正直母の家の者たちは、華やかな見た目のヘルムートとエドガーに視線を引き寄せられ、自分のことなど少しも見ていなかった。
だが、今から訪れようとしている公爵の本邸は、母の別邸の十何倍もの大きさの……いわゆる城のような規模。
人の目も多く、ここで不審に思われれば、父に会う前につまみ出されてしまうかもしれない。
「時間があれば自分で作れますが……」
布の手配や道具の用意をここでするよりも、せっかく街には専門店がいくつもあるのだから。そちらで調達したほうが早い。
今、王太子との仲で気を揉んでいるラーラのためにも、彼女たちはできるだけ早く父には会うべきだ。申し訳ないがこれは頼ってもいいだろうかと尋ねると。ヘルムートが少し驚いた顔をした。
ヘルムートとしては、本当はグステルに身につけるものを贈りたくて仕方なかったのである。
だが、これまで彼女はヘルムートが贈り物をしてもけして受け取ってくれなかった。
今回使った風除けのローブも『あとで洗濯してお返しします』としっかり返却を予告されたし、今回の旅の経費も、あとで必ず返すと言われている。
ゆえに、その辺りは若干諦めていたわけだが……。
こたび初めて服が欲しいと頼まれたヘルムートは、真顔の内側で大いに張り切った。
もちろんきっとグステルは、後で代金は払おうと考えているだろうが、そうはいかないと青年はどきどき企む。
ここでまさか、こんな幸運が転びこむとは思っていなかった。
自分が用意した服を、グステルが着てくれる。
青年は嬉しくてたまらなかったが、それでも表情を控えたのは、現在とても自分を意識してくれている彼女の前で、あまり喜びを爆発させてしまうと、また距離を取られかねないからである。
ここで喜びすぎて、『あ、やっぱり良いです……』なんてグステルに引かれては元も子もない。
ヘルムートはあくまでも平静を装い、「わかりました。ならば手配いたしましょう」と、力強く請け負った。
そして張り切ったヘルムートは、その夜の次の昼には宿にグステルへの服を届けさせた。
勝手の分からぬ街ではあったが、ヘルムートは、妹への贈答品で女性物の手配には慣れていた。その手腕はここでも少しもぶれなかった。
「……あら素敵……」
ヘルムートから届けられた箱を開けて、グステルはついそう漏らす。
箱に収められていたのは、クラシカルな藤鼠色のコートワンピース。肩のショートケープは取り外しができるデザインで、ウエストのバックには編み上げが装飾されていた。
全体的にはシンプルな印象だが、金のボタンの一つをとっても一目で品物がいいとわかる上質なものだった。
袖を通して鏡に映すと、グステルのチェリーレッドの髪が優しい藤鼠色によく映えていた。
彼女がそのままヘルムートたちの前に披露に現れると、青紫の瞳の青年はぱっと瞳を輝かせ、前へ飛び出るように「素敵です」と顔をほころばせた。
感嘆のため息をこぼす彼の表情が、あまりにも嬉しそうで……。熱心に見つめられたグステルは照れ臭くてたまらなかった。が……同時になんだかとても嬉しかった。
さて、とヘルムート。
グステルをソファにエスコートしてから、(……やっぱり照れたグステルには、すぐヴィムをそばに呼び寄せられてしまったが……)彼は今後の話をしましょうとグステルを見た。
「公爵邸には先んじて訪問の申し入れを届けております。今日中か……遅くても明日には返事が来るでしょう」
「……あの……拒絶されたりはしないでしょうか……?」
ふと、相変わらずグステルに菓子を餌付けされているヴィムが心配そうにつぶやいた。
今、公爵夫妻は不仲だ。
そんな妻からの突然の手紙を携えた自分たちを、公爵は不審に思いやしないだろうかというヴィムの言葉に。グステルの表情が少し硬くなる。が、ヘルムートは「大丈夫ですよ」と、そんな彼女に微笑んだ。
「こちらは母君の印章付きの手紙を携えていますからね。こちらの身分を考えても、計算高い人物ならば、公爵が門前払いするとは思えません。エドガーのやつもしれっとついてきていますしね」
不本意ですが、とヘルムートは苦笑。
ヘルムートの家はグステルの父と交流がないが、エドガーの家は付き合いがある。
その息子の訪問を、公爵も無下には出来ない。
無理についてきているのだから、それくらいは役に立ってもらおうとヘルムート。
……ちなみに。
現在そのしれっとしたエドガーは、ヘルムートに頼まれて公爵領内の知り合いのところへ顔を出しに行った。情報収集のためというわけである。
ヘルムートの言葉の頼もしさに、グステルはほっとした。
「よかった……ありがとうございますヘルムート様」
「いえ、当然のことです」
にこっと微笑んでくれたグステルが嬉しくて、ヘルムートも微笑み。再び彼女の姿に惚れ惚れと見惚れそうになって──。
しかしそこで、続けてグステルが不穏なことを言い出した。
「私、もし父に門前払いされたら、昔調べた実家の警備体制の記憶を掘り起こして無断侵入しなくちゃと思って、情報を思い出して書きつけていたんです。もしくは出入りの商人も、父の昔の愛人も知ってますからね。誰か脅して連れて行かせようかしらと思って、今日はその所在を調べていて……でも、その必要はなさそうですね、よかった」
「…………」
そう淑女の顔で微笑むグステルに、ヘルムートは無言。ヴィムはなぜかすごいと感嘆の声。
「ええ? さすがステラさんったら……すごいこと考えますねぇ!」
「あらほほほ……。前途有望な若者は真似しちゃダメですよ、ふふ」
「…………」
ヘルムートは、もっと万全の体制を取っておこうと心に決めた。
そうでなければ、何かグステルが大胆なことをしでかしそうで不安である……。
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