158 隠ぺい
だがエルシャはすぐにハッとしてグステルを指差す。
「ほ、ほらご覧になったでしょう⁉ やっぱりあの女がバレッタを盗ったのです!」
「な、なんてこと……なんて太々しい……王国兵よ! 王国兵を呼びなさい!」
叔母の金切り声に、その場にいた執事が慌てて部屋を出て行こうとするが。グステルは、素早く彼に声をかける。
「──行ってもいいですが、グリゼルダ様たちに恥をかかせますよ」
「!」
冷静な声に、執事は思わず足を止める。彼がグステルを怪訝に見ると、彼女は横目で応じた。使用人階級の服を着る者同士、視線の境に小さな火花が散るが、ここは落ち着き払ったグステルが優勢。
「わたくしは、本邸の公爵夫人のご命令でフリード様に従っているのです。このバレッタの“本当の価値”を公爵夫人から直々に教えられたわたくしが、このお品を盗むなどありえません」
“本邸の公爵夫人”とはグステルの母のこと。彼女は母から直接それを受け継ぎ、由来もしっかり教育された。
もちろん執事はその真意には気が付かないだろうが、夫人の存在をちらつかせると、やはり執事はとまどいを見せる。
叔母が、我が物顔で振舞うこの街邸の使用人たちは、みな新参者で公爵夫妻とは会ったこともないが。さすがにその二人の女性が相対すれば、どちらに立場的な軍配が上がるかということくらいはわかっているのだろう。
足を止めた執事も、彼に命じたグリゼルダも躊躇して。騒ぐのはその権威を理解していない娘だけとなった。
「っ本邸のメイドがなんだっていうの………? 公爵夫人は私のお母様。私から何かを取り上げたりなさらないわ! ね、そうですよね、お兄様……?」
言ってエルシャは、(いまだ飴をモゴモゴしている)兄にすがりつく。兄はチラリとエルシャの悲痛な顔を見下ろしただけだったが。その発言には、グステルが呆れた。
この娘は確か、母が申し入れた再会という名の初対面を、さんざん無下にしていたはず。
そのうえでの『お母様』発言は、いささか身勝手な言葉のような気がするが。
しかしグステルはそれを顔には出さず。両手で掲げていたバレッタを丁寧にハンカチで包み直し、懐に収めた。
「はいはいともかく。こちらのバレッタは、お嬢様では扱いきれぬお品のようですから、わたくしが一度お預かりして、公爵夫人にお届けいたします。お手に戻したければ、どうぞ、お母上に直接お申し出ください」
「!」
グステルの言葉にエルシャが怯む。
グステルのほうでも、母を騙していた彼女たちにはそれが出来ぬとわかっていてわざとそう言った。
「わたくしの盗みが心配でしたら、フリード様にお預けしてもよろしゅうございますが──……いえ、やめておきましょう。ご主人様はガサツ極まりなきお坊ちゃまですから」
繊細な小物の扱いには不向きだろうとグステルは断言。やはりわたくしが保管いたしますと告げると、奥の椅子でフリードがうんうんとうなずいている。
「お兄様⁉」
そんな兄の反応を見てエルシャは愕然。
令嬢たる自分につれない兄が、そのメイドの意見を──しかもかなり無礼な内容の言葉をたやすく受け入れたのを見て。本来は勝気な性格のエルシャは、ついカッとなった。
次の瞬間、エルシャは憤懣のままに立ち上がって、そのメイドの頬を思い切りひっぱたいた。
「無礼者!」
室内にはバチッと鈍い音が響き、頬を打たれたグステルは、その痛みにとっさに顔に手をやった。
「っグステル!」
とたんフリードが、唖然として重い肘掛椅子を後ろに倒す勢いで立ち上がった。しかしグステルは、兄の顔が怒りに満ちる前に、手で顔面を抑えたまま兄を睨む。
その目は明確に『落ち着け』と言っていて。フリードは、ぐっと奥歯を噛んでその場で怒りをこらえる。
そんな男が妹が心配で叫んだ名を、自分へ対する兄の叱咤だと勘違いしたエルシャは身をすくめてまた涙を浮かべる。
「だ、だってお兄様、この者は使用人階級にありながら、わたくしの大切なお兄様を愚弄しました……! 許されないことです!」
震えてシクシク泣き出した娘を、フリードは口をつぐんだものの、鬼の形相で睨んでいる。
その恐ろしい顔には、叔母グリゼルダも執事も怯えて何も言えぬようで。部屋の中は静まり返り、エルシャのすすり泣く声だけが響いている。
(あー……しまった……)
状況のカオス化に、グステルは心の中で悔やむ。叔母や偽物の娘の関係や、邸の中の状況をしっかり把握するつもりが、どうやらひとつ読み損ねがあったらしい。
(……今のって、明らかに、嫉妬、よねぇ……?)
グステル的には、いつものようについ兄を子供あつかいしてしまっただけのつもりだったのだが。
そこでこのお嬢ちゃまが、兄に対してこういう執着をのぞかせるとは思ってもみなかった。
グステルにとっては、兄は正直若干意味不明の存在。
昔はそっけなかったくせに、現在はなんだかやたらとかまってくるのが気味が悪くもある。
家族だとは思っているが、こうして嫉妬で、メイドを殴るほどの関心を兄に持つエルシャの気持ちはよくわからなかった。
でも、と、グステルは、時々自分に棘のある視線をくれながらも、兄にポロポロと涙ながらに弁解しているエルシャをしげしげと眺める。まあ……正直あれはウソ泣きであろうとは思うが。
偽りの涙まで絞り出して、あの兄に取り入ろうとする彼女が、グステルはなんだか気の毒になってきた。
(お嬢ちゃまぁ……それ、報われない行動ですよう……)
相手があの高慢暴走系兄貴であるだけに、グステルはエルシャの行為がとてもむなしく見えた。
……ちなみにだが。
カッとなったエルシャに思い切り頬をひっぱたかれたグステルは、治りかけの鼻の血管が再びぱっくり傷口を開いてしまった。
とっさに鼻の付け根をつまんで出血は阻止したが。これは手を離した途端タラリときてしまうやつである……。
グステルは、げっそりした。
(……ここでまた私が血を出したら、お兄様が暴走するしな……)
また鼻血を振りまきながら、猛獣化した兄を止めるために奔走するのは、ちょっと嫌だった……。
(はぁ……気の毒(?)な、お嬢ちゃまのためにも、ここは鼻血は隠ぺいするしかないわね……)
グステルは、人知れず深々とため息をついた。