148 それぞれの苦悩と、嵐の予感
──グステルは、胸を痛める。おそらく……自分のせいで、多くの者が道を誤ったのだ。
「──え? お兄様が……外泊……?」
ハンナバルト家の街邸。
その報せを受け、目を瞠ったラーラは即座に顔から表情を消した。
幼子の頃から天真爛漫な彼女を慈しんできたゼルマは、冷えた目で見つめられ内心で悲しくなりながらも、硬い顔で頷く。
すると、ラーラは、少し顎をあげて、フッと笑う。皮肉な目は、まったく彼女らしくなかった。
「……そう、なら……きっと例の女が王都に入ったのだわ……」
つぶやいて、ラーラは鏡台の中を睨む。
鏡の中には彼女の大好きなピンク色でまとめられた室内を背景に、座ってこちらを見ている冴えない表情の自分。ラーラは苛立った。
なんて嫌な顔をしているのだろう。これではまるで、物語の中の悪役だ。
でも、そうは思っても。自分を置いていく者たち、そうさせる女たちへの憤りが胸を焼くように痛くて、とても怒りが抑えられなかった。
ラーラはふと、つぶやく。
「……母さんも、私を置いていったわ」
白い細い手が、持っていた櫛を強く握りしめる。細い櫛の歯はラーラの手のひらに食い込んだが、こんな痛みなど、どうということもなかった。
──彼女の実母はラーラが幼い頃に亡くなった。
でも、彼女は知ってしまったのだ。
病死とされていた母が、いったいなんの病だったのか。
彼女がそれを不審に思ったのは、先日あの令嬢、グステル・メントラインに言われたことがきっかけ。
あの女は、彼女に、母が侯爵を誘惑し『挙句、失敗して亡くなった』と嘲笑った。
引っかかったのだ。
失敗とは? いったい何を指していたのだろう。
グステル・メントラインの顔は、敗者へのそしりに満ちていた。ただ、病で亡くなった人に向ける言葉だとは思えなかったのである。
そしてラーラはここで初めて気が付いた。
自分が、母のはっきりした死因を知らなかったことに。
幼子の頃、母が亡くなったことを自分に知らせた者たちは、彼女に、ただ、『お母さんは病気だったのよ』と言っただけ。
小さかった彼女は、母ともう二度と会えないのだという悲しみを受け止めるのに精いっぱいで、そこまでには思い至っていなかった。
そのことに気が付いて。胸騒ぎがしたラーラは、昔の事情を知るだろうお付きのゼルマに尋ねた。
しかし、ゼルマは何も知らないと言い張る。
けれども長い付き合いだ。ラーラには、彼女が嘘をついていることはすぐに分かった。
ゼルマは、何かラーラには知られてはならない秘密を隠している。
そう確信したラーラは、答えを求めて城下に降りた。
家の者たちは皆硬く口止めされているのか、誰もが何も教えてくれない。であれば、それを命じているのは、彼らの主、彼女の父である侯爵か、義理の母である侯爵夫人なのだろう。
だが、外部者のグステル・メントラインがあんなことを口走ったくらいだ。
きっと、自分が知らなかっただけで、市中には母の話を知っている者がいるに違いない。
特に、貴族の邸に出入りの業者なら何か知っているのではと睨むと、やはりその通り。
古くから、ハンナバルト家にも、メントライン家にも出入りしている宝飾品店を訪ねると、その老主が当時のことを教えてくれた。
──それは、悲しくも、単純極まりない話だった。
生前のラーラの母は、夫の正妻への嫉妬に日夜苦しんでいた。
日陰の身である自分と、侯爵夫人の身分を持つ堂々たる正妻との待遇を比べては嘆き、その女が常に自分の夫の隣にいることに苦しんだ。
……心の病だったのだ。
そして、長患いの末、自ら──……
これも巡り合わせの不幸だが。
“ラーラの物語”上では触れられもしなかった真実へ、彼女は“グステル・メントライン”となったエルシャと出会うことで、その心無い一言で、当時大人たちが幼い彼女に隠した真実へと導かれることとなってしまった。
「…………」
ラーラは、拳を開いて握りしめていた櫛をつと見下ろす。
今にも涙がこぼれそうだったが、堪えてその櫛でゆっくりと髪を整える。丁寧に髪をすき、鏡の中の自分に向かってぎこちなく微笑んでみた。
彼女は美しく、愛らしくいなければならなかった。
王太子が乗り換えようとしている令嬢よりも、兄を奪った女よりも。
彼女たちを圧倒し、男たちを魅了して再び自分のもとに取り戻すためにも。
「……もう、誰にも私を置いていかせないわ……」
ラーラはこの瞬間、戦うことを決意した。
自分を置いていった母から受け継いだ愛らしさを武器にして。
そうであってこそ、愛らしさゆえに侯爵の目に留まり、不幸な最後を選んだ母への手向けになるし、また──こんな無情な世界に自分を一人残していった母への復讐にもなると思った。
彼女がなしえなかったことをやってのけて、私は、幸せになってやるのだ。
そう櫛を握りしめて心に誓うと、いびつに笑った血の気のない頬に、涙がすべり落ちた。
* * *
──この夜。
エルシャは、久々に男に対する不満を胸にすごすごと寝台に戻る羽目になった。
(なんなのよあの男は……! 素直に私を可愛がっていればいいのに……!)
苛立ち紛れに散々使用人たちに当たり散らしても、私室の上等で柔らかな布団に潜り込んでもその悔しさはおさまらず。“兄”フリードから受けた、あまりにもすげない態度を思い出すと、エルシャはとても眠れやしなかった。
彼女は、つい今しがたまで“兄”のフリードに振り回されていた。
いや、振り回されたというより、彼の関心を買おうとあれやこれやと周りをうろついて手を尽くしたが、まるで、相手にされなかったのである。
ふんぞり返ったあの男は、エルシャがどんなにか弱げに微笑みかけても、甘えても。震えて涙をこぼしてすらも、冷徹な顔を崩さなかった。
挙句、あの“兄”は、『ここはお前たちの化粧の匂いがきつくて鼻が曲がる』『気が休まらん』と言い捨てて、さっさと邸を出て行く始末。
あれだけ強引に押し入ってきておいて、嵐のように去っていったフリードには、エルシャもグリゼルダも唖然。
二人とも、王都の侯爵邸に移ってから、こんなに思い通りにならなかったことは初めてのこと。グリゼルダは勝手な甥の無礼さに怒り狂って癇癪を起し、“兄”にたっぷり可愛がってもらおうと算段していたエルシャも腹が立ってならない。
(なんなのあの男は! “妹”である私が可愛くないの⁉ 情がないわけ⁉)
……いや、フリードのあれは、妹に対する情がありすぎるゆえの横暴だが。
それが分からないエルシャは、とにかく腹が立つ。
これは、これまで貴族も男も楽勝だと侮っていたエルシャに火をつけた。
彼女は寝台の上で爪を噛んで誓う。
「見てなさい……こうなったら絶対にフリードを私に夢中にさせてやるんだから……!」
* * *
王太子エリアスは、夜の執務室でもどかしいため息をこぼす。
昼間に見かけた娘が、どうしても忘れられない。
何をしていても、あの鮮やかなチェリーレッドの髪が脳裏にちらついた。
しかし兵士たちは彼女を見失ったようで、あれ以降、特になんの報告もない。
エリアスの口から、また、ため息がこぼれる。
彼女の見開かれたダークブラウンの瞳を思い出すと、彼の脳裏には疑問が湧く。
彼女が、自分を見た瞬間に露わにした驚愕は、ただ、王太子というものに思いがけず出会ってしまった民たちの目とは、何かが違った。
驚きと、焦燥、そして恐怖と──熱愛。
あの一瞬にも、それだけの複雑な表情を彼に見せて去った彼女に、エリアスはどうあっても、もう一度会いたかった。
この疑問とは裏腹に、あの瞬間の、鮮明な感覚は今も彼を捕えつづけている。
まるで、自分の中に欠けていたピースがやっと見つかったかのような、突き抜けるような清々しさ。
その出会いが、自分の何を変えるのかはまだ分からない。だが。
名も知らぬ彼女が、自分の人生には──自分が正しい道を進むには、絶対に必要なのだと。その強い確信だけが、彼の中には深く残っている。
それはまるで。
恋、焦がれる気持ちのようだった。
明けましておめでとうございます。
お読みいただき感謝です。
何やら周りがドロドロしてきましたが、今年も楽しんでいただけると嬉しいです。
評価やいいねなどで応援していただけるととっても励まされます(#^^#)是非ぜひよろしくお願いいたします!