186 再会の悪意
王太子や王宮の者たちが去った暗い部屋の奥で再会を果たしたとき。彼女は、薄く微笑みながら彼を見た。
目の周りには真新しい赤い線がいくつも走る。
痛々しく肌が裂かれた痕跡に、彼はとても心を痛めたけれど。彼の悲しげな表情を見ても、その娘は笑みを絶やさない。
しかしそれは、彼を歓迎してのことではなかった。
彼女はまるで、しつこく言い寄ってくる求婚者をあしらうような顔でヘルムートをクスリと笑った。
明らかに、自分への好意は分かっているのだという含みのある表情に、ヘルムートは戸惑いを覚える。
グステルのこんな顔を見たのは初めてだった。
彼女は小首を傾げ、肩をすくめて、なんでもないことのように言い放つ。
「貴方はもう、いらないの」
笑うようなその言葉を聞いた瞬間、ヘルムートは、一瞬何を言われているのかが理解できなかった。
「グステル、様……?」
「いらない。消えて」
淡々と重ねられた言葉に、全身がたちどころに冷えて心臓が凍り付く。
彼の心はすでに、彼女と王太子の抱擁を目撃したときに驚愕に苛まれていたが──その発言は、更なる驚きで彼を切り裂いた。頭の中には数多の疑問が嵐のように吹き荒れたが、喉には岩が詰まったように声が出ない。
彼がただ青ざめて見つめると、彼女はそんな男の反応すら楽しむような表情で甘く彼をねめつける。
「こんなところまで押しかけてくるなんて、本当に仕方のないひとね。貴方にはもう少しわたくしのために働いてもらおうと思ったのに。……でも、見てしまったなら、もう駄目ね。……それとももしかして……わたくしが王太子殿下を愛していると分かっていても、これまでと同じように尽くしてくれるのかしら?」
ころころと笑う姿にヘルムートは絶句。
「…………どう、なさったの、ですか……?」
やっとそれだけをかすれる声でしぼりだすと、グステルの目が彼を見る。
その瞬間に感じた強烈な違和感。
深い大地色の瞳はいつもと同じようにぬくもりを感じさせるのに、その表情は限りなく冷たい。
「どう? どうって? もともとわたくしはあの方を愛しているの。そういう運命なのよ」
「……、……それは……“物語上で”と……いうことで、しょうか……?」
動揺もあらわに。しかしなんとか冷静さを保とうと、ヘルムートは固く拳を握りしめ、努めて静かに問う。
心臓の音が耳まで響いてくるようだった。
どうしてなのか、あれほど恋しかったグステルの言葉の続きを今は聞くのが恐ろしくてたまらない。
と、グステルは、ほんの少し苛立ったように目を細めて言った。
「そういうことではないのよ。わたくしにとって、愛とはあの方に捧げるべきもの。それだけ」
「しかし……!」
その冷たい言葉は、到底納得のできるものではなかった。
もう日をまたいだゆえ昨日のこととなるが、その日中、彼女は彼が手を繋ぎたいと請うた時も、愛の言葉をささげた時も、けして嫌な顔などしなかった。
むしろそれは、想いはきっと通じていると感じられるような温かな反応で。複雑そうにしながらも、額までうっすらと赤くなっていた表情は、今でも彼の記憶に真新しく残る。
だからこそヘルムートは、彼女の激変が信じられない。
(……、……まるで……別人を見ているようだ……)
どこかでそう呆然と思った。
しかし、どれだけ凝視しても、そのひとはやはり彼の愛しい彼女であった。
ただ違うのは、自分を見る瞳の温度。これまで彼が見つめてきた彼女は、たとえ敵のことを語る時でさえも、もっと情と温かみのある眼差しをしていた。
……それが今は──ヘルムートを、まるでその辺にころがっている石でも見るかのような目で見る。
「……どうして……」
思わず疑問を漏らす。と、彼女は面倒そうな顔でイライラと言った。
「ねぇ、あんまり煩わせないでちょうだい。もう疲れたのよ。結果的には、お前たちが“私”を王太子殿下のもとまで導いた功績があるから見逃してあげているけれど、わたくしは、公爵家の娘。お前のようなものが、こんな時間に訪ねてきて許されるような存在じゃないの」
吐き捨てられたヘルムートは、絶句した。
彼女は今、彼のことを『お前のようなもの』と呼び、限りなく軽いものとして扱ったのだ。
彼がどうしてここに駆けつけたのかなど、経緯を考えれば明白。
こんな事態に、彼女を愛するヘルムートが動かないわけがない。グステルとてそれは分かっているはずだった。
それなのに彼女は、『疲れたから』『煩わしいから』と彼を拒絶した。
この行為はともすれば、彼女と王太子が見つめ合っていた光景を目撃した時よりも彼に衝撃を与えたのかもしれない。
自分が、愛するものにとっていかに価値がないかを思い知らされたのだから。
「………………」
衝撃と混乱のあまり、ヘルムートはよろけるように一歩彼女から離れる。
何も言葉にならない。驚きも、戸惑いも、失意も。
本当に彼女はグステルなのだろうかと食い入るように見つめるが、そこにいるのはやはり彼女なのである。
長年苦しいほどに想い続け、再会後は彼女だけを追い求めた彼がそれを見間違うはずがなかった。
血の気の引いた顔で一歩後退し、言葉なく自分を凝視するヘルムートを見て、寝台上に座ったままの娘は、それを横目で笑う。
なすすべもなく立ち尽くす男が愉快でたまらなかった。
ようやく日の目をみた自分という存在が、この男を──憎きラーラ・ハンナバルトの兄を、大きく揺らがせて、今にも崩壊させる寸前というほどに愛で支配している。
眠りから目覚めた彼女は、今や彼女の代わりに物語を生きてきたグステルの記憶の多くを共有していた。
ゆえに、まったく気分がよかった。これまでの鬱屈のすべてが報われたかのような思いである。
だから、あえて弄ぶ。
「わたくしが愛しているのは、エリアス様だけ。お前は、わたくしが殿下のもとへたどり着くための都合のいい駒にすぎないわ」
その言葉が、どれだけ相手を傷つけるかも分かっている。
できるだけ“あれ”と同じ顔になるよう気も使ってやる。
こんな男など、たくさん傷つけばいいのだ。
ずっと自分を抑え込んできた忌まわしい存在を強くしていたのは、この男が原因でもある。
“あれ”を愛している男なんて、死ぬほど傷ついて、自分の中の“あれ”と一緒に消えてくれればいい。
“あれ”には、彼を傷つけるわよと脅して引き下がらせたが、成り代わったあとは傷つけないなんて約束はしていない。
……というより……もし固く誓っていたとしても、守る気などさらさらなかった。
“グステル”は微笑む。
(……だって、もともとこの男はわたくしの天敵なんだもの)
そんな価値など欠片も感じなかった。