187 ヴィムの疑問と、狡猾
悲しさに焼かれ、今にもふさがれてしまいそうな喉を、なんとか押し開き、彼は、それでも、と、苦しげに言った。
「……それでも……私は……あなたを愛しています……」
それだけをいい残すだけで精いっぱいだった。
衝撃に頭は混乱し、凍り付いたように思考が働かない。
かろうじて残った冷静さが、彼女の異変に疑問を投げかけてくる。
理性はその違和感を分析せよと命じ、彼はそれらを脳裏に焼き付けようと意志の力に喰らいついていたが……。
愛する者の冷たい言葉や、別の誰か熱愛するようなまなざしを自身の中に留めおくことは、彼を余計に苦しませることとなる。
それは、魂を焼かれるような苦しさだった。
これまで過ごした二人の時間のすべてを否定されるようなその苦痛と悲しみに、ヘルムートの冷静さは次第に固く凍り付いていった。
(あれ? ヘルムート様……?)
その部屋の前で、見張りを務めていたヴィムは、暗がりから主が出てきたのを見て、小さな声で呼び掛けた。
しかし、彼とすれ違った主は、どこか呆然とした様子。ヴィムは、どうしたのだろうと思ったが、まずは訊ねる。
(ヘルムート様、ステラさんは──?)
小声で聞くと、その瞬間、ヘルムートの肩が大きく震えた。
彼はうつろな表情で後ろを振り返り、たった今出てきた扉のほうを見る。
その瞳がひどくつらそうに見えて、ヴィムは戸惑いを覚える。
とても、普通の様子には見えなかった。
もしや、主が大事にする彼女に、何かよくないことでもあったのか。ヴィムは不安を抱き、部屋の中をのぞきこんだ。
しかし、暗い室内は奥がよく見えない。
ヴィムはヘルムートに指示を仰ごうとして、視線を戻し──。
「っあれ!?」
とたん、ヴィムは思わず小さく声を上げた。が、すぐに忍んでいたことを思い出し、口を手でふさぎ、周囲を見る。幸い、王宮の廊下は静まり返り、誰の気配もない。
見張りの衛兵はヘルムートが手を回し、協力者によって連れ出されている。
けれどもヴィムは、ホッとすることはできなかった。
いつの間にか……そこにいたはずのヘルムートの姿が消えていた。
ヴィムは、え⁉ と、慌てて廊下の暗がりに主の姿を探した。──と、その時、部屋の中から聞き覚えのある声がかけられた。
「……そこにいるのは誰なの?」
「!」
一瞬ドキッとしたが、その声は、まごうことなき“グステルの声”であった。その声を聞いて、ヴィムはここでようやくホッと息を吐く。
なんだ、やっぱり彼女はそこにいたのかと。
てっきり、彼女がそこにいなくてヘルムートが落胆して部屋から出てきたのかと思った。
(……でも、ステラさんが中にいるなら……ヘルムート様はいったいどこに……?)
その疑問に彼は戸惑ったが、とにかく今は、ひとまず部屋の中からかけられた声に応じることにした。
「……僕です、ステラさん。ヴィムです。大丈夫ですか?」
あたりに注意しながら、薄く開いた扉の隙間から、静かに部屋の中にしのびこむ。と、一番奥の寝台に人の気配。
その姿によくよく目を凝らして、ヴィムはよかったと破顔。
「ステラさん!」
「……ヴィム……?」
「はい、そうです僕ですステラさん」
ヴィムは、グステルを見つけることができて嬉しくて。すぐにその傍に駆け寄った。しかし、なぜか彼女は怪訝そうに彼を見る。
まるで、誰か分からないと考えこむような沈黙に、ヴィムは首をひねる。
それでも、彼が寝台脇に置いてある灯りの届く場所まで歩いていくと、ようやくグステルがなんだという表情をした。
「……ああ、あなたなの……」
「あの、大丈夫ですか? 今、ヘルムート様が出ていかれたみたいですけど……? お会いになれました? お話は、できましたか?」
訊ねると、なぜか彼女は口をつぐみ、フッと笑う。
「──ええ、会えたわよ。話もできたわ」
目を細めた顔が少し冷たく見えて、ヴィムは不思議そうに瞳を瞬く。
ヘルムートは、彼女が心配でここに駆けつけた。きっと、無事彼女を見つけ、歓喜したはずだ。それなのに、なぜ主はあんな暗い顔でここを去ったのか。
それに、今目の前にいるグステルが、やけにゆったり構えているのも気になった。
ヘルムートがあんなにつらそうな顔で自分の前を去ったのに、彼女は寝台の上から動こうともしない。
薄く微笑してすらいて、追いかけるそぶりもない。
怪訝に思ったヴィムは、あの、と訊ねる。
「ここを、お出にはならないのですか……? ヘルムート様も、フリード様も……とても心配なさっているのですが……」
しかし、彼女はにっこりと笑い、首を振る。
「それはできないわ。だって、ここは王宮なのよ? 王妃様や王太子殿下の許可なく立ち去れる? わたくしを勝手に連れ出したら、あなたたちも罰せられるわよ? だから、あなたの主にはお帰りいただいたの」
それは、ずいぶんあっさりとした返答だった。
確かにそれはそうなのだが、なんだか違和感を感じてヴィムは黙り込む。
こんなとき、彼女なら言いそうなことは、もっと別のことだ。
主の失意の様子も、ただ彼女に脱出することを拒まれたからというだけのようには見えなかった。あれは、もっと、大きな衝撃をうけたように見えた。
ヴィムは、やはりわからなくて首をひねる。と、そんな青年の手に、グステルが手を伸ばす。
唐突に手を触れられたヴィムはキョトンとした顔をしたが、相手は姉と慕うグステル。青年は不思議そうな顔をしたが、拒むことはせず彼女の顔を見た。
「? ステラさん?」
そんな彼に、彼女はにっこり微笑んで猫なで声。
「ね、ヴィム。それよりあなた、わたくしの手助けをしてくれない?」
「え?」
「しばらくは王宮から出られそうになくて、わたくしも困っているの。ね? お願い。一度王宮から出て、夜が明けたら、わたくしの身内だと言って改めて入城を求めなさい。王太子殿下に許可を求めておくわ」
「は……い……」
その頼みに、もちろんだと頷きながらも、ヴィムはどこかで違和感を感じる。
グステルが、彼のことを“ヴィム”と呼び捨てた。
こんなことは初めてだった。
(? いつも“ヴィムさん”って呼んでくださっていたのに……)
それに何より、向けられた笑顔が、普段の彼女と少し違う気がした。
変だなとは思ったけれど、素直な彼にはその違和感のもとがなんなのかは分からなかった。
もしかしたら、彼女は具合が悪くて、いつもの調子がでないのかもしれない。
ならば、彼女の申し出の通り、しっかり彼女を守らなければ。きっと、主もそれを望むに違いないと、彼は考えて、大きく頷く。
「わかりました。おっしゃるとおりにします」