136 逃走
グステルは、よろめいた。
彼女の中で、誰かがあっけなく恋に落ちていく。
自分を見つめる青い瞳に心躍り、端正な顔つきに鼓動が高まる。──しかし、そのたびに、グステルは自分の存在が希薄になっていくのを感じて苦しかった。
気持ちを止めようとしても、それは必死で引き留める彼女の手の隙間をさらさらと砂のようにすり抜けた。
焦る彼女の耳の奥には、無駄よとあざ笑う声が響く。
高慢にそこをどきなさいと、彼女に命じ、主導権の引き渡しを要求する声。どこかで聞いた覚えがあると思ったら──それは、自分の声なのだ。
「っ!」
瞬間、グステルは震える足で地を蹴っていた。
何が何だかわからなかったが、とにかく逃げなければとその一心。
グステルには、どんなからくりで、今自分がこの世界に存在しているのかは分からない。
もしかしたら今聞こえる声の主こそが、“本物”の悪役令嬢グステル・メントラインなのかもしれない。
この世界で、悪となることを使命付けられた娘。
今そこで自分を見つめている青年に恋をして、彼を手に入れようと画策し、非道の末に非業の最後を迎える、本物の、グステル・メントライン。
(……でも)
グステルは顔を歪めて精一杯走った。
たとえ本物でなくとも、今日まで、この身で生き抜いてきたのは彼女である。
苦楽をこえ、共にあった自分という存在を、そうたやすく誰かに開け渡せるものがはたしているだろうか。
それに、もし彼女が物語の筋書き通りに悪の道に堕ちてしまったら、現在、自分を大切にしてくれる人々はそれをどう受け止めるのか。
すでに物語は流れを変えて、グステルの父は娘が王太子妃にするというような野望は持っていない。
再会を喜んでくれた家族たちの前で、グステルがもし非道なことをしたら、皆どれだけ失望するかわからない。
(それに──)
グステルの頭の中には黒髪の青年の顔が浮かぶ。胸が痛いほどに締め付けられた。
もしグステルが王太子に筋書き通りに恋をしたら、彼への気持ちはどうなってしまうのだろう。
もしかしたら、消えてしまうのではないかと考えると、いいようのない不安に駆られる。
だって彼は自分の敵としてこの物語世界に存在するヒロインの兄だ。この状況で、もしここに本物の悪役令嬢グステルが現れたとしたら、彼女は彼にいったいどう対応するのだろう。
もしや、憎き恋敵の兄として、辛く当たるのではないか……?
自分を妻に迎えたいとまでいってくれた彼に、つい数日前彼に助けられたこの自分の姿そのままで、ひどいことをしてしまうのではないか……。
そう考えると、焦燥感が胸をえぐる。
(っだめだ! 絶対に、逃げないと……!)
たが、相手は王国兵を連れた王太子。どう考えても、彼に呼び止められておいて逃げ出すなんて、危険極まりない。
彼に対する無礼は、王国ではそのまま罪となり、メントライン家にも迷惑をかける。
それはわかっていても、グステルは立ち止まることができなかった。
このまま大人しく王太子と対面し、あの強烈な気持ちの上書きを受け入れるなんて絶対に嫌だった。
駆け出したグステルは、声をかけてきた王太子の横をすり抜けて、そのまま真っ直ぐに走った。
心配で声をかけただけなのに、突然逃亡された王太子は驚いて彼女を目で追う。
「え……君⁉︎ 待って!」
しかしその娘は立ち止まらない。
困惑する王太子を置いて、グステルはひたすら走った。
前方には、見上げるほどに大きな城壁門の向こうに王都の街並みが見えている。
この時彼女は無我夢中で、どこに行けばいいなどということは考えていなかった。しかし、自然と足が王都へ向いたのは、おそらく、そこに会いたい者がいたからだろう。
だが、もちろんそうやすやすとは、王都には侵入できそうもない。
王太子の制止も聞かず、門に向かって走り出した娘を見た王国兵たちは、当然のように殺気立った。
「逃げたぞ!」
「追え!」
こうなると、グステルはすっかり逃亡犯。
走るグステルの中でも、高慢な誰かがしきりに止まりなさいと、喚いていた。“彼女”は、王太子のそばにいたいとごねたが、グステルはその声を振り切るように懸命に走る。
けれども悲しい哉、鍛えてもいないグステルと王国兵とでは、走力にはかなりの差があった。追いつかれるのは時間の問題。
「おい! 待て貴様! 止まれ!」
王国兵たちは見る見る近づいてきて、それを察したグステルは、咄嗟に辺りに集まっていた民衆の中に飛び込んだ。
城壁門前には、検問を受けるために待っていた人々や、王都に運び込まれる荷台、馬車などが列をなしていた。それらの間をうまくすり抜けて、グステルは城壁門を目指した。
この突然の捕物で場は騒然とし、兵士たちが怒鳴っているせいか、方々から民衆の悲鳴があがる。
関係のない者たちには申し訳なかったが、場の混乱も手伝って、グステルは王国兵たちの目をかいくぐって城門のほうへ進むことができた。大きな馬車のかげを駆け抜けて──すると、目の前には城壁門。
しかし、今度はそこに、屈強な門兵たちが立ちはだかる。
「何事だ! 止まれ!」
厳しい制止に、グステルは一瞬驚き立ち止まる。と、その怒鳴り声を聞いた王国兵たちもグステルに気がつき、彼らは民衆をかき分けながらこちらにやってくる。
前方には門兵、背後からは王国兵と。挟まれたグステルは、どうしたらと視線をさまよわせる、が──。
その時後方から、辺りの喧騒を吹き飛ばすような咆哮が飛ぶ。
「貴様らっ‼︎ そやつに指一本でも触れたら! っ許さんぞ!」
「「⁉︎」」
岩で殴りつけるような喚き声に、門兵たちがギョッと身構えた。
──どうやら……馬車を降りた兄フリードが、グステルを追いかけてきていたらしい。
兄は恐ろしい形相で妹の行手を阻もうとする者たちを怒鳴りつけ、彼を止めようとする王国兵たちを、体当たりで吹き飛ばした……。その姿は、まさに闘牛。
その獣がごとき猛進と鬼面に、圧倒された門兵らは困惑を見せ、ほんのわずかに彼らは動きを鈍らせた。
グステルは、その隙に目の前の大きな石の城壁門を一思いにくぐり抜ける。
王都の中に入った妹の背中を確認したフリードは、そばにいた王国兵の首元をつかむと軽々と持ち上げて、尚も妹を追っていこうとする別の兵士の背に剛腕を振り切って男を投げつけた。背後から同僚の身体をぶつけられた王国兵は、見事に転倒し、その様子を見たフリードは高笑う。
「フハハハハ! 見たか軟弱も──ぎゃぁあああっ⁉︎ ステラ⁉︎ ステラはどこへいった⁉︎」
勝者の笑いを轟かせようとしたメントライン家の嫡男は、その瞬間に、人波に飛び込んで消えた妹を見て真っ青になる。
王都の中は賑やかで、広い往来には人が多い。
フリードは慌てて周囲に目を凝らすが、行き交う人や馬車が多すぎて、グステルの姿がどこにも見つけられない。
こうなると、オロついたフリードは少々弱体化。大男は青くなって妹の名を叫びながら、慌てて王都の民衆らの中に分け入っていった。
「ステラ⁉︎ 貴様、迷子になる気か⁉︎ ス、ステラぁあああっっっ‼︎」
猛獣はそうして慌ただしく王都に駆け込んでいき──……。
残された王太子や王国兵たちは呆然。
「な、なんなんだあいつらは……で、殿下大丈夫ですか⁉︎ お怪我はありませんか⁉︎」
「ええ、私は別に……彼らを追うのですか?」
「当然です! 殿下への無礼は決して許されません!」
必ず捕らえますと意気込む王国兵らは、隊列を組み直し、門兵たちに応援を呼ぶよう要請した。王太子のそばには数人の護衛を残し、あとの者たちはフリードたちを追う構えのようだった。
その様子を見た王太子は、硬い顔で命じる。
「……捕らえるのはいいが、けして危害は加えないように」
「は……? しかし、殿下……」
反論しようとする兵に、エリアスは、柔和な彼にしては珍しく語気を強める。
「これは王太子としての命令だ。……もう一度、あの子に会ってみたい。見つけたら丁寧に接し、すぐに私に報告するように」
「は、はい! 承知いたしました!」
お読みいただきありがとうございます。