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「……しまった……」


 森の中一人残されて。脱兎の如く逃げていった娘の背を夢心地で見送ったヘルムートははっと我に返った。

 彼女に見せたいものがあってここまできたはずが、あの細い手を握っているうちに理性が薄れてしまっていたらしい。

 自分の行動を思い出し、やってしまったと思ったが、それでも彼の心身をあたためる喜びは消えなかった。

 彼にしてみれば、グステルからそれがたとえどんな意味でも、自分を『好き』という言葉をもらえたのは僥倖であった。それこそ、ここまで色々悶々と悩んでいたことがさっと晴れ渡るくらいに今は嬉しい。

 心の中が、こんなに幸せで満ちたことは今までなかった。ヘルムートは思わずつぶやく。


「……ああ、だめだ……頭の中がグステル様でいっぱいで破裂しそうだ」


 できることなら、逃げていった後ろ姿を捕まえてもう一度腕の中に収めたいところだが……。

 今そんなことをしてしまうと、せっかくグステルの中に芽生えた気持ちを彼自身が踏み荒らしてしまうかもしれない。どう考えても、今はまだ『好き』の重さも熱量も、絶対に自分のほうが大きいのだから。

 ここはあくまでも慎重に、と、ヘルムートは。胸高鳴る自分を戒めた。

 彼の想い人は、とにかくガードが硬い。

 どうやら自身では、身持ちが悪いと心配しているようだが……ヘルムートから言わせればそんなことはない。

 現状の複雑さがある程度彼女の態度を硬化させるのは仕方ないとしても。彼女はすぐに、


『私は悪役令嬢なので』

『あなたとは敵方』

『それに歳の差が』


 などといっては、すぐに気持ちを遮断しようとする。

 先ほど彼女がヴィムに言っていた『私たちはステージが違う』と言葉も、きっと彼女の言う『転生前と転生後の総合年齢的に』ということに違いない。

 しかし、これらの主張は、彼女には悪いが、まったく意味のないことだと思う。

 物語や運命、生まれ変わりについては、明らかに人知の及ばぬところ。

 それに、今彼の目の前にいる彼女が『悪役』といわれるような人物ではないのに、


「どうやったら私があなたの敵になると……?」


 ヘルムートはやれやれとため息で苦笑。宝石のような双眸の奥には、そんなことはあろうはずがないという確信が輝いている。

 それに総合年齢での歳の差はもっと関係ない。

 今、もし彼の前にその総合年齢通りの見た目で──つまり還暦を過ぎた姿のグステルが現れたとしても、別にヘルムートは構わないと思った。

 もちろん実際にそんな彼女を見れば、きっと彼はとても戸惑うだろう。

 しかし、とヘルムートは自分の胸にそっと手を当てる。高鳴ったままの振動が手のひらにも伝わってくる。

 その鼓動を感じながら、自問してみた。

 そのようなことで、今こうして感じている大きな気持ちに諦めがつくだろうか?

 たとえ彼女が年齢を重ねていても、あの意志の強そうなチョコレート色の瞳はそのままだろうし、その奥には変わらず彼女の暖かい精神があるのだろう。

 ──それならば、きっと愛しいはずだ。


「……」


 ヘルムートはほろりと微笑む。

 まったく惜しかった。

 自分は彼女の問題が解決するまでは我慢に徹するつもりだから、こちらからは何事も行動を起こすまいと自分を戒めている。すべては事が片付いてから。

 ──ただ、真っ赤な顔で『襲いますよ⁉︎』と主張してきた彼女を思い出すと、彼はふっと思ってしまうわけだ。


 ……どうせなら襲ってくれれば手っ取り早かった。


 そんなふうに考えてしまって、青年はもう一度苦笑。今度の笑みは、どこか自分を笑うような、照れのある表情だった。






 揺れるキャビンの中でグステルが苦悩を漏らすと、その青年はなぜか深々と感嘆の声を漏らした。


「はあ……ステラさんはすごいですねぇ」

「え……? な、何がですか……?」

「もし僕が女性だったら、あんなに大きなヘルムート様に襲い掛かろうなんて発想がまず生まれません。だってヘルムート様は武道もすごくおできになるので怖いですもん。以前ラーラ様に近づいた不埒者なんか、鬼みたいな顔で叩きのめされたんですよ?」

「はぁ……さすが……妹大好きなお兄様ですねぇ……」


 その時のことを思い出したのか、ヴィムは青い顔でぶるっと身を震わせる。

 グステルはその話に疲れた顔で浅くあいづちを打つ。気力のない顔は、出立前の宿場町での出来事がまだ尾をひいているのだろう。

 そんなグステルに、ヴィムはいまだ羨望の眼差し。


「そもそも僕、好きな人の目すらまともに見られないんです……」

「ああ……なるほど……甘酸っぱい……」

「告白なんてそんな……考えるだけで恥ずかしくて……多分僕には一生無理です」


 しゅんと肩を落とすヴィムに。若者との恋バナで少しだけ力を取り戻したグステルは、そんなことありませんよと腕を伸ばし、青年の肩をなでた。


「大丈夫ですよヴィムさん……その壁を乗り越えられるほどの勇気がみなぎる愛がきっと……」

「…………ちょっと……ちょっと待ってくれるかなお二人さん……?」


 顔を突き合わせ、自分そっちのけで話している二人を見て。この狭いキャビンのなかで蚊帳の外状態だったエドガーがとうとう音を上げた。


「……いや、君たち……私のことをお忘れか? 大体どうしてヴィムがこちらに乗っているんだよ……」


 そう、ここは彼の馬車の中なのだ。

 それなのに、エドガーの隣にはヴィム。ヴィムの前にグステルという不思議な配置の車内。

 休憩で立ち寄った宿場を出てから。

 二人はこうしてずっとエドガーを尻目に重苦しい調子で会話をしていて入り込める隙がない。

 そもそもヴィムはヘルムートの従者なのに、一体なんなんだとエドガーが不平を漏らすと。ヴィムは目を細めて彼を見た。明らかに、不信感がみなぎっている。


「何って、もちろんヘルムート様の命令で、どこかの誰かがステラさんに変なことをしないように見張ってるんです。ステラさんはこちらの馬車のほうが平穏でいいっておっしゃるけれど」

「へ、平穏……? 俺のそばが? この愛に満ちた俺の馬車が、あの朴念仁のヘルムートの馬車より平穏……? 胸が躍って離れがたい、とかではなく……?」


 ヴィムの言葉はどうやらエドガーのプライドに障ったらしい。目を瞠ってグステルを見ると。しかしその視線を受けたグステルは、頬を持ち上げ生温かい目。


「大丈夫ですよエドガー坊ちゃん。坊ちゃんは、とってもかっこいいですよ!」

「…………」


 大丈夫大丈夫とにこにこ励ますように頷いて見せる娘は、彼の実家の乳母とまるで同じ目をしていた。

 これにはエドガーは表情を取り繕うのも忘れて沈黙。

 早い話、この娘は自分には少しも男としての魅力を感じていないのだと分かり。別に彼はグステルをものにしようなどという考えはなかったが……これには自信家のエドガーは複雑。

 言葉を失った男を見て、密かに隣に座るヴィムが小気味良さげ。

 若者はどこか嬉しそうに水袋から茶碗に水を注ぎ、それを両手でグステルに差し出した。


「ステラさんお水をどうぞ!」

「あ、ありがとうございます。ヴィムさんもお菓子をいかが?」

「はい! いただきます!」


 満面の笑みのヴィムに、グステルもにこりと応じ。そんな二人にやや勢いを削がれたエドガーがボソリと一言。


「……君たち……いつの間にそんなに仲がよくなった……?」



 ──さて一行は、いよいよグステルの父が治める領都へたどり着く。



お読みいただきありがとうございます。

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[一言] あーあー、可哀想に
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