134 狂乱
いかにも信じられないという調子で訴えると、兵士たちがその勢いに若干引いている。
グステルはシクシクと泣き出した。……涙はすぐに出る。止めどなく。
なにせ、今彼女は王太子に本当に本当に怯えているのだ。
それでもしっかり虚勢を張り、事態を見渡しながら、その本気の涙までを利用する芸当は、彼女が年輪を重ねているからこそだった。
「う……わたくしめ、こう見えてまだうら若いのに……」といって彼女はあどけない表情を作り、兵士たちにすがるような視線を送る。
老成していようとも、グステルは実際にまだ若いわけで。心細そうに上目遣いで見つめられた兵士たちは、少し心を動かされたようだった。(※馬車の中では、思い切り心を動かされた大男が窓に張り付きヴィムを困らせている)
「顔が血で汚れるなんて……それを、こうして人様に見られるだなんて、そんな……嫁入り前の娘が……そんな恥ずかしいことってありますか⁉︎」
「お、おい、泣くなよ……鼻血如きで……」
兵士たちは、ちょっと困った表情。
しかし鼻血如き、とはいってみたものの……グステルの嘆きを見ていると、彼らの心の中には、確かに、という思いがよぎる。
彼女がいう通り、若い娘にとっては、鼻血を出したところを他人に目撃されるのは大変不名誉なことだろう。
兵士の一人には年頃の妹がおり、その妹が自分の容姿のことや、それが人からどう見られるかについては非常に神経質であることを思い出した。
なるほど、確かに。自分の妹が公衆の面前で、しかも、王太子がいるような空間で鼻血など出してしまおうものなら、彼女は恥ずかしくて、もう家の外に出られない! と、布団の中で泣きじゃくるに違いない。
……なんてことを。どうやら人々は各々に考えたらしかった。
おまけにグステルが手弱女然としてシクシクやっているもので、民衆たちの間には少しずつ彼女への憐れみが広がっていった。
特に、若い娘たちは我が身に重ねて同情が深かったようだ。
「そうよね……確かに人前で鼻血は絶対に嫌よね……恥ずかしいわ」
「殿方だっているのだし……」
……どうやら人々は。
このさめざめと鼻血の恥辱を訴える娘が、つい今しがた己の顔が鼻血まみれでも雄々しく、猛獣がごとき“若様”を叱咤したことをすっかり忘れてくれたようだ。
その忘却をダメ押すように、グステルは両手で顔を覆ってわっと嘆く。おそらく……これが演技だと見抜けるのは彼女の性質をよく知るヘルムートくらいのものだろう。(※エドガーも同類的に見抜くかもしれない……)
「兵士様! それに私、突然血が出るなんて、自分は何かの病気でもう死ぬのかと怖くなってしまって……! それで『死神が!』なんてことを口走ってしまったのですわっ! 王太子殿下にそんな不吉なことをお聞かせするつもりはなかったんです!」
わかってくださいますか⁉︎ と、潤んだ瞳で兵士らを見つめると、兵士たちは渋い顔で唸る。
「そ、そうか……ま、まあ、事情はわかった……だがな、御前を騒がせた罪はだな……」
娘をなだめようと思ったのか、兵士の一人が彼女に向かって手を差し出す。が、その手を、グステルは唐突にガシッと鷲づかむ。
「⁉︎」
「ええ! ええ! わかっております! もちろんですとも! 当然罰ならわたくしがお受けます!」
前のめりで兵士の手を取ったグステルに、兵士は唖然。
若い娘にとっては大問題かもしれないが……いってしまえば鼻血如き。そんなものでメソメソしていた娘が、こんな勇敢ともいる勢いで処罰を受け入れるとは思っていなかった。
虚を突かれた兵士たちは、どこか及び腰。
「そ、そうか……? い、いい心がけだな……」
「恐縮です!」※雄々しい
「あ、ああ……(な、なんかこの娘……情緒の起伏が怖いな……)」
兵士たちからすると、これはまったく奇怪な状況だが。ここは、スピーディに事を片付けたいグステルの猛攻は止まらない。
だって、鼻血で騒いだ罪など高が知れているではないか。
そんなことよりも、一刻も早くこの場を立ち去ることが重要だ。
今この空間で、王太子の存在を感じながら、自分という存在が消されるのではないかと怯えるよりは。たとえ牢獄に入れられようとも、そちらのほうがまだ気が楽。
グステルはすでに覚悟は決まった、という顔でキビキビと兵士たちを促した。
「ささ! 兵士様、罰を受けるにはどこに行けばいいですか⁉︎ 王都内の駐在所とかですか⁉︎ それともお城の牢獄⁉︎ どうせなら絶体に貴人がいらっしゃらないような場所がいいですね!」
「⁉︎ ⁉︎」
兵士らは思い切り戸惑っていたが、グステルは気合の入った顔で彼らに迫る。
「始末書ですか? それとも罰金? あ、そんなに軽くないですか? では鞭打ちの刑でしょうか? 石抱きの刑……杖刑? 背中への杖刑は痛いらしいですね……差し出がましいのですが、お尻で勘弁していただけると大変助かります」
「ちょ、お、おい引っ張るな!」
「そんなそんな遠慮しないで、さあさあ行きましょう! さあ兵士様!」
グステルはもはや兵士と腕を組み、戸惑う彼を城壁門のほうへ引っ張っている。
平然として見えるが、実はこの時彼女もさっさとこの場を離れたすぎて非常に慌てていた。
そんな積極的で強引な罪人には、兵士たちは困惑するばかりで……。
と、その時だった。
「──待ちなさい」
その涼やかな声に、兵士の腕を引いていたグステルの顔がギクリと凍る。
「もうそのくらいに」
優しげな声音は想像よりも遥かに甘く響き、途端グステルの顔が歪む。
──この声を、聞きたくなかった。
自分のものではないときめきが胸に湧き上がり、グステルはめまいを感じ、恐怖に身がすくんだ。額には玉のような汗が噴き出して。けれどもグステルの中の熱狂的な何かが、彼女がここから逃げ出すことを許さない。
そして彼女は精神の抵抗虚しく、まるで何かに操られるように声がしたほうを振り返ってしまった。
「……っ」
瞳に再び飛び込んできた、柔和な美男。
彼は豪奢な馬車の扉を侍従に開けさせて、優雅な動きで地面に降り立つ。その美しい姿から、グステルは目を離すことができなかった。
彼の青い瞳は、真っ直ぐにグステルを見ていて、ひたすらに気の毒そうであった。
慈愛と同情。
その視線はまさにそれそのものである。
……誰かが、グステルの中で歓喜し、激しく狂乱していた。