185 肩裏の暗い微笑み
静かになった室内で、ゆっくりと開いたまぶたを見て、王太子エリアスがハッと身を乗り出した。
「ステラ……?」
寝台に横たわった彼女の顔をのぞきこむと、細く割れたまぶたのすきまから、ぼんやりとした瞳が彼を見る。青白い頬がそっと持ち上がった。
「……殿下……」
少しかすれた声は、先ほどまで彼女が、散々泣いたりわめいたりしていたせいだろう。
布団の上にある彼女の手が、包帯で幾重にも巻かれているのも、彼女が自分の目につかみかかろうとするのを止めるために侍医たちが慌てて巻いていった。
本当に、あれはなかなかの修羅場だった。
しかしエリアスは、そんな姿を見ても、何故か彼女を厭う気持ちは感じなかった。
「ああ、よかった……落ち着いたんだね?」
ぐったりとしてはいるものの、苦痛からは解放されたらしい娘の表情を見て、エリアスは心から安堵した。白い枕の上にある彼女の赤い髪をなで、頬に張り付いた髪を耳にかけてやってから、青年は侍医を呼ぶ。
そんな彼を、娘も絶えず見つめていた。
招き寄せられた侍医たちと入れ替わりでエリアスが帳の向こうへ引いていってしまっても、その視線は彼のいる方向から離れない。
診察が終わり、異常はないようだ、と、報告されると、エリアスは待ちかねたようにその傍らに戻った。
同じく報告を受けて、いったん部屋から出て、門前の騒動を見に行っていた王妃が部屋に戻っても、その息子は母に目もむけない。そんな息子の様子には、母は眉をひそめた。
もう時刻は深夜。とっくに日をまたぎ、もう数刻すれば朝である。
こんな時間に、王太子と若い娘が寝台脇で共にあったなんてことは、何はなくとも外聞が悪すぎる。
それなのに。普段は孝行者で、聞き分けのいい王太子が、母の説得にも私室へ戻ろうとしない。
「さきほどのような症状がまた現れたらと思うと、わたしは心配で彼女のそばを離れられないのです」と……。
目上の者に懇願するでも、母親の慈悲にすがろうとするでもなく、強く主張する顔には、固い固い意志があった。
この、柔和なはずの息子の思わぬ我の強さに、母は戸惑いを隠せない。
ついには彼女の方が折れて、「では、あと四半時(※三十分)だけ」「絶対に二人きりにならないように、使用人を大勢同席させ、扉は開けておくこと」と、条件付きでしぶしぶ引き下がる事態となった。
それも、「娘も疲れてしまう、静かに休ませてやらねば」と、説得されて、やっとのことなのである。
片時も離れたくないというような二人を見て、居合わせた者たちはみな誰しもが困惑の表情。
王妃が心配そうに退出していったあとも、エリアスは横たわった娘の世話を甲斐甲斐しく焼いた。
使用人たちが彼女の世話をしようと道具を持っていくも、彼にそれをうばわれてしまうのである。
当然みな途方に暮れた目をしたが、寝台のうえの娘はそれを悠然と受け止める。
その姿は、まるでどこかの王女か令嬢のよう。しかし、その娘の身なりはどう見ても、町民の服なのである。
……いや、王太子の行動は分からないでもない。
彼は生来心根が優しく、国民たちにも気さくだ。
しかし、娘のほうがそれを当然と受け止めるのは違うのではないか……。
一国の王太子に奉仕させておいて、よくて中流階級という身なりの娘が平然としている姿は、なんとも異様。
この光景には、皆、顔を見合わせるのだが……。
当のエリアスはというと、そんなことはカケラも気にしている様子はない。
「また気分が悪くなったらすぐに言うんだよ? 遠慮せずになんでも言って」
娘の顔の傷を改めて手当している彼の声は、これ以上ないくらいに甘い。
王太子手ずから手当をされる娘は本当に嬉しそうだった。
「ありがとうございます殿下。……でも、そんなに心配なさらないで。わたくしならもう大丈夫です」
しおらしく微笑む姿に、エリアスはクスリと笑い「わたしがやりたいんだよ」と頬を持ち上げる。
傷の手当が終わると彼は、寝台に半身を起こした娘の傍らに座り、少し訊ねづらそうに彼女の顔をのぞきこむ。
「あの……話してくれないかな? 君は何かの病なの? どうしてこんな……」
すると娘は布団の上で首を振る。
「──申し訳ありません、わたくしにも分からないのです……。病なんて……これまではほとんどかかったことはありませんでした。どうして突然目が開かなくなったのか……」
「……そうなの……?」
王太子は、渦中のときの彼女の言動を思い出し、少し怪訝そうな顔をした。顔を掻きむしる彼女は、誰かに激しく怒っているようだった。
あれは、いったいなんだったのだろう──?
けれども彼が首をひねっていると、それを見た娘がほろほろと涙をこぼしはじめた。
「申し訳ありません、殿下にこんなご迷惑を……」
「あ……」
悲しげに眉尻を下げる顔は青白く、心細そうで。
身を震わせてすすり泣く姿を見たエリアスは、慌てて彼女を慰める。
「いいんだよ、泣かないで! 目の傷に障ってしまう……!」
エリアスはサイドテーブルにあった清潔な布で、彼女の涙をぬぐいながらその背をさする。
いろいろと不可解なことは多かったが、きっと彼女も混乱していたのだろうと彼は納得することにした。
と、その時、彼の背後から、侍従の低めた声が。
「……殿下、そろそろお時間です。お戻りになりませんと、王妃様が……」
「いや、私はまだ──」
エリアスは、侍従の言葉に眉間にしわをよせて拒絶を見せる、が。それを、寝台上の娘がやんわり止めた。
「殿下、どうかもうお戻りになって……? わたくしなら平気ですから……。王妃様も心配なさっていらっしゃると思います……」
「でも……君を放っておけないよ……」
娘のかすれるような殊勝な言葉に、エリアスは今生の別れかのような悲痛な顔をした。
たまらず布団の上に重ねられていた娘の手に彼が手を重ねると、娘は寂しそうな顔で二人の手を見下ろして。そして再び王太子を見上げる。
わずかに傾けた顔で上目遣いに男を見つめる表情は、まるで何かをねだるように甘ったるい。しかし、その唇から出てくるのは、やはり誠実な言葉だけ。
「どうか行ってください……ご多忙の殿下を煩わせてしまったことで、わたくしの胸はひどく痛んでおります……。こうしてお目に掛かれただけでも、わたくしはこの上なく幸せで……たとえ……」
と言って、娘は言葉をつまらせ目を伏せる。
「たとえ……もう二度と、お会いできなくても……」
「っ何を言っているの!」
悲しげに伏せられた瞳から、涙がほろりと頬にすべり落ちた瞬間。エリアスは胸を突かれ、たまらず彼女を抱き寄せた。うつむいたチェリーレッドの頭を、あごの下に迎え入れて、固く誓うように肩を抱く。
「母上になんと言われようと、私は必ずまた君に会いに来るから……!」
「……、……本当でございますか……?」
「もちろん!」
断言すると、彼の腕のなかで顔を上げた娘が嬉しそうにはにかむ。その幸せそうな表情を見た王太子は、ふと、心が大きなもので満たされるのを感じて身震いした。
──ここ最近、なぜかずっと彼を苛んでいた不安が……世界のすべてが間違っていて、その違和感に自分一人だけが気がついているような、途方もない孤独感が。
今、彼女の笑顔を見た瞬間に、確かにやわらいでいた。
その、鮮烈な手ごたえに、王太子はすっかり囚われる。
(……もしかして……これが……愛なのか──?)
その予感に歓喜したエリアスは、改めて腕の中の娘をしっかりとかき抱く。
──もう、絶対に、彼女を離してはならない。
そう、固く感じた青年は、この世のたった一つの幸福を手にしたように恍惚として、腕の中のぬくもりの虜となった。
……その幸せそうな肩のうえで。
抱きしめられた娘の口もとが、ゆっくりと弧を描く。
細められた伏目がちの瞳にかすかにのぞくのは、愛というよりは……誰かに対する勝利の愉悦のようにも見えた。
けれども、そのどこかうすら寒い表情に、気がつく者は誰もいない。
まわりの者たちは皆静まり返り、それぞれ戸惑いつつ、君主の息子が見せる、これまでにない情熱的な姿に見入ってしまっていた。
……ゆえに、彼らは気づかない。
王太子の腕の中の、娘さえも。
実はこの時、彼ら以外にもこの光景を目の当たりにしたものがあった。
しかしその男の誰よりも激しい驚愕は、部屋の中で繰り広げられている幸福の場面、その空気、人々の困惑にまぎれて誰にも気がつかれることはなかった……。