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137 迷子

 

 荒い息のもと、グステルは街中を力の限りに走った。

 久しぶりの立派な街並みを見渡す余裕もない。

 兄たちに迷惑をかけてしまった後悔と、それでも立ち止まることのできない恐怖で、グステルはどうしていいかわからなくなっていた。


 自分が消えるかもしれない。


 そう考えると、怖くてだんだん周りが闇に包まれていくように感じた。必死に駆けているのに、身体はひんやりと冷たく、だんだん手足の感覚が失われていくようだった。

 往来にはたくさん人がいたはずなのに、まるで、誰もいない暗い世界に放り込まれてしまったようだ。

 雑踏の喧騒が聞こえなくなり、耳に届くのは、戻れと怒鳴る声と、自分の荒い息遣いだけ。

 怒鳴り声は兵士たちのもののはずなのに、グステルの耳にはそれが女の声となって追い縋る。

 ゾッとした。

 ねっとりとまとわりつくような声は──どれも彼女の声と同じ。

 王太子のもとへ戻りたい戻りたいと繰り返し嘆く声は、深い情念に満ちていて、グステルは、絶対に逃げなければと震え上がった。

 こんなどろどろと執着に満ちた感情を、自分の中に受け入れるなどごめんである。

 それが自分の中に自然に生まれた感情ならまだしも、物語の筋書きとして強制的に植え付けられるなんて。絶対に、


「っ嫌だ!」


 グステルは、歯を食いしばって走った。

 どれくらい走った頃だろうか。闇雲に走り続け、もうそろそろ彼女の手足は限界だった。

 息も苦しくなってきて、喉の奥からヒューヒューと細い音が鳴る。もうこれ以上は走れないと感じたグステルは、大きな通りから、細い小路へ駆け込んだ。

 後ろを気にしながら、その先でさらに角を曲がると、そこは商店の裏手らしい場所。

 あたりには人気はなく、たくさんの木箱が積み上げられていた。グステルはその隙間に潜り込み、身を隠す。

 木箱と木箱に挟まれた隙間に座り込んだグステルは、耳を両手で塞ぎ、硬く身体を縮める。しかし、どんなに強く耳を塞いでも、内側から響いてくる喚き声は防ぐことができない。

 頭の中に響き渡る声は、今すぐあの方のもとへ戻りなさいと命じつづけ、グステルを苦しめた。そのうるささとしつこさには、今にも頭が割れてしまいそうだった。


「──っ無理よ! 静かにして!」


 薄暗い中、思わず声をあげてしまうが、まったくの無駄。

 声は次第に脅迫めいてきて、さらに大きく、口汚くなっていった。

 自分の声で毒のある言葉を浴びせつづけられたグステルは、すっかりまいってしまう。次第に、心が追い詰められていった。


「……お願いだから……もうやめて……」


 抵抗する言葉も気勢もだんだん削られて、声を出すことすらつらくなっていた。

 いつの間にか頬が涙で濡れている。

 そんなグステルの心に、ふと魔がさすように、その考えが浮かぶ。


(……逃げても……無駄なのかもしれない……)


 相手は、この物語世界の、正当な登場人物である。

 物語は正しい悪役を必要としている。自分のような、物語をかき回すような異物は消されて当然なのか。


(……でも、消えたくない……)


 そう考えると、脳裏に幾人もの顔が浮かぶ。

 猫のユキ、イザベル、両親や兄、ヴィム。

 そしてその気持ちの最奥にヘルムートの顔を見つけると。グステルの瞳から、どっと涙が溢れ出た。

 しかし、心の中に巣食う誰かが喚くのだ。


 ──偽物のくせに! と。


「っ」


 痛烈な絶叫に胸をえぐられたグステルは、思わず息を呑んで喘いだ。


(……そうだ、確かに、自分は偽物だ……)


 ずっと王都で自分に成り代わった娘を“偽物”だと目してきたが……。

 そうか、と、グステル。


(私も……偽物、なのか…………)


 その気づきは、グステルの心に致命的な隙をつくった。

 それまでは強固に固めてならされていた道が突然崩れ、思いもしなかったような大穴がぽっかり姿を現したかのようだった。瞬間、呆然とした心の隙間を尚も広げようと、声が畳みかけてくる。


 ──私こそが、本物。

 ──お前が私の人生を奪ったの。

 ──いずれにせよ、お前はいつか消える運命じゃない。

 ──いつか消えるなら、未練が大きくならないうちに私と交代しましょうよ。

 ──そうすれば、お前も私と殿下の恋のおこぼれを享受できるかも。

 ──それをよすがに、消えなさい。


 声は甘くグステルの心を毒していく。

 グステルは、真っ当な性格ゆえに、正統性を持ち出されると弱かった。

 自分が誰かの人生を奪ったといわれると、大きな責任を感じていつもの威勢が戻らない。


 でも、


「でも……ごめん、できない……っ!」


 そう言って頭を抱えた瞬間、声が怒り狂って絶叫をあげた。


「っ!」


 鼓膜を突き破りそうな女の高い声は攻撃的で、とても聞いていられなかった。その怒りは彼女の中で出口を探すように暴れまわり、グステルはたまらず身を縮める。

 だが、それでもグステルは、“彼女”のいいなりになることはできないと思った。

 

(……あい、たい……)


 嵐のような金切り声に翻弄されながらひたすら耐えるグステルの脳裏に、ふと、その感情が強く沸き上がる。


 ──会いたい……

 ──会いたい……!


「……っ会いたい‼」


 その人を想って、思わず泣き叫んでいた。

 震える膝を硬く抱き、あらん力で。

 

 ──ごめんなさい、貴女。でも、私、今、貴女に自分を明け渡すことはできないの。

 

 グステルは心の底から“彼女”に申し訳ないと思った。

 でも、なにものに変えてでも。たとえこれが彼女のわがままだとしても、グステルは、彼に再会したい。その気持ちの強さに、グステルもこの瞬間に、自分ではじめて気が付いた。


 けれども“彼女”の王太子に対する執念もそれに負けない強さを持っていた。

 “彼女”はグステルの中で奇声を上げて暴れまわり、グステルの精神を少しずつ、しかし確実に削り取ろうと躍起になっていた。己の内側で繰り広げられる攻撃は一方的で、その苦しさに、グステルは、ただひたすら己の膝を抱いて耐えていた。

 ただ、黒髪の青年へ想いをはせることで、自分を見失わぬよう。

 これまで彼からもらった温かい気持ちを胸に灯し、“彼女”に負けぬようひたすらに。


 ──と、その時だった。

 暗闇に、声が聞こえた。


「──にゃん」


 絶望的な精神世界に、ぽっと柔らかな光が射し込んだような、そんな唐突さ。

 え、と、思ってやつれた顔を上げて、グステルは驚いた。


 間近に、白い顔の──猫。


 グステルの瞳が大きく見開かれる。

 いや、それは本物の猫ではない。

 布でできた丸い顔のうえに三角の耳を縫いつけ、黒い糸で目鼻をつけた、少し古びた、ぬいぐるみの猫。


「え……?」


 グステルは、ぽかんと瞳を数回瞬く。

 この顔には、見覚えがあった。


 ──と、誰かがまたいった。……この時グステルは気がついた。いつの間にか、自分は誰かに抱き抱えられていた。


「“こんにちは、もしかして迷子かにゃん?”」


 その言葉に、グステルは、ついさっきまでの恐怖を忘れて、唖然とぬいぐるみの猫に──そのお腹のあたりを持って、ぴこぴこと指で操っている人物の微笑みに見入った。

 どこかで覚えのあるセリフを口にしたその人物はいう。


「──大丈夫、私がついていますよグステル様──にゃん」


 その語尾に付け加えられた、どこかいい慣れていないぎこちない言葉を聞いて。その胸の奥に響くような優しい言葉を耳にして。


 グステルは、込み上げる気持ちを抑えられなかった。




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