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138 思い出の品


 その日の早朝、ヴィムの代わりにヘルムートのそばについた家人が彼の部屋へ行くと、もうすでにそこにヘルムートはいなかった。

 まだ空が白みはじめる前のことである。

 何も知らされていなかった家人は慌てて彼を探しに出た。


 ここ数日の主人の息子は、どうやら待ち人があるようで、日夜落ち着かぬ様子を見せていた。

 これは、ハンナバルト家の家人たちからすると、戸惑わずにはいられない事態。

 昔は泣き虫だったとはいえ、次第に大人になって堪えることを知ってからは、表面的にはそつがなく、淡々としていた彼のこと。たとえ弟妹や孤児捨て犬捨て猫などのために心を痛めても、あまり人前ではその感情は見せぬようになっていた。

 特に、もはや弟分といってもいいほどいつも彼のそばにいるヴィム以外の家人たちは、彼の冷静な顔しか知らない。

 それなのに。

 ここ最近、弟妹のこと以外ではあまり取り乱すことのない彼が、明らかに、おかしい。


 夜はいつ寝室をのぞいても窓辺で本を片手に、無言で夜闇を見ている。

 夜番の警備兵の話では、彼の部屋にはずっと灯りがともっていて消えることがないという。

 朝は今朝と同じ。以前も彼は朝稽古をしていて早起きではあったが、最近は朝仕事で早く目覚める家人たちよりも早々と部屋を出てしまっている。

 彼の部屋の清掃を担当している者の話では、寝台のリネンはいつでもきれいなまま。『あれは多分夜も全然寝ておられないのでは……』と、非常に心配されている。

 それでいて、昼間はいつも通り冷静な顔で職務や社交をこなしているように見える──が。

 やはりその端々では、時折遠い目をしていたり、何か考え事をしていて物に顔面を強打する、といった、普段ではあまり見せることのない姿を皆に披露するのだ。

 ゆえに、家人たちは、現在このしっかり者のはずの嫡男をとても心配している。

 それというのも、最近ハンナバルト家では、兄と妹の仲がどうにもギクシャクしている。

 あれだけ仲の良かった兄妹が、顔を合わせても妹は兄を冷え冷えとした目で視線を逸らすし、兄は兄で、そんな妹をつらそうな顔で見守っているしで。この異変には、家人たちも皆恐々としているのである。

 事情を知りたい者たちは、皆ラーラの付き人たるメイドのゼルマのもとへ殺到した。

 この時、ヘルムート側の情報通たるヴィムだったために自然とそうなってしまったのだが……。ゆえに、侯爵邸には、ラーラ側に偏った情報のみが流されることになる。


 ラーラびいきのゼルマは泣きながら皆に切々と訴えた。

 ある女たちのせいで、ハンナバルト家の兄妹仲が悪くなってしまったのだと。

 片方の女、現在嫡男が入れあげている娘の名は知らない。だが、そもそもの、ラーラを苦しめる悪辣な令嬢の名は、


“グステル・メントライン”だ、と。



 さて、家人が慌てて行方を探した嫡男は、階下の庭に面した一室で発見される。

 薄い朝日の射す部屋の中、彼は黙々と動物たちの世話に勤しんでいた。

 広い室内にいる合わせて十数頭にもなる犬猫は、すべてヘルムートが市中で拾ってきた。

 ……とはいえ、もちろん侯爵家には専用の世話係がいるのである。

 にもかかわらず、愛犬には吠えられ、愛猫にはうなられつつも。嫡男自ら粛々と掃除をこなし、食事を与えていくさまは……なんだかここ最近の彼の様子も相まって、不憫で見る人の涙を誘う光景であった。

 

 動物たちの世話をし終えたヘルムートは、無言でその部屋を出た。

 駆けつけていた家人は何かいいたげであったが、彼は待ちわびる人のことで頭がいっぱいで、その心配そうな視線には気が付かなかった。

 報せによると、グステルたちはそろそろ王都に到着する。

 本当ならば、昨日中には到着するはずだったらしいが、どうやら行程に遅れがでたようで、いまだその報せは、ない。

 これには、その前日、いや数日前からずっと落ち着かぬ様子だったヘルムートは大いに落胆。

 もう彼女を王都に迎える手はずはすっかり整えた。

 早くその顔を見たくてたまらないのに、それがなかなか叶わず、いてもたってもいられなかった。

 しかし一度彼女のもとへ駆けつけてしまった手前、今はラーラのそばを離れられなくて。

 ヘルムートは失意のあまり、がっくり肩を落とす。そんな彼の様子には、ハンナバルト家に訪れていたある客には大爆笑された。

 まあ……そちらはいくら笑われても彼は気にもならなかったが……困ったのがラーラだ。

 彼の妹は、兄のそんな様子を見て何か感づいたようだったが、特に何も言わず。ただただ、冷えた目で彼を見て、スッとそばを離れていく。

 天真爛漫だった彼女が、自分に何も言わないということ自体が彼を悲しませていたが、それもこれも自分が彼女よりもグステルを選んだことが原因だと思うと、兄も今はそっとしておくしか方法がない。

 偽物のグステル・メントラインや友に傷つけられ、兄からも期待を裏切られて以降、彼女の傷は深いようで、ラーラはとにかく恋愛の話を厭っている。

 ヘルムートは、そんな彼女のために、今はできるだけ望むことはなんでも叶えてやるようにしているが……彼も悩み始めていた。

 ずっと、父母に冷たくあしらわれる彼女を憐れに思って蝶よ花よと甘やかしてきたが……本当に、これでいいのだろうか。こうして溺愛するだけでは、妹のためにはならない気がしてならなかった。

 こんな不安を抱える時、ヘルムートはいつもグステルに堪らなく会いたくなる。

 彼女のもとを離れてから、ずっと彼女を求めているが、それにも増して。

 彼女から助言や導きがほしいというわけではない。

 ただ、あの聡明そうな瞳を見ているだけで、自分が自分として、正しい位置に戻れる気がするのだ。



 恋しさを引きずって私室に戻った青年は、しんと静かな部屋で戸口で立ち尽くしてため息を一つ。

 と、部屋の奥から「にゃあ」と、声がする。

 視線を巡らせて探すと、長椅子の上に猫が一匹。

 この猫は、両親が動物たちを別室に移されてしまったとき、彼がどうしても残して欲しいと訴えた猫。

 ヘルムートは仕方なしに、長椅子のほうへすごすごと足を向けた。

 壁際のチェストから猫用のブラシを取り出すと、布張りの座面にのびのびと四肢を広げている猫の背に、黙々とそれを当ててやる。すると猫は、目を細め満足そうな顔。しかし、白いしっぽはパタパタと座面を叩いており、機嫌がいいのか悪いのかヘルムートにはさっぱりわからなかった。

 こうしていても、彼の意識はすぐにグステルに飛んでいった。


 元気でいるのだろうか、家族とはうまくいっているのだろうか。

 旅路はつらくないか、寒い思いはしていないだろうか。

 あの日──自分が何もいわずに去ったことを怒っているのではないか……。


 そうしてどうあってもソワソワしてしまう自分に、ヘルムート自身も困り果てていた。

 

 こうして彼が一日千秋の思いでグステルを待ちわびていたその日。昼を過ぎた頃、ハンナバルト家の玄関にある者が大慌てで転がり込んできた。


「へ、へ、ヘルムート様! た、た……大変ですぅっっっ!」


 グステル到着の報を今か今かと待っていたヘルムートは、邸の中が突然騒がしくなったことをすぐに察知し、部屋を飛び出す。

 玄関ホールに駆けつけると、必死に走ってきたらしいヴィムが、汗だくで床にひっくり返っていた。青年の周りには、何事かと驚いた様子の使用人がたくさん駆けつけていて、久しぶりに邸に戻った彼を慌ただしく介抱している。

 ヴィムは、階上から主人が駆け降りてきたのを見ると、よろよろと彼に向かって腕を上げて訴えた。


「ヘルムートさ、ま……っ」

「どうしたヴィム!」


 グステルに付き添わせていた従者のただならぬ様子に、ヘルムートはさっと青ざめる。

 ヴィムの手を取りその背を支えると、全力で走って戻ったらしい青年は、ぜいぜいと身体を上下させながら、切れ切れにいった。


「ス、ステラさ……王国兵に……」


 つづけてヴィムからある地区名を告げられたヘルムートは、彼を家人たちに任せると、すぐさま屋敷を飛び出していた。

 ──その騒ぎを玄関ホールの上からラーラが見ていたことには、気がつかなかった。




 駆けつけた城下町の一角で、彼は城壁門に配していた家人に呼び止められた。

 その男は門前での騒動をヘルムートに報せ、グステルが逃げていった方向も教えてくれた。

 こういったとき、ヘルムートはとても冷静で。突然王太子の名が出たことに彼は非常に驚いてはいたが、それでもすぐに家人に、人と馬車の手配を命じると、自らもグステルを探しに走る。

 教えられた商店街の中を巡ると、あたりには王国兵もうろついていたが、どうやら彼らはグステルを見失っている様子。

 王都の商店街の中は店も多く、人や物で溢れ、身を隠すにはもってこいの場所だろう。

 その分ヘルムートの捜索も難航したが、もうすぐ日暮れという手前で、彼は、やっとグステルを発見することができた。


「……グステル様……」


 その姿を見て、まずは心底ほっとした。

 しかし、暗い物陰にうずくまった彼女は、震えたまま顔を上げず、彼の呼びかけにも反応を示さなかった。

 名を呼んでも、肩を揺すっても。彼女は硬く膝を抱きしめたまま石のように固まっている。

 まるで外界を拒絶するようなその姿に、ヘルムートは大いに動揺した。こんなに怯えた彼女を見たのは初めてのことである。しかも、彼女の服は血塗れなのだ。

 

「これは……いったい……グステル様!」


 抱き上げて名を呼びかけ続けても、グステルは一向に反応しない。しかしどうやら彼女の身体には怪我らしい怪我は見当たらない。あとは顔だけなのだが、確かめたくても身を固くした彼女は顔を上げてもくれないのだ。

 焦燥感に駆られた彼は、咄嗟に、何か彼女の気持ちを和らげられるものが何かないかと自分の身を探った。

 ──と。

 黒衣のケープの下、上着の胸元に、膨らみ。

 それに指が触れたとき、ヘルムートは、あっと、思った。

 急いでジャケットの内側から取り出したのは、彼がここ最近ずっと持ち歩き、いつグステルに見せようかと悩んでいたもの。

 ──そんな彼に、両親たちはいつも『ジャケットの見栄えが悪くなる』と、いい顔をしなかった。

 上流社会では、品のいい装い、振る舞いが求められる。

 せっかく侯爵家の嫡男として恥ずかしくないよう洗練されたラインのジャケットを身に付けさせているのに、胸ポケットを膨らませているなんて台無しだ、ということなのだろう。

 おかげで膨らみが目立たないように、常にケープかマントを身に着けるよう命じられて辟易したが。

 しかし、そうして両親たちに何度『やめなさい』といわれても、彼は頑なにそれを持って歩いていた。

 それは、彼にとって、とてもとても大事な思い出の品だったから。


「……グステル様」


 ヘルムートは、動かないグステルをいたわるように膝に抱き、うつむいたままの彼女に呼びかける。

 咄嗟にそのセリフが出てきたのは、思い出してほしかったこともあるし──あの日、不安だった自分がそのセリフに気持ちを救われたから。

 あの広大な王宮で、小さな妹を見失った彼はとてもとても不安で。

 そこへ、彼女がおどけて差し出してくれた、この愛らしいものを。今度は彼が彼女に差し出して。

 少しでも、あの時の自分のように、ほっと気持ちをやわげてもらいたかった。


 ヘルムートは、胸に蘇ったあの時の感謝をこめて、彼女にいった。

 ──もちろんそんな言い回しはガラではないと分かっていたが。


(……なんでもします、貴女のためなら……)


 その滑稽さを彼女が笑ってくれれば、それもまた本望であった。



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