144 襲来
「なんですって……? フリードが⁉」
王都の高級住宅街にそびえるメントライン家の街邸。
居間でくつろいでいたグリゼルダ・メントラインは、使用人の報せにギョッとして金切り声を上げた。
表情をこわばらせた女のそばには、彼女の偽物の姪エルシャがつまらなそうな顔で座っている。
エルシャは、叔母を驚かせた名には思い当たらなかったのか、怪訝そうな顔をして、グリゼルダと報告にきた家人とを交互に見た。
「叔母様、フリードって誰なの?」
尋ねるも、グリゼルダは椅子を立ち、イライラした様子で部屋の中を歩き回って爪を噛んでいる。
「面倒な……なぜ報せもなく……職務はどうしたのよ!」
「……」
吐き捨てるグリゼルダを見たエルシャは、これはだめねと黙り込む。
状況は知りたかったが、この叔母は癇癪持ちで、こうしてイラつき始めると手が付けられない。
こういう時、何か口出しをしようものなら、烈火のごとく怒り、自分にも火の粉が降りかかるのだとエルシャはもうよく分かっていた。
(嫌な女。いったいなんなのよ……)
しかしどうやら此度は相当な面倒ごとが起きたらしい。執事を相手に、言ってもしかたのない文句をくどくどと続ける叔母に、エルシャはうんざりした。
彼女は毎晩就寝前には、こうしてグリゼルダの自慢話や愚痴につきあわされる。早く部屋に戻りたいわと思ったところで、彼女はふと思い出した。
「ああ、フリードって……“私”の兄ですか?」
そういえば、メントライン家の跡取り息子がそんな名前だったなとエルシャ。
「え? その男がどうかしたのですか?」
つい尋ねると、グリゼルダのきつい視線が彼女に向かってくる。エルシャは一瞬しまったと思ったが。しかしそれは、エルシャに対する苛立ちではなかったようだ。
グリゼルダは忌々しげに吐き捨てる。
「今下にきているそうよ! なんなのまったく……! 前触れもなく来るなんて、常識のない……!」
「え、それって大丈夫なのですか……?」
現在、偽物の令嬢として仕立て上げられた彼女は、グリゼルダとアルマンの命令で公爵家の人間たちとは接触を絶っている。
もちろんそれは、彼女の正体が明かされないため。
けれども公爵である父は現在病を得て、夫人とは離縁寸前で別居中。
そして今問題になっている兄は、他領での勤めがあり戻っては来られないとの話だったが……。
エルシャには難しい話は分からなかったが、血のつながった兄に会うのはいかにもリスクが伴いそうだった。
前もって備えていたならまだしも、急に会えば、なにがしのボロが出そうで気が進まない。
しかし不安をのぞかせるエルシャを、グリゼルダがせせら笑う。
「まあ、それは大丈夫でしょう。あの子は昔から身体ばかりが大きく腕力は強いけれど、頭はそうよくないわ。かわいい妹を演じてやれば満足するはずよ」
どうやらグリゼルダは、エルシャの件の発覚を不安視したというよりは、単にフリードの急な来訪にいらだっているようだった。
それはあまりにも侮った発言であったが、その雇い主の態度を見て、エルシャもどうやら大した問題ではなさそうだと安堵した。
もとより彼女には『自分は王太子ですら手玉に取っている』という自負がある。
それに比べれば。公爵の息子など案外楽にあしらえるかもしれないと思いなおす。
(そうよね、お気楽な貴族の男なんて、たかが知れているわ。それに、本物は幼いころに消えたのだし……きっと“兄”も記憶なんてあいまいなはず。疑われてもしらを切り通せばいいんだわ)
その兄とやらがどうしてこんな時期に現れたのかはわからないが、こうしてはるばる王都まで来たということは、おそらくどうしても行方不明だった“妹”に会いたくなったのだろう。
ならば、思い切り哀れで、可愛らしく、健気な妹を演じてやればいいのだ。
と、心の中で算段をつけたエルシャに、グリゼルダが命じる。
「“グステル”、うまく本物だと信じ込ませるのよ? いいわね⁉」
きつい口調で言ったグリゼルダの顔は、高慢そのもの。エルシャは表情では従順に「はい」と微笑んだが。心の中では、憎々しげに舌打つ。
はじめこそ、贅沢をさせてくれるこの女に従うことにはさほど抵抗がなかったが、令嬢暮らしが長くなるにつれて、最近エルシャにはこの“叔母”に対する反抗心が強まってきていた。
たしかに自分はこの女に連れてこられたが、いつまでも上からものを言われるのはとても不愉快。
王太子にすら恭しく扱われる自分が、なぜいまだにこの叔母に顎で使われているのか。
グリゼルダは人前でこそエルシャに優しいが、裏では彼女を他の使用人たちと同じに扱った。
エルシャはそれが嫌でたまらない。
王太子に丁寧に扱われて夢心地でいても、この女にぞんざいに扱われるたびに、冷や水を浴びせられたような屈辱を味わう。
(……ふん、無事に王太子妃になったら覚えてなさいよ……)
新しい後ろ盾ができれば、その時は、こんな厄介な“叔母”は切り捨てるつもりである。
王太子妃になれば、きっとあとは思いのままだ。
何もかもの秘密を叔母に抱かせたまま、口を封じてしまうことなどきっとたやすいはず、と……。
王族の妃になればそれはそれで大変なことがあるのだと想像もしない彼女は、その思いで、今グリゼルダの癇癪や高慢な態度を我慢していた。
(せいぜい今のうちに威張っているといいわ)
そうエルシャが心の中でグリゼルダを嘲笑った時。
『お、お待ちください!』
「……え……な、何?」
廊下から悲鳴のような声が上がり、室内にいたエルシャとグリゼルダは同時にはっとして声がしたほうを見る。
壁越しに聞こえてきた声は邸の執事のもので、その声を聞いたグリゼルダが少し複雑な不安をのぞかせたのをエルシャは見逃さなかった。
『若君! こ、困ります! グリゼルダ様の許可もなく邸に入られては……!』
困惑したような執事の声。に、続いて聞こえてくるのは、『あ?』と、やたらガラの悪い男の大きな声。粗野な響きは、とても貴族の邸の中で聞くようなものではない。驚いたエルシャは、肘掛椅子のうえで身をすくめる。
『貴様……俺様を誰だと思っている? この邸の嫡男たる俺様が、なぜ、叔母如きの許可を得る必要が⁉』
吼えるようなその声は……まるで、この世には、自分を阻めるものなど何もないと豪語しているかのようだった。
唖然としたエルシャは、この直後、グリゼルダなど足元にも及ばぬような“威張った”人間に、相対せられることとなる……。
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困ったやつがやってきました!(*'▽')