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145 胃痛兄妹

 

「し、しかしですね……現在この邸を管理しているのはグリゼルダ様でして……」


 食い下がった執事は、フリードの前に立ちふさがるが、フリードは気にしたようすもなく廊下を押し進む。

 執事は彼と同年代のようだったが、自分よりも体格のいいフリードを本気で止める気概はないのは明らかだった。この程度の妨害ではないに等しい。

 執事は「女性だけが住む邸宅に押し入るのは……」などと常識を説くものの、フリードは意に介さない。


「黙れ。この邸は俺様(の父)のもの。勝手に住んでいる者どものことなどしったことか」


 フリードが鼻を鳴らすと同時に、彼の従者が執事の前に回り込む。

 邪魔をする者がいなくなったフリードは、別の従者に居間の二枚扉を開けさせた。

 室内には、女が二人。

 ノックもなしに扉を開けられた女たちは、現れた大男を唖然と見ている。

 二人を見返したフリードは、一瞬嫌そうな顔をした。部屋に充満する香水のきつい香りが不快だったようだ。


「あ、あら、フ、フリード……来たのね」


 すぐに近寄ってきたのは彼の叔母グリゼルダ。


「どうしたの、なんの報せもなく王都までくるなんて……あ、ら……? あなた……また身体が大きくなった……?」


 グリゼルダは引きつった笑顔で甥に近寄って行った。先ほどまで『フリードは頭がよくない』などと悪態をついていたとは思えない愛想の良さだが。

 しかし、この叔母の裏切りを知る甥のまなざしは冷たい。

 彼は問いに答えることもなく、叔母の後ろの長椅子に腰を下ろしたままぽかんと自分を見ているエルシャを憮然と睨む。


「ふん……貴様が俺の“妹”か」

「あ、あの……」


 吐き捨てるようにいわれたエルシャは、戸惑った。

 彼女がこれまで王都で出会った貴族の男たちは、労働とは無縁で、鍛えていたとしてもそこそこの体つき。

 それに比べて彼女の“兄”は、長身で身体つきもかなりガッシリしている。

 反り返るようにして張られた胸板は、ジャケットの上からでもその厚みがよくわかった。

 高慢に腰に当てられた拳も硬そうで、腕も彼女の腕の三倍は太さがありそうだ。

 赤黒い長髪は彼の背を獅子のたてがみのように飾り、ヘーゼルの瞳は、ニコリともせずに彼女を見下ろす。

 その威風堂々とした姿に、エルシャは見惚れた。

 王太子も美しい男だが、この“兄”には、彼にはない逞しさがあった。

 

(この人が……私の“兄”なの⁉)


 エルシャは嬉しくなった。

 もともと彼女は田舎の出身。王都にいるスマートな男たちも悪くはないが、たくましく頼りがいのありそうな男がやはり好きだった。

 すっかり浮足立った娘は、グリゼルダにもアルマンにも、公爵夫妻同様、『できるだけ接触してはならない相手』と言われていたことも忘れ、男のもとへ駆け寄った。


「お会いしたかったですお兄様!」

「…………」


 エルシャはフリードの目の前に立つと、頬を染めて上目遣いで彼を見つめた。……その時、ついそばにいたグリゼルダを押しのけてしまっていたが……。“兄”に夢中の彼女は、叔母が眉をつりあげて自分を見ていることにも気が付かなかった。

 ここは、しっかり自分を本物の妹だと信じ込ませて、この男と親しくならねばと、それだけが頭を占めていた。

 もし、王太子に加えて、このたくましくゴージャスな男を兄妹愛のもとに従わせれば……きっと、もう誰も自分を侮ることなどできないに違いないという妄想に、彼女はすっかり取りつかれた。


「お兄様……」


 エルシャはいつも王太子にするように、兄に儚い微笑を向ける。


「ずっとご挨拶にうかがえなくて申し訳ありません。私、どうしても身体が弱いものですから……」


 不安をにじませつつ、甘えるような声でいかにも心細そうに。

 薄幸さをつくりこんだ肌は白く、下がり眉は目元を悲しげに見せるはずで。

 可憐な色をのせた唇の端をわずかに持ち上げて、エルシャは、瞳を潤ませて兄に笑顔を見せてやった。

 もちろん、上目遣いを忘れない。


(……さあお兄様、私は可憐でしょう? 愛らしいでしょう?)


 エルシャはわくわくしながら、けれども切なげな表情はしっかりと作りこんで“兄”に訴える。


「でも……本当に、ずっとずっとお兄様にお会いしたいと思っておりました……今日は来てくださって本当に嬉し──」


 い、と、いいかけたところで。

 エルシャの言葉が途切れた。

 彼女の瞳はまるくなり、兄を唖然と見る。

 彼女のとびきりの甘い声を聞いた途端、目の前の兄が、鬼の形相で「チッ!」と鋭い舌打ち。まるで、鞭で打たれたかのような鋭さに。エルシャも、傍らで会話を聞いていたグリゼルダも、驚いた。


「ぇ……え…………?」

「フ、フリード?」

「…………」


 戸惑う二人の前で、フリードは極悪人の形相。

 この顔は、もちろん目の前の娘が偽物だと知っているからという理由もあるのだが……。


『絶、対、に! お兄様が、彼女たちのことを偽物だと知っていると、悟られないでくださいよ!?』


 ──そう彼に言い含めていた“本物のグステル”のことを思うと、フリードはどうしても憤らずにはいられないのである。

 

(……なにが、“お兄様”……なにが身体が弱くて、だ!)


 フリードは、自分の妹の名を騙る娘に、苛立ちのまなざしを向ける。

 武人としての側面を持つ彼には、相手の身が不調か不調でないかくらいのことはすぐに見分けることができた。

 目の前の娘はひ弱そうだが、体調面にはなんの不安もなさそうで、日々ぬくぬくと暮らしていることが目に見えてわかった。

 貴族の娘にはありがちだが、あまり陽にも当たらず、労働もせず。父の財産を叔母と共に食いつぶし、自分の妹に取って代わった贅沢暮らしを楽しんでいるのだろうと考えると……フリードの苛立ちはさらに募る。

 もしここで、本物のグステルが、公爵家の令嬢としての地位を望んでいれば、彼はなんとしてでもこの女たちを邸から追い出したことだろう。……しかし。


(くそ……さっさと追い出してやりたい……グステルの頼みでなければ……!)

 

 けれども、そのグステルが、現状この二人を邸にすえおくことを望んでいる。

 妹にも何か考えがあるようで、その気持ちを尊重してやると決めているフリードは、ここで二人に手を出すわけにはいかなかった。


(……っ! 早く、あやつのところに戻りたい!)


 憎らしい娘と叔母を見ながら、フリードは心の中で嘆く。

 本当ならば、彼だってこんなところには来たくなかった。妹のそばに付き添いたかったのである。

 それなのに。

 その可愛い妹のそばを離れ、なぜ自分だけがこの憎たらしい輩の巣窟に来なければならぬのか。


 ……それはまあ……彼が昼間に大通りで大暴れし、あまりにも多くの人の目についてしまったがゆえ。

 王都入りを派手に宣伝してしまった形のメントライン家の嫡男が、都に入ったにもかかわらず、実家の街邸に顔を見せぬのは、グリゼルダに怪しまれるおそれがあったせい。なのだ、が……。


 そうと分かっていても、フリードは悔しいのだ。

 彼と別れた妹は、協力者であるヘルムート・ハンナバルトが用意した街はずれの家にいる。

 フリードは、妹を助けてくれたヘルムートに感謝はしているが……あの二人が今自分を抜きにして一緒にいると考えると──正直心中穏やかではいられない。


 つまり、彼の苛立ちは目の前の女たちに対してというよりも、ヘルムートに対する大いなる嫉妬が大部分であった……。


(くそっ‼ 妹に一番愛されるべきは俺様であって、よその男なんかではないはずだろう!?)

(……もしや、今頃二人きりでいるなどと……そんなことはないだろうな……⁉)


 ……なんて心配をしはじめると、フリードは、考えただけで胃がムカムカして堪らない。

 血の気が引くほど苛立った兄は、八つ当たり気味に目の前の女たちを思い切り睨みつけた。

 大男が上から注ぐ怒りのまなざしには、冷え冷えとした冷気が帯びている。

 これにはエルシャもグリゼルダも、訳が分からずすくみあがるばかりである。

 そしてフリードは女たちを一喝。


「……おい……そこの(自称)妹! 再会が嬉しいといったな!? ならばさっさと俺様を持て成せ! 愚か者! 茶などいらぬ! 胃薬だ! 今すぐ胃薬を持ってこい!」

「ぇ……い、胃薬……? で、ですか……?」

「っさっさとしろ!」


 兄の胃を殺す気か! と、喚かれたエルシャは、慌てて部屋を飛び出ていく。残された叔母は、どうやら甥の横暴に苛立ちが頂点に達したらしく、青い顔でよろめいて執事に介抱されている。


 ……どうやらフリードは。

 すべての腹いせに、叔母らをせいぜいこき使ってやろうと決め込んでいるらしかった。

  



「……、……、……お兄様が……不安すぎる……」


 同時刻。

 フリードの嫉妬とは裏腹に、その本物の妹は、兄のことを考えてこちらもまた胃を激しく痛めていた。


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ひどい事にしかならないwww
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