140 メントライン家の兄妹喧嘩
「……悪かったな……ヘルムート……」
「あ……いえ……フリード様のご心配も当然のことかと……」
ハンナバルト家の馬車の中に、微妙な空気が漂っている。
謝ったはずの男の顔には不満がダダ漏れだし、謝られたほうの青年も少々当惑気味。
その原因は、彼が心配そうに見つめる──大男の横に、何やら不穏な空気をただよわせて鎮座する娘のせいだった。
大男こと、フリードは、他家の馬車の中であるにも関わらず、座席の中央で腕を組んでふんぞりかえっているのだが……。
その頬を、不穏な娘こと、グステルが、微笑みながら思い切りつねり上げているのである。
人差し指と親指で、ほとんどつまむところのなさそうな兄のシャープな頬を、ぐいっと無理やりはさんで引っ張って。彼女は薄寒い笑顔でいった。
「……お兄様? もっとちゃんと謝って」
つい先ほどの路地裏でのこと。兄はいきなりやってきたかと思ったら、闘牛かと見紛うほどの勢いでヘルムートに詰め寄った。そして有無をいわさず彼からグステルをひっぺがして大騒ぎ。
『俺様のかわいい妹に触れるな!』だの、『き、き、貴様っ! まさか……こんな場所で不埒なことを⁉︎ 純情(?)な妹になんということを……⁉︎ 許さん!』……などと。
絶妙に恥ずかしいことを兄に散々喚かれたグステルは──げっそり。
ヘルムートと再会を喜ぶ暇もない。まさに、野獣の暴れる流血騒動一歩手前、だったのである。
その事態に、もちろん二人は慌てて兄に事情を話したが、それに兄がなんとか耳を貸してくれた頃にはもう、その大声は近隣に響き渡りつくしていた。
狭い路地裏には野次馬が大勢集まってきてしまい……。
幸いなことに、この騒ぎは王国兵らの耳には入らなかったようだが、ヘルムートは、集まった町民たちに危うく犯罪者扱いされかけて、それでグステルは今怒っているのである。
沸々としたものが底に感じられる鋭い眼差しで、妹は兄をたしなめる。
「……お兄様……腕組みはおやめなさい。顎を上げて威圧するのもいけません。そんな謝罪の仕方がありますか」
グステルが厳しい口調でいうと、フリードは、『お前のせいだ』といわんばかりの顔でヘルムートを睨む。そして、また妹に怒られる……という、キリのないループ。
まったくこれではどちらが兄だか姉だかわからないが、兄は兄で頑固者なので、これがなかなか収まらない。
フリードからしてみると、誤解だとは説明されようとも、そこにいる男が彼に無断で妹を抱きしめていたのは事実であって、本当は何一つ謝りたくないのである。
しかし、可愛い妹に「……お兄様」と、目を細めて睨めつけられればいつまでも意地を張っているのも分が悪い。
いくら腹を立てようとも、妹には嫌われたくない。フリードは、やっと投げやりに吐き捨てた。
「ぅおのれぇ……グステル、貴様卑怯だぞ! 兄の愛を笠に足元を見おって! くっっっ、悪かったっっっ!」
「…………お兄様……誠意をどこに置いてきましたか……」
今すぐ拾ってこいと、怒りの滲む笑顔で馬車の扉を開けようとするグステル、を、ヘルムートが止める。
「グステル様、もうそろそろ……私ならば大丈夫ですし、兄上様もあなたを心配なさってのことです。こうして無事再会できたことですし、それでよしとしませんか……?」
青年はそういって。もし、今、彼の家の者たちが見たら仰天するような柔らかな微笑みをグステルに向けた。
彼の青紫の瞳は、言葉通り含みもなく落ち着いていて優しい。
スッと伸びてきた指がグステルの頬にかかった髪をそっと指でよけていき、うながすように微笑まれると彼女も弱かった。
本当は、兄に襟元をつかまれたうえ怒鳴られて、さらに町民たちにも白い目で見られていた彼の姿を思い出すととても心が痛んだが。自分のためにその被害にあった彼自身にこうして諭されると、彼女も申し訳なくて怒っていられなかった。
グステルは、どうあっても高慢な態度を崩さない兄にまだまだ不服そうではあったが、しぶしぶ頷いた。
「…………ヘルムート様がそうおっしゃるのなら……」
そういって兄の頬と扉から手を離した娘を見て、ヘルムートはホッとする。
彼としては、同じ女性を心配していた者として、フリードにはとても気を遣っている。
それに、公爵家の跡取りたる彼女の兄が、グステルにとって強力な守護者であることは確かで。できれば、あまり兄妹喧嘩をしてほしくなかった。(※おそらく、無理)
──が。
青年のそんな気遣いも知らず……こんなわずかな二人のやりとりにすら苛立つのが、フリードという男。
(な──なんだその従順さは⁉︎)
(グステルよ……まさか……唯一の兄である俺様より、そいつが大事なのか⁉︎)
そんなバカな! と、フリードは愕然。
彼の可愛い妹は、少し気まずそうに顔を伏せつつも、頬を赤らめて青年を上目遣いに見ている。そこに覗く、照れと、明らかなる情。
そして、その視線を向けられている青年も、幸福そうに妹に微笑みかけているとあって──……。
この瞬間、フリードは、途方もない疎外感を感じた。
そして思い切り、妹の視線を独占している男をひがんだ。
自分には冷たい妹が、青年の言葉には素直に従うのが非常に納得がいかない。
けれども、あれだけ騒いでおいて、この上ここでこれ以上の文句をいってしまっては、本気で妹に嫌われるかもしれない。
フリードは死ぬほど悔しかったが、歯噛みしながら嫉妬を堪える。
……どうやら天のありがたき采配によって、この高慢な兄も、この歳になって初めて我慢を覚えてはじめているようである。
「っええい、それで⁉︎ この馬車は今どこへ向かっている⁉︎」
見つめ合う二人に、悔し紛れに割り込むように荒々しく問うと。グステルの呆れ顔がやっと彼に戻ってくる。
「……お兄様……ですから、出立前に説明しましたよ? まずは街の宿屋に参りますと。メントライン家の町屋敷には、例のお嬢さんがいるので、私は滞在できないでしょう?」
“例のお嬢さん”とは、つまり偽物の“グステル・メントライン”のこと。
いくら長旅で疲れ切っているとはいえ、彼女や叔母のいる邸にグステルたちがいきなり乗り込むのは無謀な話。
ならば、滞在先の選択肢は限られる。
が、その言葉には、兄が再びムッとする。
「お前が遠慮する道理がどこにある! あそこはお前の家でもあるのだぞ!」
「いえ、遠慮がどうという問題ではですね……」
憤る兄に、グステルは違うと手のひらを持ち上げる。
兄としては、正統なる者が不当な扱いを受けているようで腹が立つのだろう。その気持ちはきっと彼女を思ってのことで、有り難くはあるのだが……。
現状のグステルには、今から邸に乗り込んで、偽物たちとやりあう元気などあろうはずもない……。
長旅疲れに、兄のお守り。そして王太子や、真の悪役令嬢らしき精神との邂逅と……早い話、疲れ切っているのである。
どう考えても、まずは落ち着ける場所で体制を整えるほうが先である。
グステルはそれを兄に説明しようとする、が。
ここで、二人の話を聞いていたヘルムートが首を横に振った。
「いえ、グステル様。残念ですが、宿屋もやめたほうがよろしいかと」
「え……?」
神妙な顔で指摘されて、グステルはハッとした。
先ほどの城壁門前での騒動で、彼女は現在王国兵に追われる身。
「……王太子が関わる問題ですから、兵らもそう簡単には諦めません。宿屋街にも手が回っている可能性があります」
「あ……そ、そうでした……」
これにはグステルも、消沈する。
「も、申し訳ありません……私のせいで……」
考えてみれば、厄介な問題を引き起こしてしまったものである。
グステルは肩を落として、どうしたらいいだろうと不安げに考え込む。だが、そんな彼女の手をヘルムートがそっと握った。
「大丈夫です。私に、お任せください」
「?」
落ち着いた様子で請け負う青年に、グステルは不思議そうに瞬く。
……そんな二人を、フリードが悪鬼の形相で睨んでいた……。
お読みいただきありがとうございます。
フリードが若干オチにされすぎな気もしますね;
どこかでちゃんと、妹の愛を感じられる時がくる……のか⁉︎( ´ ▽ ` )笑