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188 小雨の路地


 ……そうして彼は気がつくと、一人であの路地にいた。

 先日、彼がグステルと二人きりで歩いた城下の道だ。

 通り沿いにあるツタで覆われた塀の前には一つ、いつから置いてあるのかも分からないような古いベンチがある。

 ヘルムートはそこに腰かけて、ただ、その道を眺めていた。

 どうやら夜通しここにいたらしく、身体はすっかり冷え切っていたが、ヘルムート自身はそのことには気が付いていない。

 なんの変哲もない、領民たちの生活路。夜が明けたばかりのせいか、もともと彼がグステルのために隠れ家をあまり人気のない地域で選んだせいか、行き交う者はまだない。

 静かな雨粒を全身に受けながら、彼はその往来を見つめ続けた。

 曇天からそそぐ浅い朝日にも、今の彼の目は明るさを感じられない。

 ほんの数日前、あんなに美しく見えた景色が今はひどく霞んで見える。

 恋しくてたまらないのに、その記憶はとても遠く、何かに隔たれた幻のように感じられた。

 あの時を信じたいと強く願うのに、昨晩の彼女の言動があまりに痛烈で──王太子と寄り添う姿があまりにも衝撃で。

 彼女を想うヘルムートのすべては、麻痺したように働かない。

 ただひたすらに悲しく、気力も失せて、何も感じられず、何も考えられない。

 その景色の中に、あの日の彼女の照れくさそうな笑顔を追い求めること以外は、今は何も。

 そんな自分を、ヘルムートはふと、亡霊のようだと思った。

 こんなところで、すでに去ってしまった時を恋しがることしかできない自分が情けない。

 でも、それでもこぶしに力は戻らない。

 失ったものの大きさを考えれば、それも仕方がないような気がして。彼は一瞬泣き笑いのような顔をして、しかし、その顔はすぐにやるせなく苦悩に歪む。


(……考えてはいけない……考えては……)


 彼は今、無気力の壁で自分自身をかろうじて抑え込んでいる。

 薄暗い部屋で、彼女に触れていた男のことを思い出すと怒りで身が震えた。

 彼女に幸せそうに見つめられたあの男のことを考えると、気が狂いそうなほどの嫉妬が腹の底から湧いてくる。この悋気のほむらに突き動かされて、自分が、国も家族も顧みない危険な行動に出てしまいそうで恐ろしかった。

 グステルのことを考えると、狂気に手を出すことが、いともたやすいことのような気がして。そんな自分の危うさに、怖気が走る。


 考えてはいけない。


 雨に打たれながら、ヘルムートは悲しみを胸に、ただひたすらそれを口の中で繰り返し続けた。

 



 失意の底に沈む嫡男の異変には、当然ハンナバルト家の人々は大いに戸惑いを見せた。

 誰も彼もが、ヘルムートのあんな姿を見たのは初めてのこと。あんな、絶望しきって魂を失ったような顔は。


「……あの子は……いったいどうしてしまったのでしょう……」


 ハンナバルト家の夕食の席では、ヘルムートの母が困惑のまなざしで、ぽっかりとひとつだけ空いたままの席を見つめている。

 その席の主たる彼女の息子が、彼自身の配下たちによって邸に戻されたのはつい先ほどのこと。

 配下たちが口をつぐんでいるため、夫人たちは、ヘルムートがいったいなにをしていてあのような状態となったのかはいまだに分からないが。城下で主を発見した配下たちは、彼の許しがなければ何も話せないとそれを拒み続けている。

 それは忠義者たちらしい行動だが、そうなると、両親たちには息子の異変の理由がさっぱり分からない。

 なにせ息子は帰宅してからずっと、部屋にこもり、医師の診察すら拒む。

 母はため息をこぼす。

 彼女の息子ヘルムートは、いつも穏やかで理性的な青年であった。

 責任感が強く、家族に危機があれば誰よりも前に出て守ろうとし、つねに長男として、将来ハンナバルト家を継ぐ者として、両親の期待に応えてきた。

 ときおり情け深さが災いすることや、弟妹にかまいすぎて妙な噂が立つことはあったが、それらを差し引いても、彼は夫人の自慢の息子なのである。

 そんな息子が、あんなに憔悴しきった顔は、彼が大切にする弟妹が病の時にも見たことがない。

 しかし、息子にどんな厄災が降りかかったのかを知りたくとも、寝室にとじこもった彼は沈黙を守り続けている。

 夫人はすがるような目で夫を見たが、疑問を向けられた侯爵も重苦しい顔で首を振るばかり。

 あれほど心を傾けてきたラーラや弟たちがドアをノックしても、迎える優しい声は聞こえない。

 誰しもがこの事態には不安をのぞかせる。


 しかしそんな中でただ一人、ラーラだけはその原因に思い当たるものがあった。

 兄の想い人。

 ヘルムートの異変には、きっとあの娘がかかわっているはず、と。

 しかしながら、その頭に浮かぶのはいまだイザベルなのである。

 ダイニングテーブルを沈んだ表情で囲む家族たちを見渡しながら、ラーラは密かに考える。


(もしかして……お兄様はあの娘と破局したのかしら……)


 イザベルの高慢そうな顔を思い浮かべ、ラーラはため息。

 まあ、いずれはそうなると思っていた。あの無礼な娘が相手なら、兄がひどく傷つけられているのも無理はないと。

 本当はイザベルもけして悪い娘ではないのだが……。

 とにかく彼女を兄の相手として気にいらないラーラにとっては、イザベルは悪女も同然。

 もし本当に二人が破局したのならば彼女にとっては喜ばしいことだが、あんなに深く兄を傷つけた娘はいっそう憎らしい。

 でも、どこかで兄にも『自業自得だ』と思う気持ちもある。


(家族をないがしろにして、あんな娘を選んだりするからこんな痛い目にあうのよ。これでお兄様がもとの優しいお兄様に戻ってくれればいいけど……)


 ラーラは楚々と茶を口に運ぶ。

 王太子との仲が正道通りに進まなかった弊害か、愛を励みに希望の物語を進むはずだった娘は、すっかりヒロインとしての善性と寛容さを失いつつあった。

 正ヒーローに対する失意と、恋敵に対する嫉妬。その恋敵から知らされた、母の死の秘密。加えて家族の中での疎外感と不信感といった負の感情に囚われて。彼女が本来自身の中ではぐくみ、他の者たちに分け与えるはずだった慈愛は枯渇してしまっているかのようである。

 冷たいまなざしの正ヒロインは、不満げに茶の水面を見つめる。

 彼女が納得いかないのは、兄が自分の言葉にすら応じなかったこと。

 兄が帰宅して、もちろんラーラは父たちとすぐに彼のもとへ駆けつけた。

 しかし兄は部屋の扉を固く閉ざし、彼女がどんなに声をかけても声すらも聞かせてくれなかった。 

 これにはラーラはとても落胆。

 てっきり兄がイザベルと別れても、最愛の妹たる自分が慰めればすぐに元気になると思っていた。

 だって、以前はそうだったのだ。以前の兄は何か落ちこむようなことがあっても、彼女が優しい言葉でいたわればすぐに笑顔を見せてくれた。

 それなのに。


(……どうしてなのお兄様……あんな子のことなんかさっさと忘れてしまえばいいのに……)


 歯噛みするラーラの脳裏にはイザベルの顔。いじわるそうな目で『あんたなんかには無理よ』と嘲笑われているような気がしてとても悔しくなった。

 彼女にも愛する者がいる。よく考えれば、兄の失意も理解できたはず。

 けれども兄を奪われたとイザベルに向ける敵愾心が、彼女の心をすっかり曇らせていた。


 これはまるで。

 “ラーラの物語”の崩壊の予兆のようでもある。



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