181 愛の前に、と、言い切る男
目の前の娘の苦しそうな表情に、王太子は途方に暮れていた。
侍医や看護人らに囲まれた寝台の上に横たわる娘。その固く閉じられた瞳からは、とめどない涙があふれ出ている。唇からは、彼を呼ぶ声が悲痛に吐き出され続けていた。
寝台の上の身体は、彼が彼女にすがられている右手以外は、王宮の侍女たちが手足を困惑気味に押さえつけていた。
そうしていなければ、彼女が暴れ、自分の瞳を狂ったように搔きむしろうとするからだ。
彼らはまったく混乱していた。
ついさきほどまで、彼女はエリアスとの再会を、とても喜んでいるようだった。
それは、恍惚とした表情や、身の寄せ方で分かった。
しかしそのさなかで、彼女はなぜかエリアスの腕の中で固く目を閉じて、そのままけして瞳を開こうとしない。
いったいどうしたのかと彼は戸惑うが、事態は彼が想像もしないような不可解な状況へと陥った。
彼女は意識はずっとあるらしい。それなのに、その目は貝のように固く閉じて、そして彼女は苦しそうに暴れるのだ。
「なにするの⁉ 目を開けなさい! 邪魔する気なの⁉」
そう激昂し、自分の顔につかみかかり、無理やり瞳をこじ開けようとする姿には皆が驚いた。
そうして彼がそれを慌てて止めると、彼女は泣くのだ。
「殿下! 殿下‼ 助けてください! せっかくお会いできたのに!」
「ああ……君、どうか落ち着いて……」
寝台の上でむせび泣く娘を前に、エリアスはその手を握りることしかできない。
侍医たちも集まって手を尽くしてはいるが、彼女の興奮は一向に収まらず、そしてその瞳もずっと閉じられたままだった。
これには皆困惑するばかりである。
「……陛下、」
寝台から少し離れた場所で、難しい顔をして場を見守っていた王妃に、侍医の一人が声をかける。
「……どうなの? 何かの病なの?」
「分かりませぬ。ひとまず落ち着いていただかねばどうにも……さきほど鎮静薬をお飲みいただきましたので、じき落ち着かれるかと……」
「そう……しかし困ったわね……」
王太子と恋仲と噂の娘と話をつけるだけのつもりが、このような事態は王妃もまったく想定外である。
と、そこへ王妃の騎士がやってきた。
「陛下、」
「ああ戻ったのね。……門前は?」
「それが……」
王妃が声をかける前から、すでに騎士はゲッソリとした顔をしていた。
「……き、さま、ら……! 俺様を、誰だと思っている‼」
お決まりのセリフを、王宮正門前で吼える男がいる。
その獅子のような大男の、腹から抉り出したような咆哮には、まわりの者たち皆、恐怖に身をすくませた。その怒号は、音とその衝撃波だけでまわりのすべてを吹き散らしそうなほどに強烈。
……これに付き合わされる門番は本当にお気の毒──……いや、まあ、それどころではない。
お分かりだろうが、その獅子のような大男は、フリード。
現在、愛しの妹を王宮に連行されてしまった彼は、猛烈に、怒り狂っている。
目は爛々と自分の行く手を阻む兵士らを睨み、興奮した闘牛のような気迫で今にも腕力に訴える気満々という形相。
この唐突なる鬼神の襲来に、王宮正門前は騒然。
怒れるフリード・アルバン・メントラインの背後には、公爵家の私兵らしきものたちの姿も見える。
門番たちは──皆、とてもとても泣きたくなった。
王城の民に開かれた正門と言えば、平穏な時代の現在、平時は上等な馬車に乗った貴族たちが気取った顔で粛々と通り過ぎていくか、緊張や物珍し気な表情をうかべた庶民たちがおそるおそる通り過ぎていくだけの場所である。
もちろん不審人物を城内に侵入させないために検問はある、が……現在は深夜。
そもそも城門は閉じられ、国王らの許可がなければ、いかなる者もここを通ることは許されていない時刻なのである。
当然門番らは、この鬼神の怒号に屈すわけにはいかない。
なんといっても、ここは王城。国王陛下のおわす場所なのだから。
「フリード卿……! ど、どうか……どうか落ち着いてください!」
「こ、ここは王城ですよ⁉ 夜間の開門はどなたであっても……」
出来かねますと、言いかけた男の言葉を、しかしフリードは無情に撥ねつける。
「黙れ!」
「「ひっ⁉」」
門番たちを威圧しておいて、男は堂々上から言った。
「我が愛の前に! 王城もくそもあるか‼」
なんという……話の通じなさ。
まったくもって……無茶苦茶な……あまりにも高慢なその主張。
いや、知らんがな……と、門番らが思ったかどうかは分からないが。
ともかく、本当にもう、門番たちはあまりの胃の痛さに泣くしかない。