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184 悪意の令嬢

 

 身体は泥のように重い。


 身体の感覚は、相変わらず。

 今は令嬢が興奮しているせいか、目元だけの感覚だけがグステルのもので、あとは少しも自由が利かない。

 ほかにも所々、まだらのように動かせそうな場所もあるが……手足や胴体といった大きな制御はまだ“彼女”に握られたままだった。


 耳には始終彼女自身の金切り声が襲い掛かってくる。

 時折、悲し気に誰かに助けを求めるすすり泣きが聞こえる。その甘ったるさにはめまいがした。

 それをなだめている優しい声が誰のものかは、考えるまでもない。

 彼の声に慰められるたび“彼女”は、今グステルと共有している身体の中に、愛しさを悶々と募らせていく。グステルは、その熱気に押しつぶされそうになっていた。

 グステルの妨害で王太子の顔が見えないことが余計に“彼女”の想いを募らせているのかもしれない。

 この閉じ込められたような閉塞感に、グステルは、ふと……今にも気が狂いそうだと思った。

 冷静でいようという意識を手放したとたん、簡単に奈落の底に落ちてしまいそうな感覚にゾッとした。


 けれども、グステルは固く決意している。

 暗闇の中に自分を圧縮しつくして、ごみくずのように消してしまおうとする彼女には屈しない。


(ぜっっっ……ったいに! 目を開けてやるもんか!)


 自分の外側は、どうやらものすごい騒動だ。

 時折怒り狂った指先が、グステルの目をこじ開けようとしてくる。

 その乱暴さは、まるでこの身が、彼女にとっても大切な依り代なのだと忘れているかのよう。

 上下のまぶたの薄い皮膚に、憤怒の爪を立てられると、今にも目をえぐり取られるのではないかという恐怖があった。

 おそらく、そこに止めてくれる王太子がいなければ、グステルの顔は血塗れになっていただろう。

 ただ、いくつかのひっかき傷はつけられてしまったようで、目周りにはヒリヒリと焼けるような痛み。

 それでもグステルは意地でもまぶたを割らなかった。もはや、やけっぱち。

 こんなとき、怯えてしまったらお終いだ。


(……大声を出せばいいと思ったら大間違いよ……私は、絶対に屈してやらない)


 不幸中の幸いか。この怒りがグステルにかろうじて自我を保たせさせた。

 窮鼠猫を噛む。

 グステルは追い詰められたネズミが如く、不安と恐怖にさらされ続けたすえ、我が身の隅っこで景気よくぶち切れている。


(っそりゃあ物語上で言えばこの身体はあなたものかもしれないけれど、生まれてこのかた今日この日までこの身を守ってきたのは私なわけで、所有権は私にだってありますでしょう⁉ それをいきなり出てきて、『王太子と出会えたから、もうお前下がってろ』……って⁉ ちょっと横暴すぎやしませんか⁉)


 誰が承服するか! ……と、心の中で大きく主張する。

 現実世界で身体が自由にならないのなら、精神世界で大いにわめきたててやるしかない。


 ……と、精神の闇に、怒気の塊が降臨。

 若い恋に溺れ、憎悪に燃えあがった火の玉のような双眸がグステルを貫こうとしていた。


(お黙り偽物! 私と殿下の再会を邪魔しようなんて……なんて女! 目障りよ! さっさと消えなさい!)


 荒々しいかんしゃくをぶつけてくる顔は、もちろんグステルと同じ。

 口調はなぜかずっと上から。まるで自分の命令は何にも阻まれてはならないと、そうなるはずがないと確信しているかのようだった。

 なるほど、彼女は確かに“悪役令嬢”と呼ばれるにふさわしい。

 あのイザベルですら、高慢でも聞く耳は持っている。あの子は一度は人の意見をつっぱねもするが、それは反射的なもので、彼女は相手の言葉をあとからきちんと考えてくれる。


 でも、この“彼女”はどうやら違う。

 他者の意見などないも同然。聞くに値しないと構える態度は、王太子に対する執念がゆえというだけではなさそうだった。

 わがままで、取りつく島もない。そんな凝り固まった人品が、冷淡な表情によく現れていた。


 彼女が悪役令嬢としての運命を背負っていることは百も承知。でも、この対面は、グステルにはいささかショックだった。

 予期していたとはいえ、その我がものとはとても思えぬ傲慢な顔には失望する。


 ──自分のなかに、こんな人格がずっとひそんでいたのか。

 ──自分の、こんな──あまりにも幼い、邪悪な顔を見る日が来ようとは……。


 恋の恐ろしさを、まざまざと見せつけられている気分だった。


(………………)


 グステルは、大きく、擦り切れるような息を吸った。……多分、自分の言葉は、今、恋情に目がくらんだ“彼女”には届かぬとは思いつつ、言わずにはいられない。


(……そんな恐ろしい顔をする人間を、誰が愛するの……?)


 令嬢の幼稚さを目の当たりにして、とてもではないが敬語はでてこない。

 幼子に問いかけるように静かに声をかけるやいなや、やはり受け止めるような間もなく反発が跳ね返ってくる。


(お黙り! 生意気な!)


 憎しみのこもった目に、ああ、とグステル。

 鏡を見せてやりたいと思った。その何者の愛をも遠ざけてしましそうな、増悪に歪んだ顔を。

 なんなら、同じ顔をした自分もその恐ろしい表情をして、“彼女”にも見せつけてやろうか。

 自分にも、“彼女”と同じく、強い気持ちを奮い立たせるような大切なひとがいる。

 この恐ろしい形相を見せてやれば、自分がいかに恋に狂って醜い顔をしているか、少しは彼女にも分かるかもしれない。


 ──けれども。

 グステルは、その方法をすぐに諦めるしかなかった。無理なのだ。

 同じ顔を持つはずなのに、同じくこよなく愛する者がいるはずなのに。

 グステルには、彼女に怒りは向けられても、憎悪は向けられない。

 総合年齢還暦過ぎの自分が、本気の憎悪を向けるには彼女が青すぎるということもあっただろう。

 でも一番は、王太子に焦がれる“彼女”に対抗しようとヘルムートのことを考えると、ダメなのだ。


 ──なんの変哲もない街角で、当たり前のことのような顔で『愛しています』と、微笑んでくれた彼の顔を思い出すと。

 あの優しさと熱が不思議に共存した青紫の瞳がまぶたの裏に浮かぶと。

 怒りなんか、あっけなく千々に散り、空気に溶けてしまう。

 目の前で怒りの炎を上げる存在すら、どうでもよくなってしまいそうなほど、気持ちが彼に向かっていって。ただひたすらに、彼に会いたくなってしまった。

 彼からそそがれ続けていた清々しい愛情は、グステルを勇敢にはしても、怒りには留めおかない。

 ただ、彼のもとへ帰りたいと痛いほどに、泣きたいほどに心臓を締め付けるだけだった。


 グステルはその想いが、今唯一我がものとする瞳にせり上がったのを感じた。

 ああ、と、ため息が熱く擦り切れる。


(私……ヘルムート様が大好きだわ……とてもとても大好きなんだわ……)


 胸がいっぱいだった。涙が固く閉じたまぶたの隙間をすべり出ていき、“彼女”に掻きむしられて出来た傷に鈍くしみた。


 帰りたい。

 帰りたい。帰りたい、彼のところへ。


 なぜ自分は、あの時、私もだと返さなかったのか。

 私も、あなたに負けないくらい、あなたを大切に想っていると。

 ためらっていないで、そう言えばよかった。


 しかしその瞬間、容赦のない嘲笑が響く。


(お前は言えないの! なぜならば、あの男はこの私の運命の人ではないから! 敵だから!)


 ざまはないと笑う声が、思いがけずグステルの胸をえぐった。

 その思いは、出会った頃の自分の戸惑いと重なった。

 そう、確かに彼女自身も、ヘルムートをそう警戒していたことがあった。


(敵──) 


 グステルは、でも、と口を開く。絶対に敵などではないと反論しようとするが──しかし“彼女”はグステルの主張には耳を貸そうとしなかった。

 ただ、捕食者の顔でグステルに突きつける。


(──お前、忘れていない? 私は今、お前なのよ?)


 その悦に入った言葉に。グステルは、この精神世界で全身に怖気が走るのを感じた。楽しそうな顔から、見開いた目が離せない。


(な──)

(目を押さえているからって、いい気にならないで? 今、私たちの身体のほとんどは私のものなのよ? お前が私に王太子殿下のお顔を見せないというのなら、私にも考えがあるわ……)


 令嬢は、どうしてやろうかしら、と、もったいぶった口調で言う。その言葉の間のひとつひとつにも、悪意が潜んでいるようだった。


(……何を……)

(そうねぇ……その男を、お前のふりをして手ひどく傷つけてやろうかしら?)


 小首を傾けて言われた言葉に、グステルは、その瞬間ガツンと頭を殴られたような衝撃を受ける。

 

(な──……なん、て……?)


 絶句をなんとか割って出した声は、あまりにも弱々しい。

 そんなグステルの反応を“彼女”は嬉しそうに見て、今度は反対側に首を傾ける。(あら)と、頬に手を添え。どのしぐさも、グステルをいたぶらんとする意識がありありと見え、ひどく芝居がかっている。


(聞こえなかったの? 下賤の者は耳も悪いのかしら? 仕方ないからもう一度いってあげる。あの憎き女の兄を、私がお前のふりをして散々振り回して、貢がせるだけ貢がせて、利用しつくしたあと、王太子殿下との仲睦まじい姿を見せつけてやるの。──ね? きっと──あの男は失意に暮れるわね? あれだけお前に執着しているんだもの。命を絶ってしまうかもしれないわ、ね?)

(っやめて!)


 その残忍な言葉に、グステルはたまらず悲鳴のような声をあげていた。

 それがあまりにも思いがけない発言で──グステルでは、到底思いつかないような、考えつかないような吐き気がするような提案で。

 グステルは呆然とうろたえた。

 そんなことをされては、ヘルムートがどんなに傷つくか分からない。


 しかしグステルの様子に手ごたえを感じたらしい“彼女”は、冷酷に笑いながら追い打ちをかけてくる。


(分かる? 私は殿下を手に入れるためならなんでもするわ。お前が大人しく消えなければ、私は容赦なくあの男を傷つけてやる。あの男も、あの男が大切にするものもすべて。もちろん、お前が愛する者たちも全員、何がなんでもズタズタにしてやるわ。……お前の顔でね)


 ──……絶句である。


 それは、明確な脅しであった。明確に、グステルを仕留めようとする、乱暴で無情な、脅し。

 グステルは一気に目の前が真っ暗になった。

 これが、令嬢による攻撃なのだとは分かっていても。つい思い浮かべてしまう。自分の言動によって苦しむ家族や、ヘルムートの姿を。それは、想像の中だけでも耐えがたい光景。

 どこかで、冷静になれ、“彼女”に弱みを見せてはならないという警鐘は聞こえた、が、それでもこの動揺は、グステルの強固な精神に大きなひびを入れてしまう。


 あまりにも、その人たちが大事だった。


(──……っ)


 グステルが、苦しみに喘ぐ。


 その瞬間を、“彼女”はけして見逃さない。

 どこまでも暗い精神世界に、勝ち誇った甲高い笑い声が、うるさいほどに響き渡っていた……。




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