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179 運命の接近

 

 息子の想い人とおぼしき娘を前に、王妃は非常に頭を悩ませていた。


 王太子がどのような娘に惑わされているのかと心配したが、どうやら娘にその気はない。

 それどころか、すれ違うようにして出会った王太子が、まさか自分に気持ちをよせているなどということには、思い当たってすらいないらしい。

 相手に悪意がないのなら、幸い。

 しかし、もし本当に王太子が彼女に熱を上げているというならば、話はここだけでは片付かない。


(この娘がもし、不埒な人間であったなら、王太子から離れるように命じればすむ話であったのだが……)


 そうでないとなると、王太子の気持ち次第では、この娘は王太子妃候補ということにもなりかねない。

 ここ最近の、息子の思い悩むようすが頭にある王妃は、その可能性を考えざるをえないのである。

 この娘を追い求める息子が、彼女に大きく心をかき乱されていることは確かなのだから。


(やれ……面倒なことになった……)


 ただでさえ慎重に選ばれるのが将来の国母。

 これまでは、その多くは貴族の娘が選ばれてきた。しかし、民間から選出された例もないわけではない。

 ただ──その場合、もちろん相手の娘の素性調査が必須。これは徹底的に調べ上げる必要がある。

 さらには大臣たちを納得させることも必要で、これがまた……なんとも厄介で、相当に難しい。

 皆、王家に血縁の娘を嫁がせようと虎視眈々と画策しているものたちばかりである。

 特に、すでに候補ともくされていた娘たちの一族は大きく反発するはず。

 候補となっている宰相家もハンナバルト家も古い家柄で人脈も広く、反発されると厄介。しかし、もっとも煩わしいのはメントライン家。

 公爵家というだけあって、王家との縁も深く、その財力も王家に立ち並ぶほど。最近表舞台に積極的に出てくる公爵の妹は小物だが、公爵夫妻はかなりの野心家。最近は夫婦仲に問題があるらしく、社交界ではめっきり見かけないが……それでもきっと、長らく行方不明であった愛娘の婚姻が、よりにもよって庶民の娘に奪われそうだとなれば、夫婦そろって激怒し、抵抗してくるはず。

 公爵夫妻の我の強い顔を思い出した王妃は非常にうんざりした。

 よほどの名目がなければ、これらを納得させるのはかなり困難である。


(……また、太子の婚姻が遠いてしまった……)


 早く息子に身を固めてほしい王妃は内心で落胆。これでは諸々が一から仕切り直しである。


(いえ……それよりも、まず太子に、誠に彼女を好いているのか、そして妃にするつもりがあるのかを確かめなければ……)


 仕切り直すにせよ、なんといってもまずはそこである。そのうえで、この娘にも改めてそれに応じるつもりがあるのかを問わなければならない。

 王妃は気持ちを立て直すように息を吐く。


 何はともあれ、さしあたって彼女は、緊急的に連行してきたこの娘を家に帰さねばならなかった。

 相手がすでに王太子と恋仲であれば、王家の事情を考えても、彼女の身の安全も踏まえても、すぐに開放することはできないが。どうやらそうではない。

 いくらなんでも、王太子に一方的に気持ちを寄せられているだけの娘を、王宮に無理に留め置くのは行き過ぎている。


 更にため息を吐いた王妃は、部屋の中央で静かに己の次の言葉を待っている娘を改めて眺めた。

 彼女の無言の長考の間にも、室内の重い空気に取り乱すこともなく、凛とした姿勢のままの娘。じっと待つ姿には、強い胆力が感じられた。見れば見るほどに、不思議に頼もしい娘である。

 ひとまず、この娘のわきまえたようすならば、家に帰しても面倒ごとは起こすまい。


(むしろ面倒を起こしそうなのは、王国側の者たち(われわれ)ね……)


 この娘との再会を願う息子や、王太子妃の座を狙う貴族や令嬢たち。その動きをしっかり警戒しておかなければ、この娘がなんらかの被害をこうむる可能性や、誰かに利用される可能性もある。

 自分の息子は善良な性質だと信じてはいるが……こと痴情において、人は判断を誤りやすい。

 王家の騒動に、何の落ち度もない国民をまきこむのは、王妃としても気が引けた。


(やれやれ……我が子のことながら……利権のしがらみは本当にいとわしい……)


 娘に哀れみをこめた視線を向けて、ふと王妃は、おや? と、あることに気がついた。

 己をじっと待つ娘のひたいに、きらきらと光の粒がいくつも輝いていた。

 それは室内の灯りを受けて光る、玉のような汗。怪訝に思ってよくよく見ると、その顔色も、いつの間にか青白く変貌している。


「? いかがした……? そなた、ずいぶん具合が悪そ──」


 うだ、と、王妃がグステルに声をかけようとしたとき。

 その娘の背後に立っていた中年の騎士が、何かに気がついたように眉間にさっとしわをよせた。素早く後ろを振り返った騎士の警戒に気づき、王妃もハッとしてそちらを見る。

 男が視線を走らせたのは、部屋の扉の、その向こう。

 廊下から、なにやら慌ただしい足音が近づいていた。言い争うような声も聞こえ、王妃がイスから腰を浮かせると、同時に部屋の入口が開け放たれて。そこから、幾人かの男たちがなだれ込んできた。

 騎士の身なりのその男たちは、押し入るようにやってきて。とっさに止めようと出た王妃の騎士に、身体をぶつけるようにしてその動きをさえぎった。


「お前たち……!」


 王妃の騎士は、自分を制圧しようとする男二人を睨んだが──その者らの後ろから、慌ただしくやってきた誰かを見て、ハッと王妃を振り返った。



 ──このときグステルは、立ち尽くしていた。


 最初は気のせいかと思って耐えていた。

 しかし、王妃の会話の中盤あたりから、何故か言い知れぬ不安に駆られ、それがしだいに強くなる。

 何かを予感するように、足元から恐れの感情がはい上がり、それは背筋を登り、首筋を冷たくなでた。

 このうすら寒い感覚はひどくなるばかりで。今ではもう、頭が割れるように痛かった。その痛みは顔面にも広がっていき、顔の片側がこわばり痺れている。心臓は大きく脈打って、気分も徐々に悪化。強い吐き気をこらえ、グステルはしびれている側の口内を噛み締める。


(……気持ち悪い……誰かがわたしの心をめちゃくちゃにかき混ぜているみたい……)


 こんな感覚を、彼女に与える存在には、グステルは一人しか思い当たらない。


(──“グステル”……?)


 苦痛と疑問に胸を押さえた瞬間。その存在を思い浮かべたのが悪かったのか……胸の奥から大きくせり上がってくるようなものを感じてグステルは思わず呻く。


「……っ!」


 ここで倒れるわけにはいかないと耐えていたものが、いよいよ耐え難くなくなってきて。グステルは、顔をしかめて身を折った。

 ──と、その瞬間、そんな彼女の耳に、遠く王妃の声が聞こえ、騎士の怒号が聞こえた。

 いつの間にか周りが騒がしいことに、グステルはここでやっと気がつき、苦しくあえぎながら、喧騒のほうへ目をやった。

 そこに飛び込んできた、金の色。


「──母上!」


 声高に責めるような口調の誰かの声に、グステルが目を瞠り、“彼女”の心が躍った。胸の奥で跳ね上がるように高揚した気持ちは、今にもグステルの精神を突き破っていかんばかり。その苦しみのかたわらで、グステルは、ぁあ……と、悟る。


 ──運命の接近に、“彼女”が反応していたのか……。


 グステルは苦痛に顔をゆがめ、思わず後退る。なんとか耐えなければという焦燥感に身が力むと、とたん口の中に生々しい血の味が広がった。強く噛み締めた歯が、口の中を傷つけたらしい。だが、その瞬間に、青年が、彼女を見た。

 金の髪の隙間から見える焦ったような瞳と目が合った瞬間、グステルは、身のうちから、突き崩されるような衝撃を受けた。


 ──なんて、情熱的な目だろう。


 以前彼を見たときは、もっと清廉な印象であったが、今、母親に向けて怒りをにじませている青年の顔にははっきりとした熱があった。自分を見た瞬間に、それは一層鮮明になって、グステルは……ここではじめて、王太子の中に自分に向ける気持ちがあることに気がついた。

 唖然とする一方、彼女の奥底では、歓喜する誰かの気持ちが炎のように燃え上がって。グステルは、絶望的なほどに恐怖した。

 この相反する感情の激流は、内から彼女をなぶり、混迷した心はもはやカオスであった。


(……っ駄目! しっかり、しろ……!)


 かろうじて残る理性が自分を叱咤する。だが、耐えようとする彼女と、その想い人に駆け寄ろうとする誰かの思考がせめぎ合って、震える足がもつれてしまう。

 あっと思ったときには、彼女の身体がよろめていた。

 翻る景色の中で、自分を見て大きく目を見開いた青年を、グステルは呆然と見つめ──そして気がついたとき。

 彼女は、彼女自身がこの世で一番会いたくはないとずっと願ってきた青年の腕の中に、いた。




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